2004年 9月 19日

カラマーゾフの兄弟

投稿者 by vulcan at 19:21 / カテゴリ: / 8 コメント / 0 TrackBack

1879年(58歳)
お勧め度☆☆☆☆☆
出展:新潮文庫、原 卓也訳

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カラマーゾフの兄弟はドスト氏の予定では父親が殺され、兄が裁判にかけられるアリョーシャの青年時代を第1部とし、アリョーシャが30代後半になったころを第2部として描く二部作とする予定だったようだ。1881年60歳で没したため、第2部はついに着手されずに終わってしまった。多くの方が言うように、第1部だけでもほとんど物語りは完成しており、ドスト氏の思想はほとんど言い尽くされているといっても過言ではなく、第2部が必ずしも必要かどうかはわからない。しかし、あまりにもエゴのないアリョーシャはつかみ所がなく、第2部でどういう人物として描かれるのか興味があるし、第2部を通してようやく印象に残る人物となるのではないだろうか。第1部では、完全に自分をさらけ出した兄ドミートリイ・カラマーゾフとコーリャ少年だけが印象深い人物像として記憶に刻まれたが、その他の登場人物たちは、第2部での違った側面を見ることでより一層記憶に残るような気がするので、未完で終わったのは残念でならない。聞くところによると、第2部では、アリョーシャ・カラマーゾフが修道院を出て、リーザとの愛に傷つき、革命家になって皇帝暗殺の計画に加わり、断頭台にのぼることになったという説があるようで、あのアリョーシャが皇帝暗殺に向けてどう変わっていくのか、想像が尽きない。
とにかく、カラマーゾフの兄弟はドスト氏の最高傑作といってよいことは間違いなかろう。これを蔵書の読み返しのなかで最後まで取っておいたことは、なかなか良い判断だったと思う。

これらの問題の解決に窮したので、わたしはいっそ何の解決も出さずに済ますことに決めた。もちろん、明敏な読者はわたしがそもそもの最初からそういう腹でいたことを、もうとうに見抜いて、なぜわたしが意味もなく空疎な言葉や貴重な時間を費やしているのかと、腹を立てておられたにちがいない。それに対してなら、わたしはもう、きちんと答えられる。わたしが空疎な言葉や貴重な時間を費やしたのは、第一に、礼儀の念からであり、第二には、やはりあらかじめ何かしら先手を打っておこう、という老獪さからである。とはいえ、わたしは、自分の小説が『全体としては本質的な統一を保ちながら』ひとりでに二つの話に分かれたことを、むしろ喜んでさえいるほどだ。最初の話を読めば、第二の話に取り掛かる価値があるかどうか、あとは読者が自分で決めてくれるだろう。
(上巻P11より引用)

ドスト氏も自分が老獪であることを認めているわけだ、とほくそえみながらページに折り目をつけていたのだが、『カラマーゾフの兄弟』が、これだけで非常に完成度の高い小説であるのに、氏は第1部と位置付けていたのであり、第2部の構想を持っていたことがうかがえる重要な箇所でもあると後で思った。

このマルファという女は、決しておろかでないばかりか、ことによると夫より利口かもしれなかったし、少なくとも実生活の面では分別が豊かだったが、それでも結婚生活の一番最初から不平一つ、口答え一つせずに夫に従い、夫の精神的優越を認めて文句なしに尊敬していた。特筆すべきことに、二人はこれまでの一生、ごく必要な目先のこと以外は、互いにほとんど口をきかなかった。重々しく威厳のあるグリゴーリイが、自分の仕事や心配事はいつも一人で考えてくれるので、マルファはとうの昔から、自分の助言など必要ないのだと、きっぱり割り切っていた。自分の沈黙を夫が喜び、むしろそこに知恵を認めてくれているのを、彼女は感じていた。
(上巻P177より引用)

静かな二人で、ほとんどセリフがない(マルファはゼロではないか?)が、存在感のある二人である。沈黙に知恵があるという表現が気に入った。

「彼女と、それから親父のところへだって!ほう!まさに、どんぴしゃりだ!だってさ、俺がお前を呼ぼうとしたのは何のためだと思う。俺がお前に会いたがり、心のひだというひだ、肋骨という肋骨でまでお前を求め、渇望していたのは、何のためだと思う?まさしく、お前を親父のところへ、そのあと彼女、つまりカテリーナ・イワーノヴナのところへ使いにやって、それで彼女とも親父ともけりをつけるためなんだぜ。天使を派遣するってわけだ。だれをやってもいいようなもんだが、俺としちゃ、ぜひ天使に行ってもらう必要があったんだよ。それなのに、お前が自分から彼女と親父のところへ行ってくれるとはな」
「ほんとに僕を使いにやるつもりだったの?」病的な表情を顔にうかべて、アリョーシャが口をすべらした。
「待てよ、お前はそのことを知っていたのか。見たところ、お前はすぐに何もかもさとったらしいな。でも、黙っていてくれ、今のところ黙っていてくれよ。憐れむなよ、泣かんでくれ!」ドミートリイは立ちあがり、考えこんで、額に指をあてた。
「彼女の方からお前を呼んだんだな、手紙か何かよこしたのか、だからお前だって行くんだろうに、でなけりゃお前が行くはずないものな?」
「これが手紙ですよ」アリョーシャはポケットから手紙を出した。ドミートリイはすばやく走り読みした。
「これで裏道づたいに来たというわけか!ああ、神さま!弟を裏道づたいに来させて、私に出会わせてくださって、ありがとうございます。ちょうどおとぎ話の黄金の魚が年取ったばかな漁師の網にかかったように。いいかい、アリョーシャ、きいてくれ。今こそ俺はもう何もかも話すつもりでいるんだ。せめて誰かに言っておく必要があるんだよ。天上の天使にはもう話したのだが、地上の天使にも話しておかなけりゃ。・・・(略)」
(上巻P196より引用)

ドミートリイが興奮状態で、何を言っているのか何を暗示しているのかよく分からなかったが、かなり印象深いシーンである。後々になってこのときのドミートリイの心理状態が明らかになるとどのセリフも合点がいき、全てがドスト氏によって計算されていたことに気がつく。

「ちょっと待った!」フォードルがすっかり熱中して金切り声を上げた。「すると、山を動かすことのできる人間が二人はいるのか。お前もやはりそういう人間はいると思うんだな?おい、イワン、おぼえておけよ、書きとめておくといい、まさにここでロシア人が顔をのぞかせたな!」
「その指摘はまさに正しいですね、これは信仰における民族的な一面ですよ」肯定の微笑をうかべて、イワンが同意した。
「お前も同意するか!お前が同意なら、つまり、それにちがいないんだ!アリョーシカ、本当だろう?まさにロシア的な信仰だろうが?」
「いいえ、スメルジャコフのは、全然ロシア的な信仰じゃありませんよ」アリョーシャが真顔できっぱりといった。
「俺はこいつの信仰のことを言ってるんじゃない、こういう一面を言ってるんだよ、二人の隠者という、まさにその一面だけを言っているのさ。どうだ、ロシア的だろう、ロシア的だろうが?」
「ええ、そういう面は全くロシア的ですね」アリョーシャが微笑した。
(上巻P347より引用)

無神論者も心の奥深いところでは神を信じたい気持ちを持っている。キリストの言っているような山を動かすことなど誰も出来ないが、それでも山を動かせる人間が二人だけはいるということまでは否定しない。こうした一面は確かにロシア的な気がする。

「(略)・・・イワン、答えてみろ、神はあるのか、ないのか?いや、ちょっと待て、ちゃんと言うんだぞ、まじめに言えよ!どうして、また笑ってるんだ?」
「僕が笑ったのは、山を動かすことのできる隠者が二人は存在するというスメルジャコフの信念に対して、さっきお父さん自身、機知に富んだ批評をなさったからですよ」
「それじゃ、今もそれに似てるっていうのか?」
「ええ、とてもね」
「と、つまり、俺もロシア人で、俺にもロシア的な一面があるってわけか。しかし、哲学者のお前にだってそういう一面は見つけられるんだぞ。なんなら、見つけてやろうか。賭けたっていい、明日にでも見つけてやるさ。とにかく答えてくれ。神はあるのか、ないのか?ただ、まじめにだぞ!俺は今まじめにやりたいんだ」
「ありませんよ、神はありません」
「アリョーシカ、神はあるか?」
「神はあります」
「イワン、不死はあるのか、何かせめてほんの少しでもいいんだが?」
「不死もありません」
「全然か?」
「全然」
「つまり、全くの無か、それとも何かしらあるのか、なんだ。ことによると、何かしらあるんじゃないかな?とにかく何も無いってわけはあるまい!」
「全くの無ですよ」
「アリョーシカ、不死はあるのか?」
「あります」
「神も不死もか」
「神も不死もです、神のうちに不死もまた存するのです」
「ふむ、どうも、イワンのほうが正しそうだな・・・(中略)・・・イワン、最後にぎりぎりの返事を聞かせてくれ、神はあるのか、ないのか?これが最後だ!」
「いくら最後でも、やはりありませんよ」
(上巻P253より引用)

自分があると信じたい気持ちである以上、何もないってわけはあるまい、というかなり強引な理屈が受け入れられるところがロシア的な気がするし、そういう広大な大地に育まれた野性的な性格がうらやましく思う。

「(略)・・・とうとうあたし、ラブ・レターを書いてしまいました。・・・(略)」
(上巻P304より引用)

ラブ・レターの中に『ラブ・レターを書いてしまった』ことを触れるという技法は、ドキドキする気持ちをより一層高めてくれるような気がする。

「アリョーシャ、あなたは将来あたしの言いなりになってくださる?このことも前もって決めておく必要があるの」
「喜んで、リーズ、必ずそうしますよ、ただ一番大切な問題は別ですけどね。一番大切な問題に関しては、もしあなたが同意なさらなくとも、僕は義務の命ずるとおりに行います」
「それでなければいけないわ。だから知っておいていただきたいの、あたしもそれとは反対に、一番大切な問題であなたに従うだけじゃなく、どんなことでもあなたに譲歩するわ、そのことは今はっきり誓います、どんなことでも一生涯」
(上巻P421より引用)

気性が激しく、高慢な女性もまたロシアの大地が育むのだろうか。

「(略)・・・いいかい、もう一度はっきり断言しておくが、人間の多くの者は一種特別な素質を備えているものなんだ――それは幼児虐待の嗜好だよ、・・・(略)」
(上巻P464より引用)

幼児虐待が今に始まったものではなく、人間の歴史上常に存在していたということに驚愕した。

それにしても、もし今書いたこの若い官吏とまだそれほど年でもない未亡人との異常な出会いが、のちにこの正確で几帳面な青年の出世の足がかりとなったりしなければ、私とてこんな瑣末な、エピソード的な細事を詳しく述べたりしなかったであろう。この話はいまだにこの町では驚嘆まじりの思い出の種になっているし、ことによるとわれわれも、カラマーゾフの兄弟の長い物語をしめくくったあと、特に一言触れるかもしれない。
(中巻P354より引用)

ペルホーチンとホフラコワ婦人という脇役について、ドスト氏が後に語るかもしれないと暗示をしていることが非常に興味をそそる。カラマーゾフの兄弟は1500ページほどの巨大長編であるが、それでもまだ第1部であり、第2部に関する構想を氏が持っていたことが随所に見受けられる。ここもそうした一つである。カラマーゾフの兄弟は、これだけで十分完結している。もしかすると、第2部は読者が想像して作り上げるものとして氏はあえて書かずに暗示だけしておく方が良いと判断したかもしれない。全てを書き尽くすよりも読者の裁量に委ねるという、日本人的な発想かもしれないが、巨匠がそうした域に達していたことは十分に考えられる。

ついでに、言及するのを忘れていたが、読者もご存知の退役二等大尉スネギリョフの息子であるイリューシャ少年が、学校友達に《へちま》とからかわれた父親をかばって、ペンナイフで腿を突き刺した相手の少年こそ、このコーリャ・クラソートキンであった。
(下巻P18より引用)

まるで、別の物語が突然始まったかのような出だしでコーリャが紹介され、だれなんだこいつは?これほど仔細に記述するからにはそれなりに重要な人物なんだろうが、なぜ下巻まで一切登場しなかったんだろう?という疑問を突然解決してくれた。巨匠の老獪さがうかがえる。

「ええ、たしかに!万歳!あなたは予言者だ!ああ、僕達は仲良くなれますね。カラマーゾフさん。実はね、何よりも僕を感激させたのは、あなたが僕をまったく対等に扱ってくれることなんです。でも、僕達は対等じゃない、違いますとも、対等どころか、あなたの方がずっと上です!だけど、僕達は仲良くなれますね。実はこのひと月というもの、僕はずっと自分にこう言いつづけていたんです。『僕達は一編で永久の親友になるか、さもなければ最初から、最後までの仇敵として袂を分かつか、だ』って」
(下巻P94より引用)

頭が極めて良く、思いやりがあり、度胸もある、それでいて嫌味がなく、大人と軽口をたたく、完璧な少年である。小説の中でしか存在し得ないような完璧を備えた少年なら、どの本でも登場するが、これほどリアリズムを追及した完璧な少年はなかなかお目にかかれない。ドスト氏の最高傑作な脇役と言えそうだ。『白痴』では最も美しい人を描くことに失敗したと考えられるが、このコーリャ少年こそ最も美しい人という称号にふさわしいのではないだろうか。

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