2002年 5月 31日

スチュパンチコヴォ村とその住人

投稿者 by vulcan at 18:23 / カテゴリ: / 15 コメント / 0 TrackBack

1859年(38歳)の作品
お勧め度☆
出展:「ドストエーフスキイ全集 第2巻」河出書房新社、米川 正夫訳

『ドストエーフスキイ全集』を図書館で見つけ有頂天になった。最初に読むことになった『スチュパンチコヴォ村とその住人』ははじめてみるタイトルで、そんなものが存在していたことに驚きを感じた。数ページ読みながら、幾分不安を覚えたので一体何ページあるのか調べてみると、224ページもある。文庫サイズであれば 400ページ近くになるであろうそのボリュームと題名の無名さとのコントラストが不安を増大させた。
結局不安は的中し、まさに『暇つぶし』でしかなかったことを思い知った。何が言いたいのか分からない小説ならまだ救いがある。そこには少なくとも謎があるから。謎すらない、ただの物語、くだらない童話を読んだ気がした。

2002年 5月 26日

百姓マレイ

投稿者 by vulcan at 19:20 / カテゴリ: / 9 コメント / 0 TrackBack

1876年(55歳)の作品
お勧め度☆
出展:「世界短編名作選(ロシア編)」新日本出版社、岡林 茱莫訳

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「未成年」と「虐げられた人々」は自分で持っていなかったため、図書館に借りに行くことにした。社会人になって以来初めて図書館に行ってみたが、読みたい本がいっぱいあって舞い上がってしまった。
ゴーゴリの「外套」が収められているということで「世界短編名作選」を借りることにしたが、そのあとになって「ドストエーフスキイ全集」も見つかってしまい、そちらの第2巻と併せて借りてきた。
「百姓マレイ」は田舎暮らしの10歳のころ、幻覚症状気味だった作者が「狼が来るぞ」という声を聞いてしまい、震えきって百姓マレイにしがみつき、マレイにあやされたというたったそれだけの、アネクドートとも言えない(本人もそう言っている)思い出話である。僅か6ページの中に何かの意味を読み取れないものだろうかと読み返しては見たが、老人の思い出以外に何も見つけられなかった。

マレイのところから帰ったあと、ぼくは「事件」のことを誰にも話さなかった。それに事件というほどのものでもない。マレイのこともすぐに忘れてしまった。たまに顔をあわせることがあっても、狼の話どころか、およそ口もきかなかった。それが二十年もたったいま、シベリヤであの出会いのすべてを、こんなにもはっきり、細かい線の一筋にいたるまでぼくは思い出したのだった。出会いはぼくの胸に知らないあいだに根をおろし、ぼくの意思とかかわりなく、しかるべきときに出し抜けに記憶の中に甦ったのだ。
(P99より引用)

二十年の経過ののちに突如記憶が甦るというのを今日体験したばかりであったため、何となく引用してしまった。しかしそれはアネクドートと言うべきものでもないので紹介はしない。 代わりに二十年以上前のトラウマについて話すとしよう。5歳のとき、友達(2歳)の母親が運転する車でぶどう狩りかなにかに車で向かった。助手席に母親、後部座席に自分と弟と友達の康君、妹は新生児だったから母親が抱っこしていたのかもしれない。 康君ちを出て2分もたたなかったと思う。最初のカーブでいきなり康君がドアを開けたのだ。アウト側のドアだったので、そのままドアは全開に開き危うく康君は転がり落ちるところだった。自分と弟の悲鳴に驚いた康君のお母さんが慌てて急ブレーキをかけたからよかったものの、あのときの恐怖は常に頭の片隅にある。 だから自分はドアロックが怖い。最近の車はそのほうが緊急時に脱出できるからといってロックをしない車が多い。そんな車に乗ると、高速走行時に無性にドアを開けてみたくなってしまう自分に怯えてしまうのだ。自分が運転しているときはそんな考えは思い浮かばないのだが、人が運転している車だと、考えないようにすればするほどドアロックに目が行ってしまう。ロックがされている場合には、何度も何度もロックがされていることを確認し、ロックされていない車だった場合には、慌てて手動でロックをするか、さもなければよからぬ想像をたくましくするのだ。

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2002年 5月 25日

白痴

投稿者 by vulcan at 19:08 / カテゴリ: / 8 コメント / 0 TrackBack

1868年(47歳)の作品
お勧め度☆☆
出展:新潮文庫、木村 浩訳

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「無条件に美しい人」「完全に美しい人」を描いてみせるという、ドストエフスキーの挑戦はあまりにも過酷な挑戦といえる。しかし巨匠としては立ち向かわざるを得なかったのだろう。とにかく彼は挑戦した。そのことだけでも賞賛に値するというものだ。しかし、そのような人物が果たしているのかという懐疑的な心理は、決して晴れることはなかったが。
「無条件に美しい人」というのは、結局はありえないのではないか。「無条件に美しい友情」や「無条件に美しい愛情」はあるだろう。しかし、美しさを唯一人の人物のみで表現することにはあまりにも限界があるようだ。「美しさ」には環境がとても重要な要素であることを思いがけず知ることとなったように思う。「戦争」や「地震」や「火事」といった死と隣り合わせの緊迫した環境から「野球部」や「族」や「ユニット」といった同じ目的を共有した集団まで、とにかく環境が「美しさ」を産むのである。
「白痴」を読み終えた最初の印象は、脇役達が非常に良く描かれている点に関してである。ドストエフスキーは脇役を描写する天才であるが、特にこの「白痴」ではそれが際立っている。あまりに脇役が引き立っているため、主人公のレフ・ニコラエヴィチ・ムイシュキン公爵の影が薄く感じてしまう。もちろんムイシュキン公爵はれっきとした主人公であり全編彼を中心に物語りは進んでいる。しかしながら、彼は自意識を持つことを禁じられていたため(ゼロではないが、ゼロに近い。それも自意識か、それを覆う仮面なのか判断がつきにくいものしかない。)、いつもの強烈な主人公の印象とよく描かれた脇役との絶妙なバランスというものが欠けている気がした。しかし「白痴」はとても示唆に富む長編小説であることも事実である。気がつけば24箇所も折り目をつけていたことが分かる。これらのうちどれを引用するかはゆっくり考えるとしよう。


エパンチン家の三人の娘は、いずれも健康で、はつらつとしていて、背が高かった。見事に発育した肩と豊かな胸、それにまるで男のようにしっかりした手の持ち主で、こうした体力や健康の結果として、当然のことながら、時にはなかなかよく食べることがあったが、それを隠そうともしなかった。母親である将軍夫人のリザヴェータ・プロコフィエヴナは、ときに娘達の露骨な食欲を非難するように、横目でにらむこともあったが、娘達は表面上はいかにもうやうやしい態度をとっていたけれども、現実には夫人のある種の意見などは、もはや娘達の間に以前のような絶対の権威を失ったばかりか、三人の娘で形作っている秘密会議(コンクレーヴ)の力が、ますます勢力を伸ばしてきたので、将軍夫人は自分の威信を保つためには、しいて争わずに譲歩したほうが、かえって得であると悟ったほどであった。もっとも、人間の性格というものは、それがたとえいかに良識の判断だとしても、それに耳を傾けることができない場合も少なくないものである。リザヴェータ・プロコフィエヴナも年を追ってだんだん気まぐれが激しくなり、辛抱ができなくなって、いまでは一種の変人にさえなってしまっていた。ところが、それでも、夫人の身近には素直によくならされた将軍がいたので、夫人の胸に積もり積もった鬱憤は、たいてい将軍の頭に浴びせかけられるのであった。すると、家庭の調和はまた回復して、何もかもこの上なくうまく収まってしまうのである。
(上巻P67より引用)

年頃の三人娘の典型的な家庭に思えて、その父親になるかもしれない自分としては、黙って素通りするわけにはいかない箇所であった。

「ついに生きていられるのはあと五分ばかりで、それ以上ではないということになりました。その男の言うところによりますと、この五分間は本人にとって果てしもなく長い時間で、莫大な財産のような気がしたそうです。この五分間に今更最後の瞬間のことなど思い巡らす必要のないほど充実した生活が送れるような気がしたので、いろんな処置を講じたというのです。つまり、時間を割り振りして、友達との別れに二分間ばかりあて、今二分間を最後にもう一度自分自身のことを考えるためにあて、残りの時間はこの世に名残に辺りの風景を眺めるためにあてたのです。
…(中略)…
その瞬間最も苦しかったのは、絶え間なく頭に浮かんでくる次のような想念だったそうです。《もし死なないとしたらどうだろう!もし命を取りとめたらどうだろう!それはなんという無限だろう!しかも、その無限の時間がすっかり自分のものになるんだ!そうなったら、おれは一分一分をまるで百年のように大事にして、その一分一分をいちいち計算して、もう何一つ失わないようにする。いや、どんなものだって無駄に費やしやしないだろうに!》男の言うには、この想念がしまいには激しい憤懣の情に変わって、もう一刻も早く銃殺してもらいたい気持ちになったそうですからねえ」
(上巻P109より引用)

ここはドストエフスキーが、彼自身が実際に銃殺刑に向かったときの心理描写をどうしても描く必要があると、あたためにあたためていたアネクドートだったのだろう。 彼が言いたいのは、別のところでも述べているように、人が人の生命を奪う死刑制度こそ最も極悪な殺人だということだ。そこには逃れられない死が待ち受けており、一縷の望みも抱きようがない。殺人犯に刺され息も絶え絶えの被害者でも、死ぬ瞬間まで助かる希望を抱いて死ぬはずだと彼は述べている。全ての希望を奪い去る死刑制度の最後の五分間ほど耐えられないものはないということを。実際その身を持って感じたドストエフスキーだから、重みが違うというものだ。

「あなたは優しい心遣いというものがありませんのね。ただ真理一点張りで―― そのために、不公平ということになりますわ」
(下巻P195より引用)

「無条件に美しい人」ムイシュキン公爵に対してエパンチン家の末娘アグラーヤの言った言葉であるが、意味深長である。ムイシュキンは優しさばかりがある。しかし、確かに優しい心遣いというものは無い。つまり真に優しいのであって心にも無く優しいのではない。しかし、それは全ての人に不幸を招かない処世術ではない。ある人に真に優しいということが、別の誰かを不幸にするのは大いにありえるわけで、全ての人に平等に真に優しいというのも、やはり誰か特定の人を不幸にするかもしれない。
このことは、自分も大いに悩んだ記憶がある。結局結論としては、両手で数えられるぐらいの、要は自分で面倒が見られる程度の少数の人に対してのみ優しく振舞い、あとの大多数に対しては、希望も期待も抱かせないほうが、かえって本人も不幸にならずに済むだろう、ということで、友達を選ぶにしても非常に慎重に、十本の指に入る人物かどうかをよく見極めてから付き合うようにしている。

しかしながら、それと同時に人間の理性は、こうした夢の中でしょっちゅうあらわれてくる無数の明らかな不合理や不可能事と妥協することがどうしてできるのであろう?
(下巻P248より引用)

現実世界では不合理なことや不可能事を頭から否定する人間も、夢の中では否定しない。これはどうしたことだろうか。ありうべからざることも本心ではあったとしたらどうだろうか、あってはならないこともあって欲しいといった深層心理の現れであるとしたら、人間は何枚も何枚もの理性という名の仮面をかぶって暮らしていることになるわけだ。

実際のところ、金もあり、家柄もよく、容貌も優れ、教育もあり、馬鹿でもなく、おまけに好人物でさえあり、しかもこれという才も無く、どこといって変わったところも無く、いや、変人といったところさえなく、自分の思想を持たず、まったく《世間並み》の人間であることぐらいいまいましいことはないだろう。
…(中略)…
彼らは他の全ての人々と同様、大別すると二種類に分けられる。一つは枠にはまった人々であり、もうひとつはそれよりも《ずっと聡明な》人々である。前者は後者よりも幸福である。枠にはまった平凡な人にとっては、自分こそ非凡な独創的な人間であると考えて、なんらためらうことなくその境遇を楽しむことほど容易なことは無いからである。ロシアの令嬢達のある者は髪を短く切って、青い眼鏡をかけ、ニヒリストであると名乗りを挙げさえすれば、自分はもう眼鏡をかけたのだから、自分自身の《信念》を得たのだとたちまち信じ込んでしまうのである。またある者は何かしら人類共通の善良な心もちを、ほんの少しでも心の中に感じたら、自分のように感ずる人間なんて一人もいない、自分こそは人類発達の先駆者であると、たちまち信じ込んでしまうのである。またある者は、何かの思想をそのまま鵜呑みにするか、それとも手当たり次第に本の一ページをちょっと覗いて見さえすれば、もうたちまちこれは《自分自身の思想》であり、これは自分の頭の中から生まれたものだと、わけもなく信じ込んでしまうのである。もしこんな言い方が許されるならば、こうした無邪気な厚かましさというものは、こうした場合、驚くほどにまで達するものなのである。
…(中略)…
この物語の登場人物たるガウリーラ・アルダリオノヴィチ・イヴォルギンは、後者の種類に属している。彼は全身、頭のてっぺんから足の爪先まで、独創的な人間になろうという希望に燃えてはいるが、やはり《ずっと聡明な》平凡な人の種類に属していた。しかし、この種類に属する人々は前にも述べたように、前者よりもずっと不幸なのでる。なぜなら、聡明な《ありふれた》人というものは、例えちょっとのあいだ(あるいは一生涯を通じてかもしれないが)自分を独創的な天才と想像することがあっても、やはり心の奥底に懐疑の虫が潜んでいて、それがときには、聡明な人を絶望のどん底まで突き落とすことがあるからである。たとえ、それに耐えることができたとしても、それはどこか、心の奥底へ押し込められた虚栄心に毒されてのことなのである。
…(中略)…
自分には才能が無いという深刻な自覚と、一方ではそれと同時に、自分こそ立派に自主性を備えた人間であると信じようとする押さえがたい欲求とが、すでに少年時代から絶えず彼の心を傷つけてきたのであった。彼は嫉妬心の強い、激情的な欲望を持った、生まれながらに神経のいらいらしているような青年であった。その欲望が激情的なのを、彼は欲望が強烈なのだと考えていた。頭角をあらわしたいという激しい欲望のままに、彼はどうかすると極めて無分別な飛躍を敢えてしようとすることがあった。しかも、いざそれを決行する段になると、彼はそれを決行するにはあまりに利口過ぎるということになってしまうのだった。それが彼を悩ましたのである。ことによったら、彼も機会さえあれば、自分の空想を実現するために、極端に卑劣なことをあえて決行したかもしれない。だが、土壇場まで押し詰められると、彼は極端に卑劣なことをしでかすには、あまりにも正直すぎるということが判明するのであった(そのくせ、ちょっとした卑劣なことなら、いつでも断ったりしないのだ)。
(下巻P263より引用)

世の多くの人間は平凡であり(そうでなければ平凡という言葉を当てはめるところがなくなってしまうではないか)、平凡な人間を二分すると、自分が平凡であることに気付かない人々と、自分が平凡であることを認めたくない人々に分かれる。 もちろん自分は自分自身を平凡な人間などとは思ってはいない。それどころか特別な人間とさえ思っている。己の弱さを否定するためだけに我慢もし、努力もした。しかし、自分がガンカとは違うとどうして言えよう。自分はガンカそのものではないか。嫉妬深く、激しやすく、自己顕示欲が強く、空想家で、思慮の無い行動とも移りかねない突飛なまねをしでかし、しかも臆病で、嘘がつけず、自分が利口であることばかりを責める。これほどに符合しているにもかかわらず、なおあがこうというのか。

忘れずに言っておくが、人間の行動の原因というものは、ふつう我々があとになって説明するよりもはるかに複雑な込み入ったもので、それがはっきりとしている場合は稀である。
(下巻P305より引用)

自分はくどくどと物事を書かずにはいられない。メール一通書き上げるのに3時間もかけることさえしばしばであり、以前勤めていた会社では日報が長すぎるとよく課長に嫌味を言われていた。稟議も極端に冗長であったことを思い出す。今も、大して変わっていない。単に自分にもの申せる人物が減ってしまっただけで、あいも変わらず長々とした報告書や当部見解や当社見解なるものを書き綴っている。 世の中の事象でさえとても込み入っているのだから、人間の行動は更に複雑怪奇であっても少しもおかしくない。だから、人の行動理由がはっきりしているときのほうが返って不安を増すほどである。

「愛しているというのに、苦しめているんですね!ねえ、考えてもごらんなさい、あの人が例の紛失物を椅子の下だの、あなたのフロックの中だのに置いて、あなたの目に付くようにしたということだけで、いや、その一事だけで、あの人はあなたに対して決してずるく立ち回らない、正直に謝るということを示しているんですからね。いいですか、謝ると言っているんですよ!つまり、あの人はあなたの優しい感情をあてにしているんですからね。ところが、あなたはあんな…正直この上もない人に、そんな侮辱を与えようとするなんて!」
「正直この上もない人を、公爵、正直この上もない人をですね」レーベジェフは目を輝かせながら相手の言葉を引き取った。「いや、そんな公平はお言葉を口にできるのは、公爵様、ただあなたお一人でございますよ!そのためにこそ、いろんな悪徳に腐り果てた私でございますが、崇拝といっていいくらい、あなたに信服しておるのでございますよ!では、話はもう決まりました!財布は明日とは言わず今すぐに探し出すことにいたしますよ。さあ、出て来ました。ほら、このとおり、金もそっくりそのままですよ。さあ、どうぞこいつを明日まで預かって下さいまし。明日か明後日には頂戴にあがります。ところで、公爵、どうやらこの金がなくなった最初の晩、うちの庭の石の下かなにかに隠してあったらしいんですがね、それをどうお思いになります?」
(下巻P322より引用)

最も強烈な印象を刻み込んだレーベジェフがようやく登場した。場面を少し解説するとレーベジェフの親友であるイヴォルギン将軍(ガンカの父で、金の無心と嘘をつかずにはいられなくなってしまったかわいそうな老人)が、どうやらレーベジェフの財布を盗んだ犯人らしいことが次第に明らかとなり(レーベジェフははじめから将軍を疑っていたが、将軍をその場かぎり喜ばすためだけに将軍の潔白を信じてかけらの疑念もみせず《それによって将軍と抱き合った》、そればかりか真犯人まで勝手に仕立て上げたぐらいであったが)、真綿で首を絞めるように将軍を追い詰め(彼が将軍を愛しているのは明らかだが、彼の性格はそれをせずにはいられないのである)、とうとう将軍が財布を返すためにもともとあったところに財布を置いたのである。最初はちょっと分かりにくいところに置き、それでもレーベジェフはわざと気付かないでいるので、次の日にはもう少し分かりやすいところに置き、しまいにはまったく最初と同じところに入れなおしたというのにレーベジェフは嬉々としているばかりで、それに気付いてあげようとしなかったのである。 また、レーベジェフは何度も公爵を裏切った。裏切ることが義務であるかのように裏切り続け、後になって公爵を裏切ったことを、公爵を人に売ったことを白状するのである。まるで、公爵に白状し、公爵の許しを得るためだけに公爵を裏切っているようにうつる。これほどまでに、一見するとその行動の原因が全く読み取れない人物には本の中でも出合ったことがない。 ところで、公爵一人を公平な言葉を口にできる人物とするために、自分は悪徳の限りを尽くしてきたという表現は、なんとも痛快である。

「いやじつは、私も何かそんなふうなことがいつも頭の中にちらちらしておったよ。いやいや、そんなことは断じて無いと思うのだが、何かの拍子でまたふと心に浮かんでくるのさ!」彼は妻の恐ろしい視線を浴びて、すぐ口をつぐんでしまった。ところが、口をつぐんだのは朝だけで、晩になってまた妻と差し向かいになり、またしても口を切らねばならなくなったとき、彼はいきなり一種特別な勇気を奮い起こしたように、思いもかけぬ考えをいくつか口に出した。「それにしても、実際のところどうなんだろうね?…(沈黙)。もし本当だとすれば、こりゃおかしな話だ。私は何も依存はないがね、ただ…(再び沈黙)ただ、仮に別な面からこの件を直視すればだね、公爵は、実際、いまどき珍しい若者じゃないか、それに…それに、それに――いや、その、名前だがね、うちの家名のことだがね、そうなると、目下零落しており、いわばその家名を維持するという体裁にもなることだし…つまり、世間に対してだね、いや、そういう見地から見ると、いや、つまりその…もちろん、世間がだね、そりゃ世間は世間さ。だが、それにしても、公爵だってまんざら財産が無いというわけでもないし…いや、それも大したことじゃないにしてもだよ。ただあの男には、その…その…その」(長い沈黙の末、とうとう言葉に詰まってしまう)リザヴェータ夫人は夫の言葉を聞き終ると、とうとう癇癪玉を破裂させてしまった。
(下巻P350より引用)

公爵のアグラーヤへの求婚は果たしていいことなのか悪いことなのかという不安が(何故不安なのかが今ひとつぴんときていなかったが)エパンチン家を支配しており、イワン・フョードロヴィチ将軍が、一家の主らしい落ち着いたところをみせようとリザヴェータ夫人に話しかけたのだが、返って夫人の気分を害したばかりでなく、自分が一番戸惑っていることを示すような失態を演じてしまったのである。これは、ひとえにリザヴェータを恐れていることに起因しており、息も絶え絶えに夫人に訴えている姿など涙ぐましいものである。

自分は再び自由に、アグラーヤのところへ遊びに来て、彼女と言葉を交わし、彼女と一緒にすわり、彼女と一緒に散歩できるということだけでも、彼にとっては疑いもなく幸福の絶頂であった。そして、一生涯それだけで満足していたかもしれないのだ!(ほかならぬこの満足こそリザヴェータ夫人が心ひそかに恐れていたことである。夫人は彼の人となりを見抜いていたのである。彼女は心ひそかにいろんなことを恐れていたが、それを思い切って口へ出すことはできなかったのである)
(下巻P370より引用)

リザヴェータ夫人が、娘の母親としての立場で、公爵の子供っぽい満足から、娘の不幸という結末を演繹し、不安を抱いていたことを知って意外な驚きを感じた。このことを理解すると、突飛な夫人の発言もなるほどとうなずける。つまり、それほど早い時機から夫人はこの結論を女の直感というやつで感じていたのだ。

「まあ、よく見とれていること、まるで目も離しゃしないじゃないの。あの人の言うことを、一言一言かみしめて、一言も聞き漏らすまいとしているんですからねえ!」あとになってリザヴェータ夫人が夫に言った。「そのくせ、恋をしているんだなんて言おうものなら、それこそまた大変なことになるんですからねえ!」
「仕方がないさ――そういう運命なんだから!」将軍は肩をすくめた。これからのちも長いこと、彼はしきりに、このお気に入りの言葉を繰り返したものである。ついでに言い添えておくと、もともと実務家肌の彼には、現在の状態についていろいろ気に入らぬことが多かったのである。まず何より不満だったのは、この一軒が極めて曖昧だという点であった。だが、適当な時期が来るまでは黙っていよう…リザヴェータの顔色を…読むことにしようと、彼は決心したのであった。
(下巻P371より引用)

お気に入りの言葉を繰り返す。 馬鹿の一つ覚えのように、ときにはわざと、お気に入りの言葉を繰り返すことがある。先週はなぜかFunctionプロシージャの説明をしていたときに、Functionの虜になってしまったようで、何度も何度も繰り返しFunctionと(しかも続けざまに、気が狂ったのではないかと自分で疑うほど)のたまわったものである。

「どうか私達のそばを素通りして、私達の幸福を許してください!」
(下巻P381より引用)

自分はつくづく幸せ者だと感じるときがある。それこそ自分の幸せが申し訳ないほどに感じてしまうぐらいである。これはもう少年時代から持っていた感情で、自分が利口であるのと同じぐらいに自分が幸せであることに後ろめたさを感じていたものである。

「こんなことになってから、私はどうしても我慢がならないのです。まして私はいろんなことを知っているんですからね…ロゴージンからも、ナスターシャ・フィリポヴナの女のお友達からも、ワルワーラ・アルダリオノヴナからも… ご当人の…その…ご当人のアグラーヤ・イワーノヴナからさえも、じつにいろんなことをたくさん聞いておりますのでな。こんなことはご想像もつかないことでしょうが、あのヴェーラ、私の可愛いヴェーラの手を通して、この世にたった一人の …いや、たった一人とは言えませんな、私には子供が三人ありますからな… あのリザヴェータ夫人に手紙を送って、極秘中の秘密まで知らせたのは誰だかご存知ですか?へ、へ!あの奥さんに、ナスターシャ・フィリポヴナという人物の一切の関係やら…その動静を手紙に書いてやったのは誰でしょうね、へ、へ、へ!あの匿名の人物は誰でしょうね!失礼ですがひとつお伺いしたいですな?」
「まさかあなたじゃないでしょうね?」公爵は叫んだ。
「いや、その通りでしてね」
(下巻P391より引用)

彼の意図はやはり見えない。謎が深まるばかりである。本当に公爵に許しをもらうために卑劣な行為をわざと引き起こしているというのか。彼は恐ろしく記憶力と情報収集能力が高い。この能力を正しく使えないのが哀れでならない。

「ほう!やっと冷静さを失って、びっくりしたようですね?いや、人間らしくなりたいという気になったのは、何よりですよ。その代わりに、ひとつあなたを喜ばしてあげましょうか。それにしても、
…(中略)…
ねえ、賭けをしてもいいですが、あなたが今どんなことを考えていらっしゃるか、ぼくはちゃんと知ってますよ。あなたは《例えこの男は殴る必要がないにしても、その代わり眠っているところを、枕かぬれ雑巾で絞め殺すことはできるな、いや、是非ともそうしなくちゃならんくらいだ》って考えているんでしょう… いまこの瞬間そう考えていらっしゃることが、ちゃんとその顔に書いてありますよ」
「そんなこと一度だって考えたことがありませんよ!」公爵は嫌悪の色を浮かべて言った。
(下巻P452より引用)

イポリートの「独白」は冗長で読むに耐えない代物だったが、そのときふと思ったのは(この男は公爵が自意識を禁じられた人物であるために、作者の欲求不満が溜まり、それを解消するために登場してきた人物ではないか)というものである。 結局「独白」から引用することをやめにしたので、唯一気の利いた表現を見つけたのでここを引用して彼の存在を忘れない処置を講じた。

「憐憫に値する女だというのですか?そうあなたはおっしゃりたいんですね、公爵?しかし、単なる憐憫のために、あの女の満足のために、もう一人の気高く清らかな令嬢を汚してもいいものでしょうか?
…(中略)…」
「でも、それでことは足りるんですか?」エヴゲーニイ・パーヴロヴィチは憤激して叫んだ。「『ああ、自分が悪かったんです!』と叫んだら、それでことは済むんでしょうか?悪かったと言いながら、自分ではかたくなに強情を張っているんじゃありませんか!一体そのときあなたの心は、その《キリスト教的》な心はどこにあったんです?あの瞬間のあの人の顔をご覧になったでしょう?いったいあの人はあの女よりも、二人の仲を引き裂いたあなたのもう一人の女よりも、苦しみ方が足りなかったとでも言うんですか?どうしたあなたはそれを見ていながら、あんなふうに放っておいたのです、ねえ?」
(下巻P491より引用)

公爵がアグラーヤとの結婚を間近に控え、公爵の愛に不安を抱きそれを確認しようとしたアグラーヤの行為は裏目に出て(そのほうが良かったのかもしれない)、公爵はナスターシャに乗り換えてしまった(適切な表現ではないが、自分もエヴゲーニイ・パーヴロヴィチと気分は同じである)。 全く、公爵には憤慨する。人を引っ掻き回すだけ引っ掻き回して、自分は終始頭を垂れているばかりである。責任が負えないことまで頭を突っ込んでばかりいるから不幸を招くのだ。もちろん、仮面をかぶらない人物という抽象的な存在にドストエスフキーが憧れを抱いたのはうなずける。そして、仮面をかぶった、理性に抑制された人間が必ずしも正しいとは限らないことも分かっている(むしろ全く正しくないという見解にも耳を傾ける用意はある)。しかし、そうは言っても、そうは言っても、これでは、あんまりだ!

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2002年 5月 12日

永遠の夫

投稿者 by vulcan at 19:12 / カテゴリ: / 15 コメント / 0 TrackBack

1870年(49歳)の作品
お勧め度☆
出展:新潮文庫、千種 堅訳

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「永遠の夫」はどうにも印象が薄く、一読したことがあるなどというのが信じられないぐらいである。買ったけれども読まなかったのではないかとさえ思える。今回読み返してみて、やはりほとんど初めて読んだような気持ちだった。
また、読み進めていくうちに何が主題かが分からなくなり、あとでどれを引用したものか困ったことになりそうだぞと思いながら、遂には読み終えてしまった。
しかし読み終えて安心した。
訳者が全てを解説してくれていたのだ。私の出る幕など一つも無かった。そしてこの解説にのみ読んだ記憶を認めたのだ。解説に対する解説もおかしいし、千種氏の解説はわたしの言いたかったことを全て言ってのけていらっしゃるので以下に引用して終えることにする。

ドストエフスキーの『永遠の夫』と聞けば、ロシアの大文豪の「永遠の夫」像とはどんなものであろうかと関心をそそられる読者があってもおかしくない。女性から見れば男性の理想像にほかならない「永遠の夫」を奥深い人生哲学と人間観照に根ざした天才ドストエフスキーがどのように把握し、描いているのか大いに興味をそそられるところである。あるいはその「怪物性」からどんなにか屈折した、心理的曲折に富んだ人間像が飛び出してくるだろうと多少の期待を抱きながら。
ところが実際に本書『永遠の夫』を読んでいるうちに、登場人物の屈折した心理描写はともかくとして、ドストエフスキーなりの「永遠の夫」像がはっきりしないのに歯がゆさを覚える読者も出てこよう。
もちろん「永遠の夫」が何であるかについてのくだりは無いわけではない。この作品でいう「永遠の夫」とは、男を取っかえひっかえしている淫乱な人妻の夫のことで、「生涯ただただ夫であることに終始」(本書4 妻、夫、愛人)し「ちょうど太陽が輝かずにはいられないように、妻に不貞をされずにはすまない」(同)そういう存在だという。
これでは「永遠の夫」という日本語の常識的な感覚から外れることおびただしく、いかにドストエフスキーが常識の枠を超えた巨大な存在とはいえ、素直には受け止められないところがある。
まあ、「永遠の夫」というタイトルに勝手な期待を持ったのがいけないといえば、それまでのことだが、とがめを受けるべきはやはり「永遠の夫」という日本語の訳語ではなかろうか。
ロシア語の書名はВечный муж、たしかに「永遠の夫」であり、ほかの外国語の訳語書名も日本語に訳せばこの通りの書名となっている。しかし、ロシア語の Вечныйという形容詞を使った表現を見ると、いわゆる「永遠の」という表現のほかに、「無期懲役」の「無期」とか、「万年筆」「万年候補」「万年雪」といった場合の「万年」にも使われている。
この線を押していけばВечный мужは何も「永遠の夫」というような取り澄ました訳語でなくてもいいことになる。たとえば、日本語としてはあまりなじまないのだが、「万年亭主」という訳語になっても、それほど見当違いではないだろう。
つまり、女房のほうは次々と愛人を替えて浮名を流しているのに、亭主のほうは浮気ひとつできず、いってみれば「亭主の座」にしがみつくしか能が無い。これすなわち「万年亭主」というわけである。
そうした前提に立って、この作品を読み直してみれば、妙に遠慮がちで正体不明な喪章をつけた人物も別に思わせぶりでもなんでもなくなり、読みすすむほどに、この人物こそが主人公の「万年亭主」だと納得して、興味津々たる話の運びに引きこまれて行くのである。
これが「永遠の夫」にこだわっていた日には、喪章の男トルソーツキイが主人公だと納得するのに暇がかかり、いや拒絶反応を起し、「永遠の夫」はどうでもヴェリチャーニノフでなくてはと決めてかかる破目になりかねない。そんな予断を持っていては、せっかくの名作の理解も中途半端に終わるだろう。
(P253訳者千種 堅氏解説より引用)

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2002年 5月 08日

罪と罰

投稿者 by vulcan at 19:05 / カテゴリ: / 11 コメント / 0 TrackBack

1866年(45歳)の作品
お勧め度☆☆☆☆☆
出展:新潮文庫、工藤精一郎訳

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ようやく「罪と罰」を読み返すことが出来るときが来た。そして、「罪と罰」を語るときが訪れたのだ!ドストエフスキーを語る企画を考えたのだが、「罪と罰」を語るためにこの企画を立てたといっても過言ではない。これまでの一月ばかりは「罪と罰」を語るために周到に用意されたプロローグでしかない。ようやくそのときが、つまり、機が熟したのである。これほどの幸福はめったにない。
「罪と罰」を読むのは、かれこれこれで四度目になると思う。しかし、四度目の今回でも、とても新鮮で、最高にわくわくする、完璧といってよい素晴らしい作品を読み返せた喜び以外に何も感じない。まったく完璧である。微塵の不満も無い。
それは、一つは自分の記憶力の無さに、そしてもう一つは自分の注意力の無さに起因した感動かもしれない。しかし、そんなことはどうでも良い。「罪と罰」は良いのだ。誰にも文句は言わせない。
四度目の今回は、とても素晴らしい発見があった。四度目だからできる発見であり、プロローグがあって初めて分かる発見であった。「罪と罰」は読者を異常に引き込む力がある。夢中になって頁をめくらせる力がある。何よりも展開が良い。構成が良い。心理描写が良い。その術中にはまり込むと見えにくいものが一層見えなくなる。つまり、ドストエフスキーの意図だとか、自分の知識では理解に苦しむ当時の状況や心理状態など、知らない英単語を読み飛ばして趣旨を理解して満足してしまう状況に似た、見落とした宝箱がごろごろしている。
自分は少し興奮しすぎたようだ。読み返しても何が言いたいのかさっぱり分からない。しかし敢えてこのままにしておこう。これこそ感動の表現というものだ。

「その女がよ、朝っぱらにおれんとこへ来やがったんだよ」と年上のほうが若いほうに言った。「とてつもなく早くさ、すっかりおめかししてよ。《おい、いやになれなれしいじゃないか、何だっておれにそうべたつくんだい?》と言ってやったら、言い草がいいじゃないか。《ねえ、チート・ワシーリエヴィチ、今日からあたし、あんたの思いのままになりたいのよ》だってさ。とまあ、こういうわけよ!そのめかしっ振りったら、まったく、ジャーナルだよ。ジャーナルそっくりなのさ!」
「なんだいそれぁ、兄貴、そのジャーナルってさ?」と若い方が聞いた。彼はどうやら《兄貴》にいろいろと仕込まれているらしい。
「ジャーナルか、それはな、おめえ、きれいな色の付いた絵のことよ。土曜日ごとに、郵便でさ、外国からここの仕立て屋に送られて来るんだ。つまりだな、誰がどんな服を着たらいいか、男のおしゃれはどうするか、女のおしゃれはどうするかってことが、書いてあるのさ。まあ、スケッチみたいなもんだ。男のほうはたいていすその長い外套を着ているが、女のほうときたら、おめえ、その豪勢な衣装ったら、おめえの全財産をはたいても、とても買えるしろものじゃねえよ!」
「まったくこのピーテル(訳注:ペテルブルグ)にゃ無いってものがねえんだなあ!」と若い方が嬉しそうに目を輝かせて叫んだ。「親父とお袋のほかは、何でもあるよ!」
(上巻P298より引用)

なぜ、これを引用したのか。どうしてここから引用を開始しなければならないのか。自分でも理解に苦しむ。
マルメラードフとカテリーナ・イワーノヴナの衝撃的な登場は要らないのか、老婆アリョーナ・イワーノヴナとの対決はどこへ行ってしまったのだ、そして何よりもラスコーリニコフの心理描写は、それこそ中心的課題ではないか。
これらを引用できないわけは、ひとえに引用にむかないためである。引用するには長すぎる。布石があちこちにちりばめられている。物語は完成しているのだ。それを壊す勇気は、断片化させる勇気は、自分には無い。
それではどうしてここを引用したかというと、一つは今も言ったように断片化できるからであり、《兄貴》の兄貴面や《若い方》の自分に手に入れられないものでもそれがそこにあるというだけで嬉しそうに目を輝かせるさまに心が和んだのと、《親父とお袋のほかは、何でもあるよ!》に意味深長な意図を感じさせられたためである。
どんな意図か、それは読めば分かるしそれを解説するのは野暮というものである。
が、読まない人のために敢えて付け加えると、ロシアの民にとって《親父》と《お袋》は神聖で絶対な存在であり、何物にも代えがたい存在であり、且つ抽象的な存在でさえあって、したがって、《親父》と《お袋》が無いのであれば、その他に何があろうと何もないのと代わりが無い、いや、むしろそれよりひどいということにつながるのである。

「なに?」とラスコーリニコフは目が覚めたように問い返した。「ああ…なに、その男を家へ運び込むのを手伝ったとき、血が付いたのさ…そのことですが、お母さん、ぼくは昨日実に申し訳ないことをしてしまったんです。たしかに頭がどうかしていました。ぼくは昨日、お母さんが送ってくだすったお金をすっかり、やってしまったんです…その男の妻に…葬式の費用にって。夫に死なれて、肺病で、あんまりかわいそうなんです…子供が三人、食べるものもなく…家の中は空っぽで…もう一人娘がいますが…きっと、あんな様子を見たら、お母さんだってお金をやったでしょう…でもぼくには、あんなことをする権利は全然なかったんです、だって、はっきり言いますが、あのお金はお母さんがどんな苦しい思いをしておつくりになった金か、ぼくはちゃんと知ってるんですもの。人を助けるには、まずその権利を作らなきゃいけないんです、さもないとフランスのことわざに言うCrevez, Chiens, si vous n'etes pas contents! (腹が減ったら犬でも殺せ)てことになりますよ」彼はにやりと笑った。「そうだろう、ドゥーニャ?」
「いいえ、ちがいますわ」とドゥーニャはきっぱりと答えた。
「え!じゃおまえも…そうなのか!…」と彼はほとんど憎悪に近い目で彼女をにらみ、あざけりの薄笑いを浮かべながら呟いた。「おれはそれを考慮に入れるべきだったのさ…まあ、立派だよ、お前はそのほうがよかろうさ… だが、何れはある一線に行き付く、それを踏み越えなければ…不幸になるだろうし、踏み越えれば…もっと不幸になるかもしれん…でもまあ、こんなことはくだらんよ!」
(上巻P393より引用)

ここははっきり言ってラスコーリニコフの言ってる意味が理解できない。心理は理解できる。しかしそれで満足していいのだろうか。
《おまえも…そうなのか!》は慈悲を施すには権利など必要ないしそもそも無関係であるという考え方をドゥーニャも持っていることを知って(おそらく予想していたが)、憎悪を覚えたのだろう。しかし奇麗事を言ってられないぎりぎりの境地に立ったとき、果たしてお前は迷うことも苦悩することもないかな?という、妹をさげずんだ心理が見え隠れする。
しかし、果たしてこの解釈でよいのだろうか?狂気じみたラスコーリニコフを解釈するには四度の読み返しではまだ足りないのかもしれない。

「なんのために?それがぼくにも分からないんです。だがぼくにはありのままの事実を語ったということ、それは確かです!あなたは実に汚らわしい、罪深い男だ。ぼくは決して間違っていません、その証拠にあの時すぐに、つまりぼくがあなたに感謝して、あなたの手を握り締めたあのときにですね、このことについて一つの疑問が頭に浮かんだのを、はっきり覚えているんです。一体何のためにあなたが彼女のポケットにそっと忍ばせたのか?つまり、どうしてそっとでなければいけないのか?ぼくが反対の信念を持ち、社会悪の根を少しも摘み取ることの出来ない個人的慈善を否定することを知っているから、ぼくに隠そうとした、ただそれだけのことだろうか?そう考えてきて、ぼくはあなたはこんな大金をやるのがほんとにぼくに恥ずかしいのだろう、と解釈したわけです。さらに、ひょっとしたら、思いがけぬ贈り物をして、家へ帰ってからポケットに百ルーブリも入っているのを見て、びっくりさせてやろうと思ったのかもしれない、とも考えてみました(ぼくも知ってますが、慈善家の中にはこんなふうに自分の善行を粉飾するのがひどく好きな連中がいるものです)。さらに、あなたは彼女を試そうとした、つまり彼女がそれを見つけて、お礼を言いに来るかどうかを見ようとしたのかもしれない、とも考えました。あるいはまた、お礼を言われるのを避けたいのかもしれない、その、いわゆる右手にもしらむべからず、というわけでね… 要するに、まあいろいろ考えてみましたよ…ほんとに、あのときは次々といろんな考えが浮かんでくるので、後でゆっくりそれらを検討してみることにしたんですが、それでもやはり、この秘密を知っていることをあなたに打ち明けるのは、慎みがなさ過ぎると思いました。しかしそう思う裏から、すぐに、ソーフィヤ・セミョーノヴナが、気が付く前に、運悪く金を紛失しないとも限らない、という不安が沸いたのです。それでぼくはここへ来て、彼女を呼び出し、ポケットに百ルーブリ紙幣を入れられたことを教えてやることに決めました。その前にちょっとコブイリャトニコーワ婦人の部屋に立ち寄って、《実証的方法論概説》を渡し、特にピデリットの論文(ワグネルのものですが)を読むように薦めて、それからここへ来たわけですが、来てみるとこの騒ぎです!いいですか、あなたが彼女のポケットに百ルーブリ紙幣を入れたのを、ぼくが実際に見ていなかったら、ですよ、ぼくはこうした全ての推論や考察を持つことができたでしょうか、できたでしょうか?」
アンドレイ・セミョーノヴィチは長い考察を述べ終わり、いかにも明快な論理的結論で言葉を結ぶと、がっくり疲れて、顔には大粒の汗さえ噴き出した。かわいそうに、彼はロシア語でさえ満足に説明ができなかったのである(もっとも、他の言葉は何も知らないが)。それで彼はこの弁護士としての功績を果たした後は、一時にすっかり消耗してしまって、急にげっそり痩せたようにさえ見えた。
(下巻P220より引用)

『白夜』のコメントで述べたように、自分もこのように考察するのが好きである。考察せずにはいられないといってもよい。それはシミュレートであったり、違う形をとったりするのだが、考察して論理的結論を導くのがとても楽しくて仕方がない。 アンドレイ・セミョーノヴィチの考察の事実という証拠によって、ソーニャが百ルーブリをくすねたという嫌疑が晴れたわけだが、考察が証拠になるという思いがけない展開と、考察の妙味を味わい深く表現しているところが気に入って長々と引用してしまった。

「ぼくたちは別々な人間だ…ねえ、ソーニャ、ぼくは今になって初めて、いまやっとわかったんだよ、昨日きみをどこへ連れて行こうとしたのか?昨日、君を誘ったときは、まだ自分でもどこへ行くのか分からなかった。きみに見捨てられたくない、ただその一心できみを誘い、ただその一心でここへ来たんだ。ぼくを見捨てないでね、ソーニャ?」
ソーニャはラスコーリニコフの手を強く握り締めた。
「でも、何のためにおれは、何のためにこの女に言ったんだ、何のためにこの女に打ち明けたんだ!」一分ほどすると、限りない苦悩にぬれた目で彼女を見守りながら、彼は絶望的に叫んだ。「今きみは、ぼくの説明を待っているんだね、ソーニャ、じっと座って、待っているんだね、ぼくにはそれが分かるよ、だが、ぼくは何を言ったらいいんだ?説明したって、君には何も分かるまい、ただ苦しむだけだ、苦しみぬくだけだ…ぼくのために!ほら、君は泣いてるね、まだぼくを抱きしめてくれる。――ねえ、きみはどうしてぼくを抱きしめてくれるんだ?ぼくが一人で耐え切れないで、《きみに苦しんでくれ、そうすればぼくも楽になる!》なんて虫のいいことを考えて、苦しみを分かつために来たからか。え、きみはそんな卑劣な男を愛せるのか?」
「だって、あなただって苦しんでるじゃありませんか?」とソーニャは叫んだ。
またあの感情が波のように押し寄せて、また彼の心を一瞬和らげた。
「ソーニャ、ぼくはずるい心があるんだよ。それを頭においてごらん、いろいろなことがそれで分かるから。ぼくがここへ来たのも、ずるいからだよ。こうなっても、来ない人々だっているよ。だがぼくは臆病で…卑怯な男なんだ!でも…そんなことはどうでもいい!そんなことじゃないんだ…話さなくちゃならんのだが、うまく言い出せない…」
(下巻P247より引用)

彼の苦悩が伝わってくる。しかしその苦悩とは一体何なのか。真にそれを理解するにはロシア正教徒に改宗しなければ不可能なのかもしれない。 己の弱さを認め、そこに甘んじることが卑怯であろうか。確かに卑怯と言う者もいよう。彼の思想の立場にたてば、己を許すことなど、甘やかすことなど、できるはずがない。自分自身について、完全に自分ひとりで責任を取る必要がある、自分のまいた種は自分でけりをつけねばならない、それに耐えられない自分を卑怯とののしっているわけだが、果たして耐えられる者などいるのだろうか?

「いや、ソーニャ、あれはそうじゃないんだよ!」と彼は、自分でも思いがけぬ考えの変化に驚いて、また心が高ぶってきたように、急に顔を上げて、またしゃべりだした。
「そうじゃないんだよ!それよりも…こう考えてごらん。(そうだ!確かにそのほうがいい!)つまり、ぼくという男はうぬぼれが強く、妬み深く、根性がねじけて、卑怯で、執念深く、その上…さらに、発狂の恐れがある。まあそう考えるんだね。(もうこうなったらかまうものか、ひとおもいにすっかりぶちまけてやれ!発狂のことは前にも噂になっていた、おれは気付いていたんだ!)さっき、学資がつづかなかったって、きみに言ったね。ところが、やってゆけたかもしれないんだよ。大学に納める金は、母が送ってくれたろうし、はくものや、着るものや、パン代くらいは、ぼくが自分で稼げただろうからね。ほんとだよ!家庭教師に行けば、一回で五十コペイカになったんだ。ラズミーヒンだってやっている!それをぼくは、意地になって、やろうとしなかったんだ。たしかに意地になっていた。(これはうまい表現だ!)そしてぼくは、まるで蜘蛛みたいに、自分の巣に隠れてしまった。君はぼくの穴ぐらへ来たから、見ただろう… ねえ、ソーニャ、君にも分かるだろうけど、低い天井と狭い部屋は魂と頭脳を圧迫するものだよ!ああ、ぼくはどんなにあの穴ぐらを憎んだことか!でもやっぱり、出る気にはなれなかった。わざと出ようとしなかったんだ!何日も何日も外へ出なかった、働きたくなかった、食う気さえ起きなかった、ただ寝てばかりいた。ナスターシヤが持ってきてくれれば――食うし、持ってきてくれなければ――そのまま一日中寝ている。わざと意地を張って頼みもしなかった!夜は明かりがないから、暗闇の中に寝ている、ろうそくを買う金を稼ごうともしない。勉強をしなければならないのに、本は売り飛ばしてしまった。机の上は原稿にもノートにも、今じゃ埃が一センチほども積もっている。ぼくはむしろ寝転がって、考えているほうが好きだった。どんなって、言ってもしようがないよ!ところが、その頃からようやくぼくの頭にちらつきだしたんだ、その…いや、そうじゃない!ぼくはまたでたらめを言い出した!実はね、その頃ぼくは絶えず自分に尋ねていたんだ、どうしてぼくはこんなに馬鹿なんだろう、もし他の人々が馬鹿で、その馬鹿なことがはっきり分かっていたら、どうして自分だけでももっと利口になろうとしないのだ?そのうちぼくはね、ソーニャ、みんなが利口になるのを待っていたら、いつのことになるか分からない、ということが分かったんだ…それから更にぼくは悟った、絶対にそんなことにはなりっこない、人間は変わるものじゃないし、誰も人間を作り変えることはできない、そんなことに労力を費やすのは無駄なことだ、とね。そう、それはそうだよ!… それでぼくは分かったんだ、頭脳と精神の強固なものが、彼らの上に立つ支配者となる!多くのことを実行する勇気のあるものが、彼らの間では正しい人間なのだ。より多くのものを蔑視することのできる者が、彼らの立法者であり、誰よりも実行力のあるものが、誰よりも正しいのだ!これまでもそうだったし、これからもそうなのだ!それが見えないのは盲者だけだ!」
(下巻P251より引用)

ここは、自分の考え、感情を表せばおそらくこういう表現にもなりえようと思ったため、自己の代弁として引用することに決め、そっと頁を折って印をつけたのだ。

「いや、話さなかった…言葉では。でも、母さんはいろいろと悟っていたよ。夜お前がうなされているのを、聞いたんだよ。もう大体は分かっていると思うよ。寄ったのは、まずかったかもしれない。まったく、何のために寄ったかさえ、ぼくには分からないんだよ。ぼくは下劣な人間だよ、ドゥーニャ」
「下劣な人間、だって苦しみを受けようとしてるじゃありませんか!ほんとに、行くのね?」
「行くよ。今すぐ。ぼくはこの恥辱を逃れるために、川へ身を投げようとしたんだよ、ドゥーニャ、だが橋の上に立って水を見たときに、考えたんだ、今まで自分を強い人間と考えていたのじゃないか、今恥辱を恐れてどうする」と彼は先回りをして、言った。「これが誇りというものだろうな、ドゥーニャ?」
「誇りだわ、ロージャ」
彼のどんよりした目に一瞬火花がきらめいたようだった。まだ誇りがあることが、嬉しくなったらしい。
「水を見て怖気づいただけさ、なんて思わないだろうね、ドゥーニャ?」と彼は醜い薄笑いを浮かべて、彼女の顔を覗きこみながら、尋ねた。
「おお、ロージャ、よして!」とドゥーニャは悲しそうに叫んだ。
(下巻P433より引用)

ラスコーリニコフに残された選択肢は、自殺をするか、さもなければ外国へ逃亡するかだ(しかしその金は無い)とスヴィドリガイロフに告げられて、怯え、長い時間の経過によってすっかりあきらめの境地に立とうとしていたドゥーニャは、《水を見て怖気づいただけさ、なんて思わないだろうね》という彼の言葉で、彼の自尊心が彼を苦しみぬいていることを悟ったはずだ(そんなことはもうすっかり分かっていたけれど、まるで動かしようの無い事実を突きつけられたかのような言葉によって)。だから《おお》なのである。 ところで、四度目にして強くその重要性、存在意義を感じたスヴィドリガイロフについて何も引用しないで終わろうとしている。そこで彼については、ここで少しコメントしようと思う。 評論家の間では、彼は絶望的ニヒリストという位置づけとなっている。このことを自分はよく理解できなかった。また、何故彼があのような行動、思考をとらなければならないのかとんと合点がいかなかった。しかし、今回、彼の《自分は終わってしまった人間である》という表現が鍵になっているのではないかと感じた(あれ、これはポルフィーリイ・ペトローヴィチの言葉だったっけ?そういえばポルフィーリイ・ペトローヴィチについても何も引用せずに終わりそうだぞ。いや、そんなことは今はどうでもいい。それにこの言葉がポルフィーリイの言葉であろうとなかろうと、そんなことはどっちだっていいのだ。ちぇっ、また自分の記憶力の無さを露呈してしまった。確かにポルフィーリイも終わった人間かもしれないが、スヴィドリガイロフこそ終わった人間なのさ。だから彼の言葉にしてしまったって別に構わないではないか)。 老いとその自覚、それこそがニヒリストを生み出す源であり、無信仰がそれに拍車をかける。となると現代、とりわけ日本の現代はニヒリストのるつぼとなってしまうが、そうでないとも言い切れまい。

「これが、つまり十字架を背負うということのシンボルか、へ!へ!まるでこれまでぼくが苦しみ足りなかったみたいだ!糸杉の十字架、つまり民衆の十字架か。銅の――それがリザヴェータのか、君が自分でかけるんだね、 ――どれ、見せてごらん?じゃああの女はこれをかけていたのか…あのとき?ぼくはこれと同じような二つの十字架を知ってるよ、銀のとちっちゃな聖像だった。あのとき老婆の胸の上に捨ててきたんだ。うん、そう言えば、あれを今、そうだ、あれを今つけりゃいいんだ…それはそうと、ばかなことばかりしゃべって、用件を忘れている。どうも気が散っていかん!… 実はね、ソーニャ、――ぼくは、君に知っておいてもらおうと思って、わざわざ寄ったんだよ…なに、それだけさ…それで寄っただけなんだ(フム、しかし、もっと話すことがあったような気がしたが)、だってきみは自分で勧めたじゃないか、自首しろって、だから今からぼくが監獄に入り、きみの願いがかなえられるって訳だよ。一体どうしてきみは泣いているんだ?きみまで?よしてくれ、もういいよ。ああ、こういうことがぼくにはたまらなく辛いんだ!」
しかし、不憫に思う気持ちが彼の中に生まれた。ソーニャを見ていると、彼は胸がつまった。《この女が、この女が、何を?》と彼は密かに考えた。《おれがこの女の何なのだろう?この女はどうして泣いているのだ、どうしておれの世話をするのだ、母かドゥーニャみたいに?おれのいい乳母になるだろうよ!》
「十字をお切りになって、せめて一度でもいいからお祈りになって」とソーニャはおどおどした震え声で頼んだ。
「ああ、いいとも、何度でもきみのいいだけ祈るよ!素直な心で祈るよ、ソーニャ、素直な心で…」
彼は、しかし、何か別なことを言いたかった。
彼は何度か十字を切った。
(下巻P443より引用)

この後しばらくしてエピローグが用意されている。この物語が完成しているのはエピローグの存在によると自分は考える。確かにラスコーリニコフ、ソーニャ、ドゥーニャ、母プリヘーリヤ、ラズミーヒン、ルージン、マルメラードフ、カテリーナ、スヴィドリガイロフ、ポルフィーリイといった数々の主要な人物を余すところ無く描写しているところなど完璧と言っていいが、エピローグによって、新たな物語の始まりを予感させたところにこそ、この物語の完成度の全てがあるように思える。 これまでの彼の作品は暗い結末で終わる。後味悪く後ろめたさが残る。それは彼が現実を逃避した口先だけの希望を安易に認めないし与えないという強い信念に基づいていたのであろう。もちろん物語がこれで終わりではないことを暗示して終わっている作品もかなりある。しかし、それらの話を打ち切ったのは、話すべきほどの物語ではないことを彼が知っていたからであり、それは読者にも伝わった。主人公は終わってしまった(肉体は滅びなくとも)。だから話も終わってしまったのだ。しかし、ここでは彼は希望を与えた、エピローグによって。それはラスコーリニコフが苦悩を十分に受け、十字架を背負いきったご褒美であろう(ナウシカのように)。ご褒美という気持ちはおそらく無かったと思うが、しかしそれに近いある種の満足がエピローグを書かせたのであろう。

四度目の「罪と罰」までは、なぜドストエフスキーが「罪と罰」を書こうとしたのか、書かざるを得なかったのか、構想をずっと暖めていたことなど思いも及ばなかった。
しかし四度読んでみると、確かに「罪と罰」は彼の実体験に基づいており、決して空想によってひょっこり出来上がった小説ではないことを知る。ドストエフスキーが殺人を起こさなかったのは単に運がよかったに過ぎず、めぐり合わせであるとまで言える。
ペトラシェフスキー事件前夜の彼の思考は、ラスコーリニコフに近い、自分自身でさえ自分が信じられないほどに極度の精神分裂状態にあったのではないかと思える。彼にはソーニャやドゥーニャはおらず、母も幼い時分に無くしてしまった事を考えると確かに空想ではあるが、当時彼の頭の中にはそうした人物が存在していたのであり、そういう意味では実体験と表現しても構わないのではないか。なによりも、彼は人間の心理描写こそリアリズムであると考えていたではないか。であればなおさらであろう。

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