2004年 7月 28日

精一杯生きること

投稿者 by vulcan at 00:16 / カテゴリ: 駄文 / 0 コメント / 0 TrackBack

これまで私は精一杯生きてきましたが、精一杯生きるということはどういうことだろうとふと疑問に思いました。

自分を限界まで追い込んで、常に一杯一杯なところで生き、向上心をもって限界を拡大していくことが精一杯生きるということでしょうか。確かにこれも一理あるとは思いますが、限界などというものが果たしてあるのでしょうか?

限界とは常に主観的に決まるものであって、自分がここで限界と思ったらそこが限界なわけで、とすると屁理屈のようですが誰しも限界まで精一杯生きていることになるわけです。

つまり、人間は精一杯生きるようにできているわけで、生きているということは常に精一杯なのです。

人それぞれ、またその時々の調子に合わせて、できる限りのことをやって生きているわけで、傍目にはダラダラしている様に見えても本人にとってはそのときの調子にあわせた精一杯の行動であり、本人がまだまだ頑張れるのに頑張れていないと思うとしたら、それは調子の良かったときの自分あるいは理想の自分をイメージしすぎている影響であり、今置かれた状況の範囲内で自分が精一杯生きているということを認識してよいはずです。

もちろん、限界を感じてからさらに一歩踏み出す努力は賞賛に値します。そうした努力に対してはそれ相応に報いるべきでしょう。しかし、そうした後一歩を踏み出せないでいるとしても、やはり生きているということ自体が一杯一杯で頑張っていることには違いないわけで、まずはそれを評価するべきなのではないでしょうか。

人はそれぞれ持って生まれた才能、覚えが早い、勘が良い、数学が得意、語学が得意、人望が厚いといった特徴を捉えて評価したり、それらの能力をどれだけ発揮しているかを測ったり、それぞれの限界に挑戦し限界を超えた者を賞賛しがちで、そうしたものを持ち合わせていない者を否定的に見ます(自分を含めて)。

今日まで自分は、自分及び自分の周りがもっぱら精一杯生きている人間だけで構成されていることを鑑み、自分がそうした人種を呼び寄せているのか、自分がそうした人種に吸い寄せられているのか、自分の影響で周りがそうなるのか、いずれかだろうと思っていました。

ある意味では正しい面もあるかもしれませんが、やはり、本質を捉えていなかったように思います。誰しも精一杯生きているのであり、精一杯生きているかどうかは他人の主観で判断するのではなく、本人の主観で判断すべき、いや、主観など入り込む余地はなく、『生きている=精一杯』なのです。

ところで、一杯一杯ということは、飽和の一歩手前です。一つ間違えるとコップの水は溢れ出します。限界を破り、限界を拡大することに挑戦し続けることは危険と裏腹にあるし、誰しも一杯一杯なのだから、やはり誰しも参ってしまう可能性を持っているのです。このことは肝に銘じておく必要があると思いました。

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