2006年 9月 30日

万年青(おもと)

投稿者 by vulcan at 23:12 / カテゴリ: 雑感 / 0 コメント / 0 TrackBack

Bianが水泳に目覚め、今日もプールに行きたいと言うので、こてはし温水プールに行ってきました。

朝食後、とりあえずいつものように布団に掃除機を当て、なんやかんやと準備をしていたら、12時前。子供二人を自転車に乗せて、花見川サイクリングロードをぶっ飛ばし、神場公園を越えたところで東に向かい、40分ぐらいでつきました。普通に行けば1時間の距離かと思います。

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こてはし温水プールは、2時間で大人300円、小学生以下100円(1歳から)で、非常に安くて気に入っています。施設は、流水プール(100センチ?)と大滑り台、幼児用プール(30センチ)、子供用プール(90センチ)、25メートルプールがあり、かなり充実しています。プール用オムツでの水泳は禁止されています。

Bianは、すっかり自信を付けたようで、今日は流水プールで4メートルほど泳げるようになりました(流れているからだけど)。Hikaruも流水プールを足入れ浮き輪で泳ぐのが大好きなので、二人とも非常に満足していました。

あっという間に2時間が過ぎ、軽く飲み食いしてから、NamePと連絡を取り合い、PAT稲毛で待ち合わせることにしました。途中、Bianが寝だし、ほどなくHikaruも撃沈したため、起こさないように超スローペースで走り、1時間以上かけてようやくPAT稲毛に到着。ホームセンターで万年青(おもと)を買いました。

万年青というのは縁起の良い植物で、名前は知らなくとも見たことはあると思います。ある人に購入を勧められたので買ってきた次第です。

『天福の霊草、引越しおもと』の由来

慶弔十一年、徳川家康公が江戸に移られるのに先だって、その居城の新築を祝して、三河の国長沢村の長嶋長兵衛という故事に倣って三種のオモトを「天福の霊草」として献上されました。家康公はこれをたいそう喜ばれて、千代田城に真っ先に持ち込まれ床の間に飾り入城したと伝えられています。

その後、家康家が安泰であったことから、陰陽道で建築、転居に「吉」であるといわれる「天福日」に「天福の霊草」として万年青が用いられる風習が、大名、旗本など武家をはじめ全国の町民の間まで広がり、現在もその名残りをとどめています。(天福とは天から賜る幸い、天与の幸福、祝事、建築、転居に「吉」であるという)

縁起の良い植物でも、枯らしてしまうと罰が当ると思いますので、大事に育てたいと思います。ということで、いくつかのサイトで万年青について調べました。割と強い植物のようで安心しました。

万年青の基礎知識

おもとについて

おもとを楽しむ!

いろんな種類があることにびっくりしました。本日購入したのは『太陽殿』という種類です。いくつかの種類の万年青が置いてあったのですが、私が最初に手に取った万年青が『太陽殿』であり、実は、先に到着していたNamePも同じものを最初に手に取っていたそうです。「植物はインスピレーションで選ぶべき」というNamePのアドバイスをもとに、迷いを消して『太陽殿』にしました。なかなか元気のよさそうな、力強さと美しさを兼ね備えた色と形だと思っています。

PAT稲毛から帰る途中、稲毛海岸のイオンに寄ったとき、守衛のおじいさんが、万年青を見つけ、「万年青買ったんだ」と言いながら、あれこれ知識を教えてくれました。万年青がきっかけに縁が広がりそうな予感がして、買ってよかったと思いました。

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2006年 9月 30日

龍宮城スパ/ホテル三日月

投稿者 by vulcan at 01:28 / カテゴリ: 育児 / 0 コメント / 0 TrackBack

9月29日は、Bianの幼稚園が年長さんのお泊り会だったため、年中さんのBianはお休みで、私も会社を休んでスパに行きました。

Bianは、以前行った勝浦ホテル三日月のスパがたいそう気に入っており、いつも、「葉っぱの温泉(室内にイミテーションの植物が茂っている)にまた行きたい」と願っていました。前回行ったのが、Hikaruがまだ0歳のころだったと記憶しておりますので、2年前だったと思います。

Bianは、一番成りたいものが『ガッチャマン』で、一番行きたい所が『ららぽーとのしましまタウン』と『葉っぱの温泉』ですが、2年も前に行った『葉っぱの温泉』が一番であり続けており、よっぽど楽しかったようで、そこにかける情熱は並のものではありませんでした。そこで、何かの記念とか、特別なご褒美として『葉っぱの温泉』に連れて行ってあげようと思っていたのですが、お金もかかることですし、これまで実現しませんでした。

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8月末、自分も仕事で相当疲れが溜まっており、そろそろ温泉に行きたいと思い始めていましたので、ついに「葉っぱの温泉につれてってあげる」と言いましたところ、Bianは泣きながら抱きつくほど感激していました。当初は、翌日行こうという勢いだったのですが、NamePの都合がつかずに一度延ばし、その後も別荘に行ったりしたので『葉っぱの温泉』は延び延びになっていました。

ということで、企画してから一ヶ月経った昨日、ついにBianの夢が実現したのですが、毎日毎日、「あと何日したら・・・」と教えてくれていましたので、この日にかける思いは相当のものでした。

そして、今回の企画は、海浜幕張から特急さざなみで木更津の龍宮城スパ/ホテル三日月に行くというもので、電車好きのHikaruにとっては、憧れの特急『ワイドビューさざなみ号』に乗れるということで、Hikaruの情熱も非常に高まっていました。

朝、9:53の特急に乗るため、大急ぎで、布団に掃除機をあて、荷造りして、朝食を取り、なんやかんやと準備を行い、ぎりぎり海浜幕張駅に滑り込みましたが、何と、昨日の停電事故の影響が今日も続いていたようで、特急は全て運休となっていることが分かりました。

仕方なく、在来線で木更津に向かいました。いつもならこうした場合、蘇我での乗り換えに2、30分費やされるのですが、この日は乗り換えがスムーズで2、3分で済み、木更津に着いたのは特急で予定していたよりも20分弱の遅れで済みました。そして、10時45分のバスに3分ほどの余裕を残して乗り込むことができました。無料送迎バスが1時間に1本しか来ないので、これを逃さなかったのは非常についていました。

早速水着に着替えてスパに行きました。室内温水プールは流水プールと大きな滑り台があり、しばらく流水プールで遊んでいましたが、外にも出てみたくなり、偵察に行ってみましたところ、外は温水の温度が更に高く、この季節でも寒さを感じないことが分かりました。早速みんなで外に出て、開放的な屋外プールで遊びました。屋外プールも流水プールと小さな子供用滑り台とがあり、その他に、バラ風呂、真珠風呂、コーヒー風呂、ラベンダー風呂、ロイヤルゼリー風呂などがあり、50度ぐらいの熱すぎないサウナもいくつか設置されていて、非常に充実していました。25メートルプールと子供用プールは温水ではなく水だったので、泳ぎませんでしたが、慣れれば泳げるでしょう。

1時間半ほど泳いだのちに、随分お腹がすいたので食事を食べ、それから、リラックスコーナーでしばらくゆっくりしたのちに、再び水着に着替えて泳ぎに行きました。

Bianは子供用滑り台が気に入ったようで、私が着水時に顔が水面下に落ちないように、Bianを持ち上げて滑るため、安心し、たいそう気に入りました。2、30回滑ったと思います。

Hikaruは流水プールでムシキングの足入れ浮き輪で泳ぐのが非常に好きで、自力で速く泳げている気分になれるのが気に入っているみたいです。Tamaが乗った足入れ浮き輪のロープを引きながら、楽しく泳いでいました。

TamaはHikaruに引かれながら、流水プールの漂い加減、お腹から下があったかく、頭は涼しい、という状況が気持ちよかったらしく、よく寝ていました(笑)

全体的に言えることですが、今回、平日に来て本当に良かったと思います。ガラガラといっていいほど空いていました。順番待ちもないですし、ほとんど家族風呂という感じです。千葉市から日帰りで行けますので、平日に行くのをお勧めします。もっと、日本が、旅行に行くときは平日に休みを取るのが普通になればいいのになと思います。新浦安の湯けむり万華鏡は色とりどりの浴衣が選べて女性受けするでしょうし、大正ロマンに浸れる場所ですが、幼児を拒んでいる感があるので、幼い子連れは、プール用オムツでも許してくれますし龍宮城の方がいいです(センスという点では疑問な点も多いですが)。

最後に、Bianが勇気を出してついに浮き輪なしで泳いでくれました。水中眼鏡を付けて、1メートルも無い距離でしたが、NamePは目を潤ませ、私も感激しました。

そういえば、帰りには特急も再開していましたが、ちょうど行ったばかりだったようで、2時間近く待たなければ次の特急が来ないことが分かり、諦めました。Hikaruにとってはちょっとがっかりだったと思います。

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2006年 9月 28日

座禅が座禅を座禅する

投稿者 by vulcan at 22:27 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

澤木老師は、生涯娶らず、寺を持たず、警策(きょうさく)1本持って旅に生きた。「昭和の最後の雲水」と言われた人である。老師の接心があると、全国から信奉者が安泰寺に集まった。京都大学の哲学の学生たちもいた。命がけで座禅に真理を求めている人たちが少なくなかった。
接心の講和の中で、澤木老師は、「座禅が座禅を座禅する」という言葉を言われたのを覚えている。また、「座禅をしても何にもならん」としきりに力説しておられた。座禅をしたら悟りを開くとか、肝が据わるとか、超能力がつくとか、何かの結果を期待して座ることを厳しく戒められたものである。抜き身の日本刀の刃の上を裸足で歩くようなものだとも言われた。右に一歩逸れても千尋の谷底、左に一歩踏み外しても千尋の谷底。たちまち野狐禅、つまり野狐に化かされて馬鹿な真似を大真面目にする世界、真実とは縁もゆかりもない禅の魔境にはまってしまうのである。

これは、T神父の著書の一節です。T神父及びT神父の著書については、別の機会に述べてみたいと思いますが、私はこの、「座禅が座禅を座禅する」という文句をすっかり気に入ってしまいました。

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真理を究明しようと座禅をし、あるいは、精神を鍛錬しようと座禅をする修行者たちに、老師は「座禅をしても何にもならん」というわけです。非常に厳しいお言葉だと思います。「何を言い出すのかこの老師は。意味がないのであれば座禅をしても仕方がないではないか。」と思った修行者は去っていくことでしょう。

本当の真理というのは、因果関係を超越した領域に存在するのだと思います。世の中は因果関係で成り立っていることは、否定しがたい事実だと思いますが、しかしそれを否定しないことには真理には到達しないわけです。それゆえ「座禅をしても何にもならん」と言ったのでしょう。

「座禅が座禅を座禅する」を聞いた修行者たちは、「老師ほどの人物のことだ。何か深い意味があるに違いない。」と思いながら、この言葉をどう解釈したらいいか、あーでもない、こーでもないと思考することになると思いますが、その行き着いた先には、『何の意味も存在しない』ということが待っているのではないでしょうか。

つまり、「座禅とは無意味だ」ということです。しかし、我々の感覚で無意味だと言っているのではなく、「意味を超えたところに座禅がある」ということを理解しなければならないわけで、それが理解できなければ、さっさと寺から去るべきなのでしょう。

座禅をしたこともない私が、知ったようなことを申し上げるのはどうかという意見もあるかもしれませんが、私はそのように理解しました。

さて、最近はまっている『道元断章-『正法眼蔵』と現代』(中野孝次)に次の一節がありました。

江西の馬祖道一(ばそどういつ)が南嶽懐譲(なんがくえじょう)のもとで修行していたとき、南嶽が密かに心印を馬祖に得させた。これが磨塼(ません)の故事の由来だ、と道元は言って、こんな会話をしるす。
馬祖はつねに坐禅にはげんでいたが、まだわずか十年をへたときのこと、南嶽がふいに馬祖の庵を訪れ、馬祖はつつしんで師を迎えた。

南嶽「お前はこのごろ何をしているか」
馬祖「このごろわたしは祗管打坐(しかんだざ;ひたすら坐禅)するのみです」
南嶽「坐禅して何をしようとしている」
馬祖「坐禅して作仏(仏になる)を志しています」
すると南嶽は一片の塼(せん;瓦)を持ってきて、馬祖の庵のそばの石にあてて磨き始めた。
馬祖「和尚、何をしておいでです」
南嶽「塼を磨いておる」
馬祖「塼を磨いて何をなさろうというんです」
南嶽「磨いて鏡にする」
馬祖「塼を磨いて、どうして鏡とすることができましょうや」
南嶽「坐禅して、どうして作仏することができようや」

思うに、俗世間においても、意味を求めるべきではないのではないかと感じています。

好きな人に尽くす、奉仕活動をする、人を助ける、そうしたことは、いずれ意味が生じてくるものでしょうが、行なっている本人は、意味を考えながら行なうことは戒めなければならないと思います。意味を考えること、すなわち見返りを期待することです。

【2006/10/4追記】

『祇管打坐』について、曹洞宗の僧侶が考察していらっしゃるサイトを見つけましたので紹介するとともに、一部を引用します。

只管打坐論

なお、何故只管打坐が安楽の法門になるかといえば、我々に楽や苦を与える主体は何であろうかを考えたときに、答えは出る。そこで、その原因が我々の心や身体であることは容易に理解できる。であれば、その心や身体がどのように成り立っているかを直観できれば、楽も苦も自在である。したがって、只管打坐が必要になってくる理由も明らかである。

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2006年 9月 28日

子供と全力で接する

投稿者 by vulcan at 19:21 / カテゴリ: 育児 / 1 コメント / 0 TrackBack

昨日、代休を取得しました。午前中は布団に掃除機をあて、寝室と廊下を掃除し、PC部屋を片付け、水槽の水替えとコケ取りをしました。午後、幼稚園から娘が帰ってきて、幼稚園の友達が3人とその弟が遊びに来たため、我が家は子供が7人となり、てんやわんやの大騒ぎでした。

私のことを「遊んでくれる大人」と認識した子供達は、以後は、ひっきりになしにまとわりついてくるようになり、そうなると一切手を抜けません。信用を築くのは長年の努力の継続が必要でありながら、壊す方は一つの不誠実な対応で一瞬にして崩れ去るということを学ぶ、非常に良い機会です。

そのため、一度人気を博してしまうと、以後は全力投球です。二人おんぶ、おんぶ抱っこ肩車で三人を乗せたり、両手に2人ずつ4人をぶらさげたり、寝室で野球をしたり、いろんな遊びを考案し、とにかく頭と体をフル回転させて、子供達にひたすら奉仕しました。

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だんだん要領を心得てくると、笑いの要素をたくさん取り入れることで、激しく動くのは子供達ばかりで、自分は一箇所に止まって指示を出したり、審判役を任されたりしてくるのですが、常にそうは問屋が卸してくれません。

およそ3時間、暴れまわった子供達も遊びすぎて眠くなり、ようやく解散。私も9時には布団に倒れこみました。今は、筋肉痛です。

さすがに毎日がこんなだと、身が持ちませんが、こうしてみて思うのは、「たまには、あれぐらい大人が全力で遊ばないと、子供達もストレスを発散できないな」ということです。子供達がスキンシップに飢えているというのがひしひしと感じられ、「ここで自分が彼らの期待を裏切ってしまっては、日本の将来にかかわる」と頑張りました(笑)

子供達と全力で遊ぶというのは、確かに体力勝負であり、また、自分をどれだけ捨てて笑いを取りにいけるかが重要ですが、満足してくれたら、こちらも楽しいですし、充実感で満たされます。

一方、中途半端に体力をセーブし、手を抜くと、子供達は「適当にあしらわれている」と敏感に察知するので、苦労は多少したとしても、嫌われたりうらまれたりするのが落ちで、全く報われないと思います。

ということで、子供と遊ぶときは、とにかく全力で遊ぶことをオススメします。

2006年 9月 28日

日本の隠蔽体質

投稿者 by vulcan at 14:36 / カテゴリ: 存在理由 / 2 コメント / 0 TrackBack

日本人には、「和をもって貴しとなす」という聖徳太子の17条憲法の第一条にあるように、和というものが大切な精神文化として脈々と受け継がれておりますが、得てしてこれが悪い方向に作用する場合があることは、今更申し上げることでもありません。

「日本人に限らず、人間は社会性動物であり、それゆえ、徒党を組むことは人間の本性に沿った行動であるため、これを否定することは宇宙原理に反するわけで、そうしたありのままの現実を受け入れ、善用することが大切だと聖徳太子は説いている」、確か、松下幸之助の『指導者の条件』では、このような解説を行なった上で、「ありのままを受け入れる」ことを102個の条件のうちの1つ目の条件としていたと記憶しています。

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数年前までは、閥を作ったり、根回ししたりという日本的な和の精神に対して、嫌悪感を抱いておりましたが、それによって、不用意な摩擦を回避できることを理解し、一面において重要な精神文化だと今は評価しています。

つまり、派閥や学閥それ自体は悪ではないと思います。しかしながら、その存在が長く続くことで、閥の存続が何よりも優先される判断基準となってしまい、いろんな弊害が生じることも事実です。

この問題は、ちょっと探せばどこにでも転がっているテーマですが、大阪大大学院生命機能研究科の助手が、自分の研究データを改ざんされたうえ論文を米国の科学雑誌に投稿されたとして取り下げを訴え、自殺した事件が5号館のつぶやきで取り上げられていました。論文は異例の取り下げとなり、助手は、自らの死をもって不正を正したことになろうかと思います。

ところが、この自殺について、大学当局が取った行動は、真相の究明と公開ではなく、自殺の隠蔽だったようです(柳田充弘の休憩時間より判断)。妻子を残しての自殺に追い込まれたK氏の無念を思うと、無性に悔しくなります。

こうした大学当局の対応を見てすぐさま思い浮かべたのは、盗作画家和田義彦のあきれ果てる行為と、それを隠蔽する大学当局の体質を指弾したきっこの日記の記事です。

和田義彦が名古屋芸術大学の名誉教授をやっていた時代、セクハラ委員会は和田義彦のセクハラを揉み消す方向に動いていたらしく、A講師が問題を提起しセクハラ委員会を招集しようと動いたときに、次のような発言があったときっこの日記で報告されています。

そして、委員会がひらかれる前に、委員会のメンバーの1人である助教授のところに、学内で力を持っている彫刻科の教授から電話が掛かって来た。

「(和田のことでセクハラ委員会が召集されたそうだが)また和田が何かやったのか?以前にも女子学生を二度妊娠させたことがあって、二度とも中絶させているんだが、もう俺は守りきれんぞ。その非常勤のA君はどんな話を持ち込もうと言うのかね?」

結局A講師は、セクハラ委員会では埒が明かないことを知り、学長に直訴、後日A講師は名古屋芸術大学を辞め、その後、学長は和田義彦のセクハラ問題を教授会にかけ、和田を辞めさせたそうです。

(参考)盗作画家のイイワケ(きっこの日記)

結局、閥の存続、会社の存続、大学の存続等、徒党の存続を最優先課題とすることが、判断をおかしくするのではないかと思いますが、その裏には、かばい合いの体質、引いては弱みを握り合う体質があるのかもしれません。

ここで思うのは、翻って、松下幸之助の102の指導者の条件です。松下幸之助は、102の条件を全て完璧にすることは神でなければできることではないが、少なくとも102の条件を全て、行動として実践している部分がなければならないと述べており、101の条件が良く実践されていたとしても、1つでもゼロの項目があれば指導者として失格だと言っています。

ここで言う指導者とは、社長や学長のみを指しているのではなく、工場における組長や班長なども指しているので、当然、教授会の構成者である教授や取締役会の構成者である取締役も対象です。

あらためて、何が大義かを見極められる人が指導者(リーダー)となり、小沢主義(小沢イズム)で書かれているように、責任の所在が明確になる仕組みづくりが必要だと、強く思いました。

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2006年 9月 27日

死生観

投稿者 by vulcan at 01:00 / カテゴリ: 存在理由 / 4 コメント / 2 TrackBack

まだ私は死生観というものが確立されている段階にはなく、道元の『正法眼蔵』という難解な古典の解説書『道元断章-『正法眼蔵』と現代』(中野孝次)を読みながら、死生観について哲学している今日この頃です。

私は、『野良里蔵狸 -norakura-』の記事が、毎度毎度何かを考えさせられるきっかけになるので気に入っているのですが、今回の『さくらちゃんを救う会に募金は必要か?』も、ちょうど死生観について哲学していたところでしたので、興味を持って読みました。

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記事によると、NHKチーフ・プロデューサーとNHKディレクターの夫婦が、一人娘のさくらちゃん(4歳)の心臓移植をするために、1億3600万円の募金を集めようとしているそうで、現在1900万円ほど集まっているようですが、夫婦の年収が4000万円に達し、高級外車2台、庭付き一戸建、その他に不動産資産が7億円は下らず、それだけ金があるなら、ちまちま募金などせずに、今すぐ自宅を売るか、自宅を担保にNHK共済からお金を借りて渡米しろ、という『2ちゃんねる』での論調があるようです。

ここで考えさせられるのが、心臓移植に関する是非です。移植するということは、同年代の子供の心臓を移すということであり、当たり前のことですが、ドナーの死を意味するわけです。

中国では死刑囚をドナーにして、臓器が売買されているようですが、そのほかにも貧しい家庭の子供がドナーになっていると聞きます。

日本でも、ドナーの心臓、腎臓、肝臓、角膜、皮膚などが取り出され、「これが息子の姿か」と目を疑ったおばあさんの記事を読むにつけ、臓器移植に対する抵抗を強く持ちます。

また、「ドナーカードを持った脳障害の患者が現れたら、臓器提供が優先され、ドナーとされた患者の救命治療は尽くされず、早期に打ち切られている」という報告もあり、臓器移植という仕組みがあることで、医療の現場が混乱しているようにも思います。

待ち望まれる「脳死」!密室の中でドナーの救命治療はつくされたのか!
脳死臓器移植(第10、11例目)救命治療は闇の中--ドナーは見殺しに!

『心臓外科医のひとりごと』というブログを読むと、ctsurgeon氏は立派な心臓外科医のようですが、「執刀経験を多く持つために、医療現場が手術に飢えている」実態が垣間見れ、こうした状況では、正しい倫理観をもって臓器移植が行なわれているのかどうか、疑問を感じてしまいます。

そんなわけで、臓器移植の是非については、私は『あんなこと、こんなこと。どんなこと?』と同じく、「移植は反対、プラスチックや再生技術でまかなえる範囲に制限する」という立場です。しかし、それで最後まで信念を貫き通せるかどうかは、死生観をどこまで持てるかにかかっており、しっかり考えて行きたいと思います。

なお、今回の調査の一環で出会った『あんなこと、こんなこと。どんなこと?』も良質なサイトでしたが、そこから先にあった『5号館のつぶやき』というサイトは専門家による非常に見識の高いサイトのようで、甲乙付けがたいと感じました。そんななかで、『移植臓器の売買はどうしていけないのか』は、理解を深める助けとなりました。

【2006/10/7追記】

上田家の財政状況について、ご両親からの報告がアップされていたのを知りましたので、ご紹介しておきます。

両親からのお礼とご報告

募金をすることが適切かどうかは私には判断できません。他人の力(お金・臓器)にすがるということは、自尊心を含めていろいろな面でマイナスに働く可能性があり、相応の覚悟をしておかなければならないことだと思います。覚悟が低ければマイナス要素が大きすぎますし、覚悟が高ければマイナス要素はたいしたことではないでしょう。であるならば、募金をすることが適切かどうかを判断できる人というのは、本人だけかもしれません。

死ぬ死ぬ詐欺疑惑まとめサイト(非常用)


一次情報と二次情報(きっこの日記)

続・一次情報と二次情報(きっこの日記)

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2006年 9月 25日

なぜ新聞・TVを見ないのか

投稿者 by vulcan at 20:46 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

我が家は、新聞・TVを見ない方針です。これは、時間を大切にしたいという思いと、世論を誘導するマスコミ体質に対して一石を投じるためです。

時間の無駄に関しては、特にテレビにおいて強く感じます。スポーツやバラエティをだらだら見ることは、完全に中毒だと思っています。

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例えば、人生において非常に意義のある人物を応援するためにスポーツを見たり、尊敬する人物のものの見方を学ぶためにトーク番組を見たり、優れた演出家・監督の作品を鑑賞するために演劇や映画、ドラマなどを見たり、あるいは非常に好感を持っている漫才師や落語家等のパフォーマンスを味わうためにお笑い番組を見るというように、目的意識がはっきりしているのであれば、まだいいと思います。

しかし、単に『テレビを見ないとつまらないから見る』というのは、たまに息抜きとしてみるのは癒しの効果があるかもしれませんが、毎日それでは人生を無駄に消費していると言わざるを得ません。テレビを見ることで夫婦の会話や親子の会話が減ってしまうことが惜しいと思います。

また、感動を演出し、視覚的に分かりやすく表現するというのはテレビの果たす役割の一つだとは思いますが、今のあり方は行き過ぎている気がします。要するに視聴率を稼ぐという魂胆が見え透いている場合があり、それらの存在によって本物の感動さえも色あせてしまっているように思います。

では、ニュースはどうかというと、これはテレビに限らず新聞もそうですが、マスコミの報道の仕方に非常に憤りを感じており、見る気がしません。例えば被害者の気持ちを踏みにじるような報道がなされたり、テレビ局や新聞社のシナリオに適った発言だけを編集して報道し、発言者の真意が伝わらなかったり、政治や団体の圧力によって情報が操作されていたり、あるいは、国を良くしようと考えているとは思えないような記事の取り上げ方や近視眼的な報道を見るにつけ、完全に見る気が失せました。そして、そういいながら新聞やテレビニュースを見続けることは、彼らを是認していることになるため、見ないことにしたわけです。

では、情報は何によって得ているのかというと、容易に想像つくことですが、インターネットと書籍です。幸い、我が家から歩いて5分のところに図書館があるので、助かっています。通勤電車では、新聞を読まずに本を読みます。大体三日ぐらいの通勤で一冊読みますが、週末は家族との団欒に充てますので、月に5、6冊です。

書籍の方が奥行きが深いため、新聞よりもずっと記憶に残りますし、また、よく推敲されており、すぐに廃れる一時的な情報は間引かれていますので、情報の価値は高いと考えています。

鮮度が命の情報というものはインターネットで取得できますし、そうした情報が本当に価値があるかどうかについては疑問を感じます。

例えば、不幸な事件は情報としてどれほどの価値があるでしょうか。人の不幸を見て自分たちの幸せを感じる感覚は持ち合わせていません。不幸な存在を理解することで人間としての情緒を育むのであれば、そこに即日性は必要なく、紙面や報道時間といった都合に左右されない、丹念に事実関係を把握し、公正に記載した書籍によって理解すべきと考えます。

あるいは、株価は本当に必要な情報でしょうか。株式売買でさやをぬこうとしている人にとっては有益な情報かもしれませんし、株価をある程度意識することは経営者に求められる姿勢かもしれませんが、株価の乱高下に一喜一憂するというのは、あまりにもばかばかしいと思います。

かく言う私も、銀行員時代の3年半、日本株運用を業としていたため、それこそ、日々株価のチェックを行ない、頭の中は株式のことでほとんど占められていましたが、それだけに、「一体株価をチェックすることが人類の発展にどれだけ寄与するのか」という疑問を、日々感じながら過ごしてもいました。

株価にこだわりを持たなくなると、日々流れている情報の多くはあまり意味の無い情報になります。繰り返す業績予想の修正や、今後の影響がどう出るのか見通しにくい企業提携の発表(とその後の提携解消)など、「前の情報は何だったのか?」というようなことにもならなくて済みます。

人それぞれ、価値観が異なり、私にとって無益な情報も、別の人にとっては有益なのかもしれません。そうした多様な価値観の最大公約数がニュースであり新聞なのでしょう。そうであれば、必要な情報だけを取捨選択すればよく、だらだらと最初から最後までニュースを見るのは時間の無駄だと思います。それに止まらず、同じニュースを繰り返し、あちこちの番組で見るなどというのは、人生を賢く生きているとは思えません。

新聞であれば、取捨選択することで時間を効率よく使うことができますが、それはインターネットニュースでもできることであり、インターネットの方が情報の取得や利用に関して創意工夫の余地が高く、また、玉石混淆の中から価値ある情報を見出すことは非常に鍛錬になりますので、私はインターネットを重視しています。


【2006/9/26追記】

ちょっと熱くなりすぎました。昨日は、何かに憑かれたかのように、こみ上がる怒りに任せて書きなぐりました。二点ほど付言しておくことがありましたので追記します。

一つは、人生を無駄に消費しているかどうかは、他人が決めることではなく自分が決めることだということです。したがって、テレビを見るのもゲームをするのも漫画を読むのも、それがとても楽しく、自分にとって価値があると感じているのであれば問題は少ないと思います。しかし、そこに、ある種の疑問を感じているのであれば一度立ち止まった方がいいかもしれません。

私も、長年の間、ゲーマーとして生きてきました。また、将来、子供達が相応の歳になった暁には再びゲームに回帰していく可能性があります。今でも私はゲームを愛していますし、ゲームに限らず、娯楽というものが人生を楽しいものにする側面があると信じています。

二つ目は、新聞やテレビを見なくなったおかげで、『新聞やテレビを見る人』という情報源を大切にするようになりました。これをきっかけに持ちつ持たれつの関係が一つ形成できたことはいいことだと考えています。また、以前は、新聞やテレビの話題しかできない人を馬鹿にしていましたが、今は、貴重な情報源として、敬意を持って拝聴する心構えを持てるようになりました。こうした変化も、新聞やテレビを見なくなった事の効用として挙げられ、よいことだったと考えています。


【2006/9/27追記】

「青い三角定規」という30年以上前のフォークグループのメンバーである高田真理が、原付で事故を起こし、相手の自転車の女性を1ヶ月の重傷を負わせ、酒気帯び運転の現行犯で逮捕されたそうで、そのことを10日ほど前の『きっこの日記』の『有名税と暴露本』で知っていましたが、その高田真理が自殺したことを、やはり『きっこの日記』の『コイズミ改革はイジメの構図』で知りました。

原チャリで事故を起こして、各局のワイドショーやスポーツ紙に血祭りに上げられてた「青い三角定規」の元メンバー、高田真理さん(59)が、今日、9月26日の午後4時ころ、埼玉県入間市豊岡の12階建てのマンションから飛び降りて、自殺してしまったのだ。身につけていたショルダーバッグの中には、知人あての遺書があり、管轄の狭山署は「飛び降り自殺」と判断した。ようするに、高田真理さんは、マスコミの吊るし上げによって、何よりも重い「有名税」を払わされることになった今日この頃、皆さん、いかがお過ごしですか?

【2006/9/28追記】

時々チェックしている『らくちんランプ』ですが、『言論の自由の砦を守った「東京新聞」(安倍新政権にメディア戦々恐々?)』を読み、東京新聞は剛毅な新聞社のようであることが分かりました。

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2006年 9月 22日

感性を研ぎ澄ます

投稿者 by vulcan at 13:05 / カテゴリ: / 10 コメント / 0 TrackBack

私は、物心ついたころから直感力に自信を持っておりました。しかしそれは、試験における出題者の意図とか、目の前や電話口の相手の真意とか、そういったものを感じ取る能力に長けていたに過ぎず、今思えば偉そうなことを言えるほどのことではありません。先日書き上げた例の『随筆』でも、以下のように述べており、ついこの間までの自分を恥ずかしく思います。

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『見通す力』というと長所のような気もするが、欠点でもあり、場合によっては致命的な災いを招く。

別に自分に透視能力が備わっているわけではないが、物事には因果関係というものがあり、気持ちは態度に表れたりするわけで、現在の状況や過去の経緯を分析したり、それぞれの出来事や、行動、何気なく出た言葉、ふと耳にした言葉、表情、視線、沈黙、無視、間、しぐさ等の意味を探ったり、それらをつなげ合わせて考えたりすることで、先が見通せたり、人物を見透かしたり、覚悟の程を知ったりすることができる場合が割りと多い。

当たり外れはともかくとして、そうした見通す力を持った人、もしくは見通そうとする人に対して、人は警戒心を抱く。下手な行動、不用意な発言によって自分を見透かされるわけだから当然のことだろう。

こうした人間は、言われなくても分かることは当たり前の前提として先を急いでしまう。例えば人が困っている場合、その人が困っているので助けて欲しいと言われる前につい手を差し伸べてしまい、びっくりさせてしまう。あるいは、本人も言われるまで困った状況にあることすら気づいておらず、言われて初めてなるほど自分は困った状況にあったのだと気づくとともに警戒する。

しかし、一挙手一投足、何事にも意味を見出そうとしてしまうのは、生まれ持っての性であり、どうにもならない。せめて、凡庸に振る舞い、見て見ぬ振りをし、口を慎むぐらいが関の山であるが、そうすると、「あいつは何を考えているのか分からん」となり、敵を増やす。

また、先が見通せるということは、行動に無駄がなくなるが、逆に諦めも早くなり、途中で挫折することも多い。それが高じると、行動とは理論を立証するために行なうもの、推論を検証するために行なうものと捉えるようになってしまい、目的を達成するために行動するという思考方法が抜けてしまう。つまり、極論すると、考えるだけに終始し、何もやらなくなる、何もやる気が起こらなくなるわけである。

ではどうすれば良いか、これは今もって難問である。一つは、「行動とは目的を達成するために行なうものである」ということを肝に銘じ、常に自分の目的とは何かを己に問うことであろう。そしてもう一つは、己の能力と人間的な魅力を磨くとともに、先を見通す力というのは短所でもあることをよく自覚し、その上で通じる者、受け入れてくれる者を増やすしかあるまい。

さて、『随筆』をとりあえず書き上げてから、ふた月ほどが経過し、今は多少物事を理解するようになりました。

今までの私が自負していた直感力というのは、それを自分の都合にのみ活用してきました。つまり、相手がどう思っているかを理解していても、(近視眼的に見て)自分の都合にかかわりの無いことだと判断したことは、無視するか、あるいはわざと逆撫でするような言動をとって相手の反応を楽しむということが、無きにしも非ずであったと思います。

したがって、自分の(近視眼的な)都合に関係の無い対象には、直感力を行使することをしてこなかったわけです。

ところで、『随筆』を書いてからのこの2ヶ月の間に、いろんな方とお話をする機会に恵まれ、また、いろんな書物を読みました。そして、いずれも共通することは、『感性を研ぎ澄ます』ことの重要性を私に認識させることであり、そうした結果、徐々に直感力について深く思考するに至ったわけです。

結論を申せば(といっても現時点での結論ですが)、直感力を働かせる相手というのは、目の前の相手や電話口の相手、手紙やメールで通じている相手に限るべきではなく、むしろ、目に見えない、存在すら認識できていない相手にまで働かせて、初めて自負しても許される領域であり、そのような領域に達すれば、自ずと『随筆』で述べているような悩みなど雲散霧消するということです。

つまり、見ず知らずの人や知らない土地の人、また、既に亡くなった人やこれから生まれてくる人、そういった人たちの思いを理解することが正しい直感力の使い方であり、更に言えば、人以外のモノ、動物や虫や植物はもとより、無機物にまで思いを馳せることが求められているのだということです。

本稿を書こうと思ったきっかけになったことなのですが、煙草の灰皿に対して思いを馳せました(実は煙草を再開しているのですが、この件については別の機会に述べたいと思います)。灰皿に八百万の神が宿っているのかどうかは分かりませんが、灰皿の気持ちを慮ると、「汚く使うのは灰皿が悲しむだろう」と思ったわけです。すると、直後に便器にも思いを馳せました。

先日猊下にお会いしたとき、イエローハットの鍵山相談役が、社長時代からトイレの掃除を日課としており、日本を美しくする会なるものが広まりつつあるという話を伺いました。トイレ掃除をすることで謙虚さが身につくということなのですが、正直、それを聞いたとき、「鍵山相談役はその会の草創者であり、また長年実践してきた方なので尊敬するのはやぶさかではないが、周りの人は果たして事の本質をきちんと理解して実践しているのか疑わしい」と思いました。

このときは、私も、単に鍵山相談役が、高慢にならないよう己を律するために行なってきたのだろうと思ったのですが、先ほどの件があって、鍵山相談役が便器の気持ちを慮って行なったのだと思うに至り、心から尊敬の念を覚えました。

さて、最近の2ヶ月の間に、『感性を研ぎ澄ます』ことの重要性を私に認識させたうちのいくつかをご紹介したいと思います。

まず、銀行時代の元支店長であるM.Y.氏から、「疑似体験力を身に付けよ」とアドバイスされました。どういうことかというと、こういうことです。

「人生は短く、やらなければならないことは山ほどある。無限の時間を使って、思う存分一つ一つに時間をかけたいものであるが、悲しいかな、ゼネラリストはそれが許されない。したがって、限られた時間で多くのことを理解するために疑似体験力が必要となる。人(スペシャリスト)が二年かけて身に付けた実体験を、疑似体験力をもって15分で全て理解せよ。まるでその場に自分がいるかのように、手に取るように分かるようになるものだ。それがゼネラリストという名のスペシャリストが果たす役目だ。」

次に、これは意図は違うかもしれませんが、私の確信を深めた文章で、先日来、メル友としてお付き合いいただいている温心堂主人の一節です。

信仰療法

これを全否定しない。お布施という治療費が、小遣いの範囲で融通できる額であれば副作用もなく治癒に導かれる病気があるかもしれない。癒しには神秘的な闇も必要と考えている。原因不明の病気が、どんな言葉であれ解釈が為されることは、治療家にとっても病人にとっても癒しの契機となる。時々、祈祷師のお告げと言っては漢方薬や薬草を買い求めに見えられる。その病気に適応しないだろう、、と思ってもとりあえず渡すことにしている。というのも、見当違いの薬で効いてしまうことがあるのだ。こんな事が繰り返し起ると漢方の勉強など要らぬ、効くという信念さえ研ぎ澄ましておれば良いのだと思えてくる。実際そうなのかも知れない。漢方用語の、気が神に、血が悪霊に、水が霊魂に翻訳されたとしても解釈は成り立つ。信じるか否かの問題である。通常医療も代替医療も治療家が信じるに足る言葉で医療行為を続けているのであろう。言葉を突き詰めてゆけば、実はそれほど実体や根拠がある訳ではない。免疫学と言いながら神や霊を笑えなかったりする事もある。

他にも良いと思った本のほとんど全ては『感性を磨く』『直感を信じる』ことの重要性が説かれていました。直感を信じるというのは、注釈が必要であると思われ、直感力を磨いていなければ、直感が適切に働かないと思います。

ところで、『ちょっかんりょく』を変換すると、直感力と直観力が候補として出てきます。直感の意味は『推理・考察などによるのでなく、感覚によって物事をとらえること。「―が働く」』で、直観の意味は『哲学で、推理を用いず、直接に対象をとらえること。また、その認識能力。直覚。「真理を―する」「―力」』です。

私のこれまでの能力は直感力でした。「これからは直観力を磨かなければならない」と思いました。

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2006年 9月 21日

ぼくのおじいちゃん(1)

投稿者 by vulcan at 12:09 / カテゴリ: 存在理由 / 4 コメント / 0 TrackBack

祖父を最も愛したのは、弟であると思いますので、私が祖父を語ることが適切かどうか迷っていましたが、私が祖父を愛したことも間違いありませんので、書こうと思いました。「書くのはいいが、ブログで書くことか?」という思いもありましたが、昨日、「まだ見ぬ我が孫、我がひ孫達に、私の祖父がどういう人物であったかを知らせるためにも、ブログで書き記しておこう」と思いましたので、書くことにします。

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我が祖父、頼廣辨三は、2003年11月に他界し、享年83歳だったはずですから、1920年、つまり大正9年3月に生まれました。実家は須磨の庄屋だったそうで、本家は農地改革によって多くの土地を召し上げられたと聞いたことがあります。

分家ではありましたが、本家の当主が若くして他界したため、世継の方が成人するまでの間、代わりに家と墓、そして残された土地を守ってきました。

神戸大学(当時は神戸商業大学?)を卒業した祖父は、台湾銀行に就職が決まっていました。当時、台湾は日本の領土であり、台湾勤務が予定されていたそうなのですが、戦争が激しくなってきたことで台湾には赴かず、東京で勤務していました。

戦争がいよいよ軍人だけではまかなえなくなり、祖父は海軍経理学校に入学しました。2年ほど過ぎたころ、「これ以上無い好青年がいる。戦争によりいつ軍艦に乗るか分からない時代だから、今のうちに見合いをしなさい。」と、祖母の親戚のすすめにより、祖父母は見合いをし、結婚しました。

結婚後、祖母は須磨に嫁として来て、家を守りましたが、軍規により祖父の帰宅は許されず、祖母は心細い思いをしていたそうです。

結局、祖父が軍艦に乗る前に終戦を迎えました。8月の終戦から12月まで、祖父は軍の経理のため、引き続き帰宅ができず、12月にようやく帰宅したのですが、そのときの祖母の安堵は計り知れません。

その後、台湾銀行への復職の道が途絶えていたため、神戸銀行(三井住友銀行の前身の一つ)に就職することも検討がなされたそうですが、混乱の世の中で、銀行も安泰ではないとの助言もあり、国鉄の下請けをする建設会社に就職し、経理を司ったそうです。

5年ほどしたとき、遠い親戚が社長を行なっている会社から、経理を任せられる人間が欲しいとのことで、スカウトされました。そこには20年ほど務めたそうですが、経理のシステムが出来上がり、役目は終わったと感じたこと、社長が息子の代に代わり、年寄りがいるべきではないと判断し、その会社を去りました。逆算すると、50歳ごろだったと思います。

そして、最後の奉公先が梶原鉄工所です。ここには65歳になるまでの15年間務めたそうです。つまり、私が生まれた昭和45年(1970年)ぐらいから昭和60年(1985年)まで梶原鉄工所にいたことになります。梶原鉄工所の社長には3人の息子がおりましたが、三男が経理の素質が高いと見て、三男にノウハウを全て伝授したようです。といっても、祖父は、家庭で仕事の話をしなかったようで、詳しいことは分かりません。梶原鉄工所のご子息(といっても私よりずっと年上ですが)は、退職後18年も経過していたというのに、祖父の葬式に弔問に来てくださりました。そんなわけで、近いうちに、祖父の仕事振りについて、梶原鉄工所の方に聞いてみようと思います。

その後、1990年4月から94年3月までの間、私は神戸大学に祖父母宅から通いましたので、親代わりをしてくれました。博学なため、もっといろいろ教えを受けておけば良かったと思いますが、私はドイツ語の宿題を祖父に手伝ってもらうに過ぎませんでした。弟は、名古屋から来ると英語の宿題の手ほどきを受けたり、日本史についていろいろと教わっていました。

私が大学を卒業してからは、祖父はようやく自分のために時間を使うようになり、それまでは、国内旅行が中心でしたが、あちこち海外旅行に行くようになりました。どこに行ったのか、私の記憶だけで全て列挙することはできませんので、後日調べてみたいと思います。

最後の海外旅行はスペインだったと思います。母と叔母が付き添い、いろいろ珍道中だったようです。

最後の国内旅行は、2003年7月の利尻島礼文島へのにっぽん丸での旅行でした。当時、最後の旅行になると予感した祖父は、このクルーズへの参加を企画したのですが、母も叔母もあまり乗り気ではなく、平日に有休をとる必要があることで、弟も妹も参加できなかったのですが、私は運良く休みが取れましたので我が家(私、妻、長女)が参加を申し出ましたところ、母と叔母が参加を表明し、実現しました。

かなり歩行が困難になってきていた祖父でしたが、全ての照準をこのクルーズに合わせ、健康を管理し、実現させました。時々弱音を吐いたりしたそうで、その都度祖母が叱責しながら元気を奮い起こさせていたようです。

船内では、遺産相続に関する話題も祖父の口から出ましたので、相当自分の肉体的限界を感じていたのだろうと思います。

アクシデントもなく、楽しい北海道旅行の写真をマイブックで製本し、祖父に進呈しましたところ、とても喜んでくれました。祖父と、最後の旅行をともにできて、本当によかったなぁと思います。

≪続く≫

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2006年 9月 19日

ハチとアブとブユ

投稿者 by vulcan at 13:28 / カテゴリ: 育児 / 0 コメント / 0 TrackBack

都内でも、秋になるとアシナガバチに時々遭遇しては、威嚇されることがありますが、毎年30件ぐらいのハチによる死亡事故が報告されるそうで、本日も『スズメバチに100カ所刺され、77歳女性死亡』というニュースがありました。100箇所刺されれば死亡に至るのは容易に想像できますが、数箇所刺されただけで死亡する事故も報告されており、過去に刺された経験を持つ者は『アナフィラキシーショック』により、一撃でショック死する場合があることは有名な話です。

ちょっと前に、幼稚園で、園内に飛翔してきたハチをたたいて殺し、解決を図ったということを聞き、「そんなことをして大丈夫なのか?」という疑問を持ちましたが、知識が無ければ適切な行動なのかどうかの判断もできません。

先日は、ハチの話ではないのですが、ふれあい動物園でヤギを追い掛け回し、威嚇する小学生を見て、かなり危険を感じました。

昨年から、家族で山に行く機会も増えてきましたので、大自然を前にして人間が守らなければ身を危険にするルールについて調べてみようと思いました。そんなわけで、とりあえず、ハチについて俄か知識を仕込みました。

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山にいるとき、人間によってくるものは、大抵アブであろうと思いますが、ハチとアブの区別を、まずは子供に教えたいところです。アブはハチに似ているという固定観念があり、実際『擬態』という特性が存在するため、アブを見てもアブだと断定することを留保したくなるときというのがしばしばあります。

アブは分類学上『ハエ目』なだけに速い印象があり、口にストローみたいなのがついていて、目がトンボみたいに不釣合いなほど大きいと感じます(要するにハエっぽいわけです)。こうした印象に基づく区分は、比較的黒っぽいアブを見分ける場合には役に立ちそうですが(というか、これらをハチだと思っているようだと区分するなどというのは絶望的な試みでしょう)、黄色が目立つアブに対しても確信を持ってアブだと判定できるかどうかは自信がありません。

一方、ハチは、いくつかのハチの写真を見れば分かるように、目と尻、また腰の細さに特長があるようです。要するにアリの仲間なのでアリっぽいわけですが、両目が離れており、腰のくびれが美しく、尻の先が尖っています。

アブとハチの比較サイトを見ると、かなり納得がいきます。速すぎて、色や形を見極められなくとも、ブンブンと攻撃的な音を鳴らしながら、単独で執拗に追い掛け回してくるのはまず間違いなくアブと思って良さそうです。吸血が目的であるということは、恥ずかしながら知りませんでした(縄張りを荒らしたから怒らせてしまったのかと思っていました)。

アブについては理解できましたが、山で刺されるほとんどは、アブよりもブユである場合が多いと思います。威嚇的な羽音が聞こえなかったのに、気がつけば蚊に食われたのとは明らかに違う赤く腫れた傷口ができていることに気がつくことが多いからです。そこで、これを機会にブユについても調べてみました。

ブユは2~3ミリぐらいの小さな昆虫で、朝夕に集団で襲ってくるようです。刺すのではなく、かじって血を吸うため、吸い口がかじられた穴が開いているケースは、ブユと思って良さそうです。ゴルフをする人はよく襲われているようなので、今更な話かもしれません。

まあ、アブやブユで死ぬようなことは無いでしょうが、問題はハチです。一歩間違えれば笑い話ではすまない危険があるわけなので、丹念に調べてみました。

ハチについては、主に、スズメバチとミツバチ、クマバチ、アシナガバチの4種について知識を深めるのが良いと感じました。

一番誤解していたのはクマバチ(クマンバチ)です。クマンバチという名前から来る印象により、危険なハチだとばかり思っていました。完全に安全とは言い切れませんが、「オスは針が無いので刺せない」「温厚な性格で人間に関心は無い」「単独生活なので集団で襲われる危険が無い」ということが分かったことは収穫でした。

さて、スズメバチです。スズメバチに刺されないようにするためには、巣に近づかないことで、10メートル以内に踏み込むと威嚇してくるようなので、速やかに立ち去るべきです。左右の大顎を噛み合わせて打ち鳴らし、「カチカチ」という警戒音を出し威嚇する段階になるとかなりヤバイ状況です(ナウシカに出てきた蟲みたいですね)。

黒や青を認識するそうで、特に黒い服は避けた方が良いようです。大型哺乳類の弱点の多くが黒い部分(瞳孔、耳孔)にあることから黒を狙うと考えられているようで、頭も狙われやすく、白系の帽子をかぶった方が賢明のようです。香水も、スズメバチを興奮させる成分が含まれている場合が多いようで、山に香水を付けて行くのは自殺行為かもしれません。

気になったのは、「山などで団体で行動している時に最初に刺されるのは、蜂蜜を常用している者に多いことも確認されている。 」という説明です。体臭から蜂蜜の香りを放っているからなのか、蜂蜜を持ち歩いている者が狙われるという意味なのかが判然としませんが、前者のような気がします。

ところで、当初は「スズメバチに刺されないようにするためにはどうすればよいか」ということが興味の中心だったのですが、スズメバチの社会的な行動に興味が移りました。

オオスズメバチは最も危険なスズメバチらしいのですが、様々な昆虫がたくさん存在する夏は、獲物にこと欠きませんが、秋口になると獲物が激減し、攻撃性を増すそうです。この週末に山に行ったとき、1ヶ月前とは比較にならないほど虫が減っており、「過ごしやすくなったなぁ」と暢気に考えていましたが、危険も増していたということです。

オオスズメバチは「スズメバチ類としては例外的に集団でミツバチやキイロスズメバチといった巨大なコロニーを形成する社会性の蜂の巣を襲撃することで、この必要をまかなう。」そうで、「大量の生きた蛹や幼虫を肉団子にしつつ運び出す」ことで餌の不足を補うようです。

ところがこれも口でいうほど簡単ではないようで、小型のキイロスズメバチの巣を襲撃した場合、数が圧倒的に多いキイロスズメバチとの死闘は相当激しいものとなるそうです。うまく全滅させるか逃走させれば、それだけ大量の蛹や幼虫を得ることができるわけで、ハイリスク・ハイリターンの獲物ということが言えそうです。外骨格の装甲が極めて強靭なチャイロスズメバチは攻撃が奏功せず、撃退されることも珍しくないようです。

そして、ミツバチを襲った場合ですが、ミツバチはスズメバチの集団を撃退する術を持ち合わせていませんが、相手が単独飛行の偵察者である場合は、蜂球による対処が行なわれているようです。つまり、ミツバチが集団でオオスズメバチを取り囲み、約20分で摂氏45度まで熱くさせ、熱死させるという技です。スズメバチは死ぬが自分たちは死なないギリギリの温度のようで、うまくできているなぁと感心しました。これに失敗して、巣の在処が伝わってしまい、スズメバチの集団に襲われると、ミツバチは戦うことをせずに、巣を放棄するそうです。

但し、蜂球ができるのはトウヨウミツバチに限られるようで、養蜂に利用されるセイヨウミツバチは蜂球ができず、そのため、スズメバチへの対抗手段を持たず、野生化が成功していないと言われています(北米ではスズメバチがいないのか野生化に成功しているようです)。

キイロスズメバチの来襲
蜂球によるミツバチの防戦
蒸し殺されたキイロスズメバチ

さて、次に、ミツバチですが、「一度刺すと死ぬ」「威嚇しなければ安全」ということで、すっかり安全なハチだと思い込んでいましたが、基本はそうでも留意しなければならない点もあるようです。というのも、蜂の巣の駆除を依頼する場合、スズメバチが4万円、ミツバチが3万円、アシナガバチが3千円というのが相場としてあるようで、アシナガバチの10倍危険である可能性があるからです(10倍手間が大きいということかもしれませんが)。

その理由は、恐らくミツバチのコロニーが大きいということから起因するもので、数千匹にも達する場合には危険も大きいということかもしれません。

最後にアシナガバチですが、飛翔時に足がブランと垂れ下がっているのですぐに見分けがつくと思います。あまり攻撃的ではないようですが、そうは言ってもやはり怖いです。役所もアシナガバチについては、防護服等を貸し出し、自分で駆除する人を支援しているようで、夜間、慎重に実施すれば対処可能なのかもしれません。

昨年、会社の非常階段にアシナガバチの巣ができ、業者に頼んで7,620円で処理してもらい、帳簿上福利厚生費で処理しました。そのとき業者の人が、「最初の一撃で女王蜂と護衛の蜂が真っ先に逃げる。女王蜂については死に物狂いで守ろうとするので、女王蜂を捕獲することは危険であり、それは諦めて欲しい。但し、巣のあった場所に殺虫剤をかけておくので同じ場所に巣を作り直すことは無いはず。偵察部隊は女王蜂がどこに逃げたのかを知らず、巣があった場所に何匹か戻ってくる場合がある。彼らは巣とともに女王を失い、じきに消える。」と言っていました。

そういったわけで、奥の深い蜂の世界ですが、「かつては社会性昆虫であるかどうかの判断は、群れに階層があるかどうかであったが、現在では不妊の階層があるかどうかが重視される。」という社会性昆虫に関する分野が特に面白いと思いました。

そんな中で見つけた山根爽一氏の『アシナガバチ一億年のドラマ ―カリバチの社会はいかに進化したか』は、目次を見ても非常に面白そうで、ちょっと読んでみたい本です。

第 1章  子育ての技術革新―社会生活への長い道のり
      1  カリバチとハナバチ
      2  植物食から寄生生活へ
      3  他人のすみかを借用する―巣作りの起源
      4  自分で巣をつくる―建築家の誕生
      5  狩りに先立って産卵する―空室産卵

第 2章  独居と社会生活の接点を探る―ハラボソバチの社会
      1  熱帯アジアの隠遁生活者
      2  忍耐のいる行動観察
      3  メリイヒメハラボソバチのルーズな社会
      4  母巣で働いてから独立する娘たち
      5  ハラボソバチは真社会性といえるか

第 3章  個人主義か集団主義か―独立創設するアシナガバチ
      1  独立創設と巣分かれ創設
      2  温帯のアシナガバチの生活史
      3  複数のメスによる巣作り―多雌創設
      4  債権交代で延命するチビアシナガバチのコロニー
      5  巣を分割するオーストラリアのチビアシナガバチ
      6  独力で創設するか,集団に加わるか

第 4章  コロニーの巨大化―巣分かれ創設するアシナガバチ
      1  アシナガバチ類の巣分かれ創設
      2  旧世界のチビアシナガバチの生活
      3  南米で分化したエピポナ類
      4  巣分かれ創設はいかに進化したか
      5  巣分かれ創設と表裏一体の多女王制

第 5章  カースト分化―社会組織の完成度の指標
      1  カーストの違いは,まず行動にあらわれる
      2  カースト間の形態的分化
      3  カースト分化の様相とその意味

第 6章  建築技術のイノベーション―構造の多様性と進化
      1  ハチの巣は魅惑のかたまり
      2  ハラボソバチの巣のみごとな分化
      3  細い柄で吊り下げ,「化学の鍵」をかける
      4  住居の育児環境を快適に保つ
      5  巣材と建築技術は社会進化を左右する

第 7章  カリバチの社会はいかに進化したか
      1  社会進化の古典的仮説―栄養交換説
      2  子をつくらずに自分の性質を伝える―血縁選択理論
      3  みんなで集まれば怖くない―協同的多雌性仮説
      4  どの身のふり方が有利か―ギャンブル仮説
      5  異世代社会と同世代社会―社会進化の道すじ

さて、こうして知識を多少なりとも深めた段階で、先日の幼稚園の対処を再検討してみますと、
「ハチではなくアブであった可能性があり、それであれば叩いて殺したのは正しい」
「ハチであったとしても、巣が近くにないのであれば、集団で襲ってくることは無さそう」
「たまたま通りかかった単独飛行のハチであるならば、帰巣させずに殺すというのもミツバチと同じく適切な防衛方法かもしれない」
ということです。

但し、逆に、我々がハチのエリアに踏み込み、単独飛行だからといって攻撃しようとすれば、巣の近くなので、危険が瞬時に伝わり、集団で襲ってくるでしょう。したがって、10メートル以内(つまり幼稚園内)に巣が存在するはずが無いことを知り尽くした幼稚園の先生であるからこそできることであり、正当化されることだと思いました。

なお、スズメバチは人間が殺される危険性を持ちますが、益虫でもあることは留意しておく必要があると思います。物事を一面だけで決め付けることは正しい理解とは言えません。

日本でも一部の地方自治体で、駆除依頼で都市部の住宅地などから捕獲したスズメバチ類の巣を庁舎屋上に設置した巣箱で飼育して維持しつつ、人に危害が及ばないように森林公園の害虫駆除に活用しているケースがあるし、茶の大産地の静岡県の一部では、茶の害虫をクロスズメバチ類によって抑制することで減農薬を図るため、クロスズメバチの幼虫、蛹を食べる習慣が盛んな隣接する長野県からの越境採集者に対して、捕獲禁止を訴えているケースもある。

正しい蜂の刺され方(刺されたくない人は必見)

2006年 9月 19日

車での旅行について

投稿者 by vulcan at 00:04 / カテゴリ: 雑感 / 3 コメント / 0 TrackBack

この三連休、急な思いつきで、母が所有する別荘に行ってきました。事前に予定を組んでいたら、荷物を宅急便で送って、新幹線で行くのが我が家流なのですが、今回は突然だったし、たまには車もいいかと思って、レンタカーで行くことにしました。

半年ぶりぐらいにレンタカーを運転してみましたが、いろいろ思うところがありました。

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車の利点

『現地での行動範囲が広がる』
向こうについてから、行きたいところにアクティブに行けるというのが車の最大の利点だと実感しました。普段は、親の運転する車に乗せてもらうのですが、今回は親が来ていませんでしたので、車が無かったら観光地に足を運ぶことは断念したでしょう。それはそれで楽しみ方もありますが、便利であることには違いありません。

『気軽に買出しに行ける』
向こうでは自炊であり、宅急便で送って仮に何か足りないものが出てきたときに、車がないと非常に不便だったと思います。結果的に買出しは必要無かったのですが、忘れ物があってもあまり問題にならない、という気軽さは車で行くことの利点ではあると思います。逆に、いつもいつもそんな気軽さだと、準備が下手になるかもしれませんが。

『好きなだけ荷物を運べる』
まあ、これは、宅急便が発達した現代では、あまり利点ではなくなってきているように感じています。3日以上の滞在日数がある場合は、迷わず宅急便で荷物を送っておきますので。日帰旅行の場合は、威力を発揮すると思いますが、何も持たない習慣に慣れてしまえば、日帰旅行に大荷物を持っていく魅力も感じませんし。

『安いかも』
今は新幹線で料金が発生するのは夫婦だけですから、レンタカーに安さのメリットをあまり感じませんが、子供たちに料金が発生するようになってくると、車で行くメリットがクローズアップされてくるかもしれません。

『いつでも出発できる』
我々は新幹線の自由席で行きますので、「○時の新幹線に必ず乗らなきゃ」という状況にはなりませんが、それでも、時刻表は予め調べてから出発します。その点、車の場合、あまり出発時刻を気にする必要は無いかもしれません。レンタカーの返却時刻は気にしなければならないときがありますが。

車の欠点

『渋滞すると非常に険悪なムードに晒される』
夫婦が険悪になることはありませんでしたが、首都高を自分で運転するのは今回が初めてで、かなり渋滞していました。すると、周りの車の運転手の顔は見えないのですが、割り込み、頻繁な車線変更、威嚇的なあおり、走行車線からの追い越しなど、車の動きがイライラを表現しており、相当なストレスを受けました。いつもあんな状況に身を置いていたら、自分たちまでイライラ病になってしまいそうで怖いです。

『子供はつまらない』
乗った当初は楽しかった子供たちも、チャイルドシートに何時間も固定されて、最後は相当つまらながっていました。動けない、運転中の親は相手にしてくれない、空気が良くない、そんな状況で楽しいはずがありませんから、お菓子を食べるぐらいしか楽しみがありません。今回、途中で何度も休憩したからではありますが、結局9時間もかかってしまいました。電車で行けば、それなりに動きに自由がありますし、5時間もあれば行けますし、親が二人とも遊び相手をしますので、子供にとってはずっと楽しい旅行になるということがよく分かりました。

『夫婦喧嘩になりやすい』
今はカーナビがついていますので、道を間違えることも少なくなりましたが、それでもたまには間違えます。昔は(結婚する前ですが)、道を間違えて、かなり険悪なムードになった覚えがあります。今は、ちょっと間違えるぐらいでイライラするようなこともなくなりましたが、それでも、しょっちゅう間違えてばかりいたら、夫婦喧嘩もしだすかもしれません。


結論

車の便利さは、確かに魅力ですが、夫婦にとっても子供たちにとっても、結構ストレスの原因になる代物だなと痛感しました。たまにはいいですが、それでも、できれば高速道路は走りたくないです。荷物は宅急便で送っておき、駅レンタカーを利用するのがベストかもしれないと思いました。ちょっと高いでしょうが、車の利点と電車の利点とを両方享受できることは替えがたいものがあります。滞在日数が長くなると、レンタカーも相当な値段になるでしょうから、電車とタクシーも悪くない選択肢になってくるでしょう。

おまけ

今回、セルフのガソリンスタンドに初めて入り、やり方がわからなくてかなり戸惑いました(給油口のキャップを自分で開けるのも初めてでした)。ガソリンスタンドを探したら、ほとんどどこもセルフになっているようで、随分時代が変わったのだなぁと実感しました。

また、間違えて、料金所で『ETCカード』の方に入ってしまって、後続の方々にかなり迷惑をかけてしまいました。料金所が『ETC』なのか『一般』なのかを確認しながらゲートを選択しなければならない、という習慣が無かったためで、随分と時代遅れとなったものだなぁと思いました。


【2006/9/20追記】

祖母に別荘にレンタカーで行ってきたことを報告しましたところ、「せっかく車を持っていないのだから、なるべく電車でいきなさい」とアドバイスをもらいました。現地で借りることについては賛成してくれましたので、今後は借りるなら現地で借りようと思います。

それから、先日の敬老の日、弟だけが祖母に電話をしていたことが分かりました。「なかなか弟を超えることは難しいなぁ」と、改めて思いました。

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2006年 9月 15日

石垣島

投稿者 by vulcan at 23:33 / カテゴリ: 雑感 / 0 コメント / 0 TrackBack

先日、知人が夏休みに石垣島に行ったということを聞いて、まだ子供の生まれていない6年前、銀行員を辞める記念に石垣島に行ってきたことを思い出すことができました。すっかり忘れていた記憶が、一気によみがえってきて、その後、当時作成したHPを見てみたところ、更に懐かしさがわきましたので、こちらでもご紹介したくなりました。

あの時はあの時で楽しかったですし、今は今で楽しい。甲乙付けがたいですが、5人で楽しめるので今の方が楽しいかなと思いました。ありがたい話です。

昔のホームページのそのまた昔のホームページの石垣島の記事

2006年 9月 14日

娘に頭が上がらない訳

投稿者 by vulcan at 09:46 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

先日、私は娘のBianに頭が上がらないと申し上げましたが、単に子煩悩で目に入れても痛くないので頭が上がらないというわけではありません。

娘は4歳にしては驚くほどいろいろなことを理解しているので適当にあしらうと矛盾を敏感に察知し、また、母親であるNamePの影響を受けていますので、私に対して容赦なく指摘をします。それらの指摘は、大まかに言うと、「お説ごもっとも」という指摘と、「それはエゴだ」という理不尽な指摘の二種類に分けられます。

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「お説ごもっとも」という指摘は、反論の余地がありません。反論するとすれば、「自分のことを棚に上げて何を言うか」とか、「親に向かってどういう口のきき方をしているのだ」という、論点のすり替えしかありませんが、そのような論点のすり替えは、何らいい結果を生みませんし、家族内で自己防衛するほど虚しいことは無いので、それはしません。

むしろ、社会において、予想される様々な攻撃に備えて知らず知らずのうちに防御を固め、無言の圧力で周りに指摘しづらい環境を構築し、仮に攻撃してくる無謀な者には、要領よくかわした後に、機を見て逆襲に転じ、倍返しで叩きのめしてきた私は、「これほど心強い味方はない」反面、「敵に回すと厄介な油断のできない奴」という評価であると思われますから、気づいた点も指摘しにくいでしょうし、実際に指摘してくれる人も少ないのが実情であり、無邪気に指摘してくれる娘というのは貴重な存在です。

つまり、これまで、祖母を除いて、母親や妻の指摘でさえも拒絶してきた私ですが、娘の指摘を受け入れることで、「指摘を受け入れることがいい方向の変化をもたらす」ということを学習し、妻の指摘や母親の指摘、更に父親や兄弟の指摘をも受け入れる余裕ができ、徐々に防御を解いていったわけです。

次に、「それはエゴだ」という指摘は、受け入れることが私のためにはなりませんし、娘のためにもなりません。要するに単なる我がままです。かといって、一刀両断に処すこともできません。それは、娘の中に自分を見るからです。

「王女様気取りか?」と思えるほど娘の我がままはいっちゃっていることがありますが、思い起こせば私も、「世界は自分を中心に回っているし、回すべきである」という王子様気取りの信念を土台に人生を歩んできており、神をも越えるとは思っていないにせよ、「神の2、3センチ下には位置するはずだ」と思い込んでいましたので、娘の我がままを一刀両断に処すことは自分のことを棚に上げることになります。

三十数年掛けて、ようやく「自分はひとかどの存在ではあるが、大した存在でもない」ということを、つまり、「どんぐりの中で比較的背の高い方、ただそれだけ」ということを完全に理解できたわけで、娘にも、自分で気づくための時間を与えてあげなければフェアーではありません。

但し、完全に放任してしまうと、私と同様に三十数年の期間を要するかもしれませんし、私と同様に失うものも多くなるでしょう。そういうわけで、時々、機を見ては、「エゴが強すぎると、人生遠回りになってしまうよ」ということを匂わせるようなアドバイスをするよう心掛けています。いつ気がついてくれるかは分かりませんが、発信し続けていれば、三十数年よりは短いと思っています。

そういうわけで、娘の指摘は何であれ、頭が上がらないというのが、今の私の姿です。とはいえ、あまりにもひどいエゴは『聞こえなかった振り』をします。逆に後で手ひどい目にあいますが(笑)

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2006年 9月 14日

きっこが出版

投稿者 by vulcan at 07:14 / カテゴリ: 雑感 / 0 コメント / 0 TrackBack

きっこの日記が予約販売(発売予定日10月10日)されましたので、私も予約しました。

出版について、きっこは以下のように述べています。

でも、ある事情があり、このたび、書籍化することにしました。 日記上で、お金儲けに利用する気はない、ということを明言してきた以上、この「ある事情」について、きちんと説明するのが筋だと思うのですが、これは、あたしの家庭内の極めてプライベートな事情なので、公にはできないことなのです。 申し訳ありません。 そのため、このようなあたしの選択について、反感を持つ人もいるかも知れませんが、どうか、あたしの気持ちを分かって欲しいと思います。
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きっこファンならこれを読むまでもなく、本を出版したいと言った6月にピンと来ていると思います。それにしても、6月末に出版社との交渉に入って、2ヶ月程で出版にこぎつけたというのはすごいスピードです。

それで、『家庭内のきわめてプライベートな事情』ですが、私の推測では『母さんの治療費でまとまったお金が必要になってしまった』ということだと思います。

『母さん』関係と『出版』関係の記事を抽出してみました。

無口なカニ祭2006/5/10
母の日2006/5/15
出版社各位へ2006/6/21
お墓参り2006/8/18
お知らせです。2006/9/13

【2006/6/15追記】

普段、書籍の紹介はAmazonのリンクを貼るのですが、今回、『きっこの日記』がまだ発売されていないこともあってか、Amazonでリンクを作ることができず、予約購入したセブンアンドワイに、自分の書店を持っていることを思い出し、そちらで紹介記事を書いてリンクを作ることにしました。

何気にそうしたのですが、そうしたことが思わぬ結果をもたらしました。

本日新たなきっこの記事『お知らせです。』(2006/9/14)を見てみたところ、『きっこの日記の詳細』というリンクが貼ってあり、そこを辿ると紹介記事の下に、私の『子宝ドットコム書店』へのリンクが貼ってあります(きっこが貼ったわけではないですが)。

そこで、13日の『お知らせです。』からリンクを辿ってみると、確かセブンアンドワイにつながっていたと思っていたのに、今はリンク先がAmazonになっていました。

もともとAmazonだったのか、私の記憶が正しいのか、今となっては分かりませんが、最初からAmazonで買っていたら、このような結果にはならないわけで、非常に驚いています。

「これが、3通ほどきっこに宛ててメールを出してきたことに対する、きっこのささやかなプレゼントか」と思ってみると、非常に幸せな気分です。

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2006年 9月 13日

皇帝シューミの引退に思う

投稿者 by vulcan at 12:31 / カテゴリ: / 11 コメント / 0 TrackBack

史上屈指のレース巧者ミハエル・シューマッハの引退についてきっこが記事を書きましたので私も書いてみます。それにしても、中田英寿の引退表明といい、時代の区切りを感じます。

私の銀行員時代、大学時代の友人I.E.の発案により、つるんでいたグループが鈴鹿に二度集結しました。確か、95年(名古屋の実家に弟と住んでいた年だったと記憶していますので多分正確です)と97年(前年のチャンピオンがデーモン・ヒルであったと記憶しており、日本GPでシューマッハが劇的な勝利を収めた年なので多分正確です)の二度だったはずです。よく見ると、日本GPで6勝したうちの1勝目(ベネトン時代)と2勝目(フェラーリ移籍後)を上げた年ですね。

寒い鈴鹿の前夜祭の夜、雨降る中でカップラーメンをすすったり、皆で銭湯に行ったり、車で寝泊りしたことが、記憶に鮮明に残っています。

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95年のレース以後、すっかりシューマッハに惚れ込み、96年にフェラーリに移籍したことでますます好きになった私は、97年の鈴鹿で、前夜祭に展示されていた昨年度のシューマッハのマシンが1番(95年が優勝だったので)をつけているのに、その年は3番(96年が3番だったので)をつけていたことに対して、屈辱感を味わっていました。

97年のレースはすさまじかったです。

予選でデーモン・ヒルがポール・ポジションを取ったかと思いきや、違反行為により17番スタートに降格し、フェラーリファンの我々は一気に色めき立ちました。その結果、ポール・ポジションはジャック・ビルヌーブ、2番グリッドはミハエル・シューマッハ、3番グリッドが同じくフェラーリのエディ・アーバインでした。

スタート直後、とんでもない光景を目にしました。エディ・アーバインがロケットスタートを切り、あっという間に一番を獲得するや、そのまま爆走して、2番手以下を半周ほど差をつけるような快進撃を見せました。どうやら、チームオーダーによって、ガソリンを少量しか積まないことでロケットスタートを実現させ、燃料が切れるまで爆走する作戦を取ったようです。最初のピットインが早めに来ることを覚悟の上で、ビルヌーブのポール・トゥ・ウィンを阻止しようとしたわけです。

アーバインは、予想通り早めのピットインをしましたが、その後も追い上げるビルヌーブを頑張って振り切っていました。フェラーリ得意のピット作戦で、シューマッハがビルヌーブを抜くと、アーバインは他者と比べて一回多いピットインにより、順位を3番に落としました。

このアーバインの圧倒的な快進撃と、フェラーリのチーム・スピリッツに感激した我々を含めた鈴鹿の観客のほとんどは、レース終了後のウィニング・ランで、優勝したシューマッハだけでなく、最終的に3位に終わったアーバインに惜しみない拍手を贈りました。

あの鈴鹿の爆音は、今でも思い出すと武者震いします。圧倒的なスピード、切れのあるカーブテクニック、そして強烈な爆走音、人が狂喜するはずです。

シューマッハが引退することとなった今、あの時親友のI.E.に誘ってもらえたことが本当に幸運だったと思い、彼に改めて感謝している次第です。

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2006年 9月 12日

猊下の教え

投稿者 by vulcan at 12:37 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

昨日、さりげなく、子育てにおける『伝えることの重要性』を申し上げたつもりですが、そのことを確信したのは大本山須磨寺管長小池弘三猊下の教えを受けたときです。

2ヶ月に及んで頭を整理した上で、いくつか独力では解決仕切れない問題の糸口を探るために、私は三人の指導者を持つことにしました。ところが実は、その他に二人の方の指導をお願いしたいと思っており、その後は思いつく人に適宜知恵を借りようと考えていました。最初の三人の次に指導をお願いしたいと思った二人とは、一人は小池猊下であり、もう一人はT神父です。

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小池猊下との面会は、祖母に渡りをつけてもらい、7月30日に実現しました。

猊下に面会する前に、例の『随筆』の中で、以下のように記していました。

私の祖父母は須磨寺の檀家のため、大本山須磨寺の管長である小池弘三猊下には、法事の際などで時々拝謁する栄誉を賜っていた。昨年のお盆などは、祖母宅にてお経を上げて頂いた後、当時3歳の娘がお茶菓子のフルーツゼリーを気に入り、それを見た猊下は自分の分を娘に与えて下さった。皆は運のいい子だと喜んだ。また、私が神戸大学の学生のころ、次のようなこともあった。

私がアルバイト先から祖父母宅に帰宅したときのことである。祖母は緊張した面持ちで、私宛に須磨警察署から出頭命令が来ていることを告げた。バイクに当て逃げされた車の持ち主が、バイクのナンバーを控えていたので、祖父母宅に連絡が入ったというのだ。

すぐさまピンときたが、事実はこうである。私が原付でアルバイトに向かっていたとき、離宮前の道は大渋滞していた。車の横をすり抜けることもできたが、時間が無いわけでもなかったので、最後尾で待つことにした。すると、反対車線を上から降りてくるオフロードバイクがカーブを曲がりきれず、私の前の車のドア下部に、前輪か、ステップをぶつけた。バイクは反動で体勢を回復し、そのまま逃げ去って行った。前の車は何が起きたのか理解できなかったようで、渋滞が緩和されて前が進んでいるというのに立ち止まっていた。そこで、私はその車の横をすり抜けて前に進んだのだが、助手席のおばあさんが私を犯人と勘違いして私の原付のナンバーを控えたのだった。

何も後ろめたいことは無かったので、祖母に安心するように告げて須磨署に出頭したのだが、「果たして私の説明に、警察官が納得してくれるのかどうか」と多少の不安があった。当然、事実を見たわけではない祖母の不安は想像を絶するものであったろう。「大切な孫を預かっておきながら、孫の将来が台無しになるのを黙って見ているわけにはいかない。」そう祖母が思ったのか、実は、祖母は、私が警察から帰れない事態になった場合、猊下にお願いして、被害者との間を取り持ってもらおうと画策していたらしい。

警察に出頭したところ、私の説明に怪しい点が無かったことと、車についた傷の高さからいって、原付でつけられることはあり得ないということに警察官が納得し、無罪放免となった。それでも被害者の方は、私のバイクにも傷があることを見て取り(何度か転んだことはあった)、主張を曲げようとしなかったが、警察官は「これだけ車のドアがへこんでいるのに、原付のプラスチックが傷だけで割れていないというのはあり得ない。」という結論を出して、被害者の方を納得させてくれた。

結局、猊下の出番はなかったのだが、「祖父母に守られている、そしてその先には猊下が鎮座してくださっている」ということに、当時、大変感謝したものだった。

そんなわけで、本書を書きながら、祖父母に誇りに思ってもらうためにも、私は猊下との面談を強く希望した。そこで、祖母にお願いしてアポイントを取ってもらったというのが経緯である。

当初は、面会を私の存在理由を解決するための一助としようと思っていたのですが、直前に考えが変わり、別のことを相談しました。猊下は非常に温和な方のように見受けられますが、祖母の話では随分と苦労をされていらっしゃるとのことでした。

いくつか伺ったことの一つをご紹介します。

「自分を変えるということは、自分が変わろうと思うことで実現できると思っておりますが、他人を変えることはできないと思っております。だからといって、そのまま見過ごすのはどうかと思い、変わってもらいたいと思う人に対して、どう接したらよいのか、教えていただけないでしょうか。」

この質問に対して、猊下は、次のように仰いました。

「他人を変えることは難しいことです。頭で理解させることができたとしても実践に移させることは難しいですし、実践したとしてもそれを継続させることは更に難しいです。そもそも、頭で理解させるということすらなかなかできないもので、お寺に来る方々に対して、私も同様の難しさを感じています。」

「相手を変えることはできませんが、気づいてもらうことはできると思います。相手に気づいてもらうためには、発信し続けることが大事です。宇宙に向かって電波を発信し続けなければ、宇宙人に気づいてもらう可能性をついばんでしまうのと同じように、相手の機が熟すまで発信し続けることです。」

「それから、相手に聞く耳を持ってもらうためには、まず、相手の思いを聞くことです。一方的に伝えるだけでは相手も耳をふさいでしまうかもしれません。それに、こちらが伝えようと思っていることは、聡明な方であれば既に深いところで理解している可能性があることも考慮しておく必要があると思います。いろんな事情があってそうした思いとは違う発言・行動をとっているとしたら、相手の思いをよく聞くことで、こちらが伝えようとしていることを引き出すことができるかもしれません。」

このことは、対人関係全般に当てはまることであり、子育ても例外ではありません。つまり、『伝えること』と『思いを聞くこと』が何にせよ重要であるということを、このとき確信した次第です。

ところで、猊下にお会いする数日前、3人の指導者のうちの一人である銀行員時代の元支店長とお会いし、そのことを『随筆』に記しました。

私は、大学卒業後、東洋信託銀行に入行した。そして、赴任先の名古屋支店の支店長がM.Y.氏であった。当時の私には雲の上の人であり、また、氏は何でもお見通しで、検討不十分で、確信を持たずに行なった融資稟議に対しては容赦が無かった。そんなわけで、私はといえば、蛇に睨まれた蛙よろしく、氏と対面することが極度の緊張状態を生み、「なるべく早く話を切上げて逃げ帰りたい」という思いが強かった。しかし、毎週火曜日の朝礼で話される、氏の人生観、銀行業観はいつもワクワクさせられ、当時の楽しみの一つだった。正確に記憶していることがほとんど無いことが残念であるが。

私が東洋信託銀行を退職し、今の会社に入社した際、M.Y.氏に報告した。氏の助言が欲しかったからなのか、氏に誇りに思ってもらいたかったのか、確たる理由などなく、氏に報告したいと思ったので報告した。そして、私がベイタウンに引っ越し、お互いに自転車で行き来できる程度の距離となった2004年以降は、時々お会いしては、子供達を祝福して頂いた。

そんなM.Y.氏に対して、私の考えを評価してもらいたいという思いが強かった。バンカーとしてプロ中のプロであるM.Y.氏であれば、私の構想が現実離れした甘さがあるのかどうかを見極められるであろうし、その指摘も甘んじて受け入れられよう。しかし、指摘を受けてへこむようなことにはなりたくなかったので、それを活力として飛躍できる心構えができるまで、安易に相談するのは控えていた。

さて、とりあえず頭の整理がついたところで、いつもながらの突然の電話を入れ、10分ほど近況を交し合ったのち、20分後に待ち合わせることとなった。

M.Y.氏と再会し、居酒屋で夜中の1時過ぎまで、2時間半ほど話し合った。氏の神通力はすさまじく、電話で話した10分で、おおよそのことは全て見通されており、「顔を見ず、突然電話してきた状況や、声の調子と文脈だけでここまで読み取れるものなのか」と舌を巻いた。そういうわけで、どんな話題も一だけ説明すれば十分であり、次々といろんな話題について思いを伝えることができ、非常に充実した時を送った。

特に感動したのは、私の状況を察知して、『天台勤行集』を贈呈してくれたときだ。「ちょっと頭を整理したので、読んでもらいたいものがある。」という電話での私の話を聞き、「おそらくそこには仏教の教えに通じるところがあるだろう」と解釈した氏は、家にあった檀家用のお経の本である『天台勤行集』を持参されたのだ。氏の実家は天台宗のお寺であり、氏に対しては、「仏教的な教えも賜りたい」と常々思っていたので、この展開は思いがけないサプライズであった。もしかすると、電話の際、ちょうど数日前に氏の母君が亡くなられ、氏が実家に帰っていたことを聞いた私の反応に、『天台勤行集』を欲する気持ちが表れていたのかもしれない。これこそが『以心伝心』なのだろう。また、M.Y.氏と会った数日後には、大本山須磨寺の管長である小池弘三猊下との面談が予定されていたため、運命の必然性に心震わせる思いであった。

氏は「何事も心構えが大切であり、心構えができていれば7割なったも同然。」と説いた。そして、その心構えとして、経典を開き、お経を読む前に唱える『開経偈(カイキョウゲ)』の中から「無上甚深微妙法 百千萬劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来眞実義」を説明して頂いた。つまり、「この上なくありがたい仏教の妙義というのは、百千万年経ってもなかなか得られるものではない。しかし、私は今、その教えに触れることができた。願わくば、お釈迦様の到達した真理を理解したいものである。」ということだ。これは、会社経営に関しても通じるところであり、「会社経営の妙義というのはなかなか得難いものであるが、教えに触れ、その真理を理解したいものである。」という気持ちで毎日唱えることを氏は勧められた。

また、お経を唱え終わるときの『回向文(エコウモン)』の中から「願以此功徳普及於一切我等與衆生皆共成仏道(願わくば、この功徳を以って普く一切に及ぼし、我らと衆生と皆ともに、仏道を成ぜんことを)」を説明して頂いた。つまり、「願わくば、この功徳を、生きとし生けるものすべてに振り向け、お釈迦様が目指した真に幸せな世の中とするために、共に進もう。」ということだ。これを毎晩、一日を振り返って唱えれば、素晴らしい人格となることは間違いない。

そんなこんなで話が弾み、気がつけば夜中の1時を回っていた。氏はいろんなことを親身になって心配してくださり、私の覚悟を正してくださった。

あれから2ヶ月近く、『開経偈(カイキョウゲ)』の一節と『回向文(エコウモン)』の一節を、毎日、心の中で唱えています。短い文章なので、記憶力の悪い私でも数日もすればそらんじることができるようになりました。唱えてみて分かったことは、心が非常に落ち着くということです。つまり、心構えができるのだと思います。

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2006年 9月 11日

育児に思う

投稿者 by vulcan at 12:00 / カテゴリ: 存在理由 / 2 コメント / 0 TrackBack

妻が時折使う言葉として『子育ち』というのがあります。『子育て』という言葉が、親が子供を育てるというイメージとつながりやすく、その結果、「親は子供を育てる義務がある」とか、「子供は親の指導に従わなければならない」とか、そういった観念を必要以上に植えつけてしまって、「親も疲れ、子も疲れる」という不幸せな現象を生んでしまうのを危惧してのことだと思います。

つまり、妻が言いたいのは、「子供は育つものであって、育てるものではない」ということで、親は子供の成長のサポーターであるということだと思います。

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我が家には4歳(Bian)、2歳(Hikaru)、0歳(Tama)の三人の子供達に恵まれているのですが、電車やスーパーで、見知らぬ人に「大変ねぇ」とか「今が一番大変だけど頑張ってね」とか言われることが、実はあまりピンと来ていません。

こういう「大変ね」という言葉掛けは、非常に一般的な挨拶言葉になっていると思いますが、実は非常に良くない習慣だと考えています。掛ける本人も無意識に行なっていると思いますが、掛けられる方も「大変ね」ということを日々言われ続けることで、無意識に「子育ては大変だ」と思い込んでしまうからです。言ってみればこれもある種の洗脳で、日本全体が子育てについて洗脳されていると言えるのではないかと思います。

先日、地縁に恵まれて知り合いになったD氏と飲みに行ったとき、「吉村家(匿名では不自然ですし、匿名にしておかなければならない積極的な理由もないので実名です。)の子育論を聞かせて欲しい」ということだったので、あらためて子育てについて考えるきっかけとなりました。

そうして考えて見ますと、少なくとも私は『子育て』というのをほとんど意識したことがないように思います。子供の将来に思いを馳せたり、子供の性格を分析することはありますし、どういう価値観を持った人間になって欲しいかというものはあり、適宜思いを伝えていますから、『子育て』に無関心とか、『ほったらかし』というのとは大きく違いますが、かといって、教育熱心では全然ありません。

そうした我が家では、子供が三人いることが非常に効果的だと思います。

子供同士で仲良く延々と遊んでいるときは、親は手が離せます。一人っ子の場合は、子供同士で遊ぶのは幼稚園か保育園であり、家に帰ったら、母親と遊ぶか、母親に友達と遊びに連れて行ってもらうか、ゲームなどの一人遊びをするか、テレビを見るほか無いのかもしれません。

また、親として『分かち合いの精神』を育んで欲しいという気持ちがあり、常にそれを伝えようと心掛けていますが、道徳を教え諭すように言い続けたところで、子供にはつまらないし、理解しにくいし、あまり効果的ではないでしょう。したがって、実際に『分かち合いの美しい精神』を子供が実践したときに、その瞬間を見逃さずに心底喜ぶことが伝え方としては重要となると考えていますが、一人っ子の場合、たまたまそういう精神に基づいた行動を行なう性格であればいいですが、そうでない場合にはなかなか難しいかもしれません。

その点、兄弟がいると、誰かが素晴らしい精神を見せたときに親が喜びますので、常日頃、「他人を見て学ぶ」ことができます。『分かち合いの精神』にかけては、ずば抜けているHikaruを見て、Bianも随分と成長してくれましたし、Tamaも成長してくれるでしょう。

そう考えると、親がまず、『分かち合いの精神』を実践する必要性がよく分かってきます。「子供にはこうなって欲しい」と思っていても、親が利己的であれば、そんな精神が育つはずもありません。兄弟がいればまだ救いようもあるかもしれませんが、一人っ子の場合は、なおさら親が己を律することが求められると思います。

また、子供の成長や美しい心を目にすることで、自分の反省材料にもなりますし、頭が上がらない存在(私の場合はBian)ができることで、(世界の中心は自分ではないことを理解して)謙虚にもなりやすくなり、毎日、子供に必要とされていることを実感することで元気がみなぎります。

とはいえ、夫婦が共同して子育てに関与しなければ、確かに大変かもしれません。母子家庭や父子家庭であれば、ある意味それが自然となって、現状を受け入れることにより、大変にはならないかもしれませんが、夫婦でいるのに夫が子育てに関与していないとすると、そうした現状を受け入れられない場合に、『大変』と思う可能性が高いと思います。

そんなわけで、書きたいことはもっとあるような気がするのですが、とりあえず一度ここでまとめますと、「子育てというのは人生における最大の楽しみである」ということです。子供を育てるせっかくの貴重な時期は、なるべくそれを楽しむために時間を使うことを第一に考え、その他のこと(私であれば、趣味のツーリングやスノーボード、資格勉強等)は子供が巣立っていってからでもできることなので、後の楽しみに取っておくのがいいのではないかと思います。

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2006年 9月 10日

アンデルセン公園

投稿者 by vulcan at 00:02 / カテゴリ: 育児 / 2 コメント / 0 TrackBack

先週末、船橋にあるアンデルセン公園に行ったのですが、すっかり気に入り、年間パスポートを購入したのでまた行ってきました。

大人900円とさほど高いわけではなく、年間パスポートが3000円なので、4回行けば得になります。先週は、一般料金で入場したのですが、園内で手続したので、3000円との差額を支払うことでパスポートが取得できました。

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昼食は一人350円ぐらいに抑えることが可能で、非常に良心的です。交通費は我が家の場合、片道が電車370円バス180円です。その他に、自転車に乗ったり(4人乗りで300円)、バギーを借りたり(1台100円)、ミニ鉄道を乗ったり(一人100円)、アイスクリームを買ったり(1つ250円)するにしても、パスポートを持っていれば、我が家の場合の予算としては、5000円ぐらいです(意外に高いな…)。

まあ、ディズニーランドに行くことを考えたらずっと安いでしょう。我が家の場合、ディズニーランドにはクレジットカードのポイントで行くことにしており、電車代も片道290円なのですが、食事代とポップコーン代、更にグッズをせびられて、結局予算的には1万円近く行ってしまいますからね。

園内の様子ですが、まず、子供たちが一番喜ぶのはジャブジャブ池です。子供プールといった感じで、子供の水着を持参されている方も多く、我が家も今回は水着だけでなく浮き輪も持参しました。また、フィールドアスレチックがめちゃくちゃ充実しているので、子供達は大喜びですし、大人も楽しめます(普段の運動不足によって、子供に悪い例を示すことができます)。フィールドは森の中なので、日差しをさえぎり夏でも涼しいです。

先週は、その他にボート(30分300円)に乗りましたが、今週は代わりに変形自転車(4人乗り300円)に乗りました。

まだ行っていないところがいくつかあるのですが、一番注目しているのは子ども美術館です。ここは、冬場に重宝しそうな遊び場です。

とにかく、子供が楽しむことは間違いなく、妻が近所で聞き取り調査した結果でも、「あそこを気に入らない子供はいないだろう」というのが一致した意見のようです。

一番のネックは交通です。予算5000円のうちの2200円が交通費なのでそれだけでも存在感がありますが、ドアツードアで片道およそ1時間半はかかっているようです(つまり往復3時間)。更に、我が家の場合、京成の検見川駅まで自転車で行きますので、雨の日は無理です。今日は、妻がゴミ出しとレンタルDVDを返しに行ったので、私が子供3人を乗せて4人乗り(子供は前と後ろと背中)で駅まで行きました。駅についた途端妻が到着したのでよっぽどのろのろ運転していたと思いますが、サイクリングロードの道すがら、何人かに「すげぇ」と言われちゃいました(妻は毎日のことですが)。

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2006年 9月 09日

性格診断

投稿者 by vulcan at 00:01 / カテゴリ: / 13 コメント / 0 TrackBack

先日、『ホメオパシー』について調べていたときに辿り着いた温心堂のご主人に対して、引用の報告メールを出しましたところ、期待はしていたのですが、ご返事をいただきました。そんなわけで、以後、ご主人とはメールのやり取りをする仲になれて非常にHappyです。

ご主人とのメールがきっかけで、その後、いくつかのサイトを巡ることができたのですが、その中で、無料で性格診断をしてくれるサイトを訪問しました。自己分析をしてみたばかりでしたし、他の理由もあって少し興味を持ち、遊び半分で診断を受けてみることにしました。

診断として20の質問に答えたところ、「こんな診断結果が出たらいいな」と思っていたそのものズバリが出てきたので、少し驚いています。

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常に客観的、論理的に物事を判断する人です。  感情やその場の雰囲気で物を言うのではなく、事実に基づいたデータや手順をもとに慎重に結論を出そうとします。常に「抑え(代替案)」を考えている人です。自己主張はそれほど強くなく、相手にも主張を押し通すことはなく、譲ることのほうが多いかもしれません。感情を抑えた冷静な行動をとります。周りからは「秩序正しい人」「細かい人」「批判精神が旺盛な人」だと思われているようです。

■ 人にはどう接する?
 控えめで、相手との付き合いに距離を保つ人です。
 常に相手を客観視しており、なじむのに時間がかかります。このため周りからは「とっつきにくい人」だと思われがちです。が、いったん親しくなると非常に深い付き合いになります。少ないけれど、身の詰まった付き合い方をしそうです。

■ 時間の使い方は?
 行動を起こすのはゆっくりと、何事にもじっくり時間をかけるタイプです。
 常に自分が正しくありたいと考えるため、焦って間違いを犯したくないのです。
 そのため、新しいことをはじめる時や方向転換する時もあらゆる場面を考慮し、「焦らず騒がず」の精神を貫きます。時間の使い方を「長期にわたるもの」ととらえ、新しいことも自分の肌になじむまでじっくり待つほうです。

■ 仕事への取り組み方は?
 結果よりも「過程」を大切にする人です。
 コツコツとまじめに働きますが、精確に順序だてて丁寧に物事を進めていくので、出来上がりには時間がかかりそうです。計画を立てるとかなりの力を発揮しそうです。

当っているか当っていないかといえば、当っていると思っています。人間とはいろんな側面を持っているので、上記で私を全て言い尽くしているとは思いませんが、根幹の部分はそれなりに押さえていると思います。いずれのコメントも、今の私には非常に意義の高いコメントです。

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2006年 9月 07日

紀子様の男子出産について

投稿者 by vulcan at 14:43 / カテゴリ: / 13 コメント / 0 TrackBack

先日、伊藤若冲の絵画を見るために皇居に行き、売店にて、菊の御紋の入ったステキなカフスボタンとタイタックのセット(3500円)を見つけました。これを機会に愛国心を高揚しようと思い、妻の了承を得て、購入することができました。

アメリカでは『愛国者法』なるものが、911テロのすぐ後に可決されておりますが、愛国の名の下に、法的な権力を生み出すというのは、ちょっと行き過ぎというか、狂気じみた印象さえ受けます。愛国心というのは個々人の心の問題であって、これに基づいて法的な罰を与えるというのは、どう考えても良いことだとは思えません。『愛国者法』にならった『共謀罪法』が成立しないでほっとしていますが、秋の臨時国会で再度審議されるとのことで、注視しようと思います。

さて、紀子様が男子を出産しました。テレビも新聞も見ない我が家では、世間がこのテーマでどれぐらいにぎわっているのか、実感が湧きませんが、とにかく「まずはめでたい」という気持ちです。

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これで、皇位継承に関する問題が全て解決されたとは思いませんが、一つの区切りがついたことは良いことです。また、皇位継承問題を通じて、世の中が天皇制に対して多少なりとも理解しようとしたことは非常に良かったと思います。これまで、無関心を装い、なるべく天皇制に関しては態度を曖昧にすることが私を含めた世間に求められた態度であったような気がしており、こうした機会が無ければ、今後も天皇制を論ずることはタブー視されていたかもしれません。

私は、天皇制について知識が浅いので、今のところ天皇制に関する大胆な議論を展開するつもりはありませんが、せっかくのめでたい機会ですから、多少思うところを述べたいと思います。

まず、小沢一郎氏が自由党党首であったころの文藝春秋 1999年9月特別号『日本国憲法改正試案』の中で、「天皇は日本国の元首だ」と述べていらっしゃる点についてです。日本国憲法の第一条「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」を読んでも、「象徴って、結局どういうことだ?」と長らく疑問を持っていましたが、

例えば第六条に書かれているように、主権者たる国民を代表し、若しくは国民の名に於いて内閣総理大臣及び最高裁判所長官を任命するのは天皇である。又、外国との関係でも天皇は元首として行動し、外国からもそのようにあつかわれている。このことからも国家元首が天皇であることは疑うべくもない。天皇が国家元首であることをきちんと条文に記すべきであると主張する人もいるが、今の文章のままでも天皇は国家元首と位置づけられている。

を読んで、天皇が元首であることを大前提にして考えると、いろんな不思議が消え去り、またつじつまが合うわけで、非常にすっきりします。

紀子様の男子出産について、「雅子様がかわいそう」という見解があちこちで見られますが、雅子様は今回のことでほっとしているかもしれません。皇室に対するプレッシャーを考えると、強くそう思います。

また、今回の皇位継承問題を通じて、皇室に人権があるのか無いのか随分議論されたことと思いますが、皇室はともかく天皇には人権が無いというのが矛盾の無い考え方なのでしょう。天皇に人権を認めるということは、天皇制を廃止するということに、結局は到達するものと思われます。

室町時代以後、天皇が政治の中心になることはなく、幕府、元老、内閣が政治の中心であり、天皇制が権力者にとって都合のよいように様々に利用されてきたというのが長年の歴史の実態かと思います。しかし、時代の流れ、時代の要求によって権力者は次々と変わる中、大きな混乱をきたすことなく時代の変化をうまくつなげてこれたのが、天皇家の最大の貢献ではないかと思います。つまり、平素はあまり必要とされなくとも有事には威力を発揮するということです。

そういう意味で、将来の危機に備え、歴史ある天皇家の伝統は、それが伝統であるがゆえに守るべきというのが私の立場です。伝統は、一度断ち切ってしまうと復活させることは容易ではありません。有事になってから嘆いても遅いわけです。したがって、皇室典範に関しても、物理的に守ることができないような伝統は諦めるほかありませんが、守ることが可能である伝統であれは守ることを第一に尊重すべきではないでしょうか。

2006年 9月 06日

自己分析

投稿者 by vulcan at 18:34 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

以前、「得意なことと好きなこと」を列挙したことがありましたが、もう一度分析しなおし、そこから何か導けないか検討しようと思います。

2005年 2月 10日
2005年 2月 11日
2005年 2月 13日
2005年 2月 16日

今回の検討に当たっては、「好き嫌いという生理的な事項は変えようと思っても変えられない(不変項目)、これに対して得意不得意は変えられる(可変項目)」ということを意識しました。但し、生理的事項に深く関係することであって、且つ、不得意な項目は、「努力も矛盾するため、むなしい結果に終わるだろう」と考え、克服するのではなく、補ってくれる人を探す方向を模索しようと思いました。ということで、得意不得意といった可変項目については今後どうしたいのか(現状に満足、伸ばしたい、克服したい、他人に頼る)を付記するようにしました。

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  • 好き嫌い【不変事項】
    • ワクワクする
    • 好き
      • 文章を書く
      • 透明性
      • 一貫性
      • 効率化
      • 哲学
    • 生理的に受け付けない
      • 隠蔽、内緒話、陰口
      • 首尾一貫しない人
      • 言動が一致していない人
      • 裏表のある人
      • 裏技ばかり求めようとする人
      • 指導者と仰いでいる人以外から上司ぶられる
      • 建設的でない議論
      • エレガントでない業務
      • 無駄にテレビを見る
    • 性癖
      • 興味が無いことに対して極度に無関心
      • 誰に対しても率直に意見する
      • 話題が堅苦しい
      • 結論めいた話をして、会話の流れを切る
    • 価値を置いていること
      • 一族に対する誇り
      • 子供の幸せ
      • チームワークによる達成感
  • 得意不得意【可変事項】
    • 非常に得意
      • Excel及びExcelVBAの活用(現状に満足)
      • 経理・財務(現状に満足)
      • 分析する(現状に満足)
      • 予測する(現状に満足)
      • ポジティブに解釈する(現状に満足)
      • 仕事の質が高く、早い(現状に満足)
      • 工程見積り、期日管理(現状に満足)
      • 目上の人に一目置いてもらう(現状に満足)
      • 顔を覚える(現状に満足)
      • はったりをかます(現状に満足)
      • スノーボード(現状に満足)
    • 割と得意
      • ネットサーフィンする勘所(伸ばしたい)
      • 法的根拠の調査(伸ばしたい)
      • 電子ファイルの体系的管理(伸ばしたい)
      • 体験の記憶(伸ばしたい)
      • 筋を通す(伸ばしたい)
      • 人を見通す、配慮する(伸ばしたい)
      • 物事の本質を理解する(伸ばしたい)
      • 優先順位をつける(伸ばしたい)
      • アドリブを利かす(伸ばしたい)
      • 子供を喜ばせるアイデアを出す(伸ばしたい)
      • データベース構築(他人に頼る)
      • システム構築(他人に頼る)
    • ポテンシャルはあると思うが未知数(or向上中)
      • 組織マネジメント(伸ばしたい)
      • プレゼン能力(伸ばしたい)
      • 人脈(伸ばしたい)
      • 商品・販売アイデア(伸ばしたい)
      • 顧客折衝(伸ばしたい)
    • 割と苦手
      • 正論を見極める(克服したい)
      • 感情を表に出す(克服したい)
      • 童心に返る(克服したい)
      • 子供の繰り返しに我慢強く付き合う(克服したい)
      • 家事(克服したい)
      • 女性をリラックスさせる(他人に頼る)
      • 同年代、年下の人との話題を見つける(他人に頼る)
      • 分かりやすく教える(他人に頼る)
    • 非常に苦手
      • 日々の整理整頓(克服したい)
      • メールの整理整頓(克服したい)
      • 人前でスピーチする(克服したい)
      • 外国人と話す(克服したい)
      • マニュアルを整備する(他人に頼る)
      • 名前を覚える(他人に頼る)
      • 漢字を書く(他人に頼る)
      • 音楽・絵画・映画等芸術方面の教養(他人に頼る)
      • 芸能・スポーツ事情(他人に頼る)
      • 海外情勢(他人に頼る)
      • 暗算、電卓計算(他人に頼る)

これらを見据え、自分の将来像を検討するたたき台にしようと思いますが、それは後日にします。

ところで、例の『随筆』の中で、長所と短所について述べたところがありますので、以下に引用したいと思います。

長所と短所はどちらが多いか

長所と短所の数を比較してみようと思った。自分はスーパーな人間だからさぞかし長所の方が多いだろうと思ったが、短所というか欠点も結構あることに気がついた。そして、欠点ではなく短所ということで考えると、ドイツ語は知らない、フランス語も知らない、英語も心許ない、ロシア語、中国語、韓国語など全然知らないし、自分の専門分野以外のことは無知に等しく、流行も知らないし、他の世代のことも知らない。それらは全部短所と言えるのではないかと気がついた。となると、自分はほとんど何も知らないわけで、長所と短所の数を比較するとすれば、長所1に対して短所は∞ということになる。

つまり、所詮人間などどんぐりの背比べで、何も知らないわけだ。上司は部下よりも何でもよく知っているかといえば、それも間違いで、確かに所属部門の専門知識は豊富かもしれないが、それだけのことで、部下は流行に敏感かもしれないし、ITスキルが高い可能性は大いにあるし、専門分野の知識でさえ部下の方が高い可能性もあるし、組織のマネージメント能力以外は全部部下の方が上ということもあるかもしれない。

したがって、無限大の短所を補っても埒が明かないので、短所は大いにあることを自覚するに止め、長所を伸ばす方が良い。また、長所というのは非常に狭い領域なので、いろんな人材の長所を活かし、協働することを第一に考えるべきである。

ところで、長所と短所の数の比較とは別に、長所と欠点の数の比較であったらどうだろうかと考えてみた。すると、「欠点は長所の裏返しなのだから、長所と欠点の数を比較すれば1対1である」ということに行き着いた。だからどうというわけではないが、両者は表裏一体なのだから、欠点を意識しすぎれば、長所は伸ばせないし、長所だけを伸ばそうとしても、欠点も伸びざるを得ないのかもしれない。

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2006年 9月 05日

代替医療

投稿者 by vulcan at 13:39 / カテゴリ: 存在理由 / 3 コメント / 0 TrackBack

昨夜、妻から『ホメオパシー』に興味があると言われました。「ホメオパシーって何だろう?」という状態だったので、早速ホメオパシーについて調べてみました。Yahoo!で検索すると約50万件、Googleで検索すると約67万件、homeopathyで検索するとYahoo!で約800万件、Googleで約1100万件と膨大にヒットしますので、情報量はこと欠きません。

そんな中で、十数サイトを閲覧し、概要はつかめてきましたが、ホメオパシーがカルトなのか、21世紀の包括医療、統合医療なのかは判然としておりません。ホメオパシーに関する俄か知識を仕込むには日本ホメオパシー振興会のQ&Aが有用だと思います。

一方、日本ホメオパシー医学会ではホメオパシーの危険性を述べていますが、レイホメオパス(医学的な資格を持たないホメオパシー治療従事者)の拡大による権威の失墜を危惧しての防衛策という印象があり、何か違和感を感じました。日本ホメオパシー医学会の研修を受講できる資格者は『医師、獣医師、歯科医師、薬剤師の国家資格をもつ医療者』に限定しています。

日本ホメオパシー振興会が運営しているハーマンアカデミーは38,000円のセルフメディケーションコースも用意されていますが、本格的に学ぼうとすると4年間、343万円必要のようで、アカデミーを卒業しても医師/獣医師免許が無ければ医療行為ができるわけでもなく、将来、民間資格が国家資格になるのを期待して待つほか無いようです。

343万円あれば、その道数十年の専門家に診てもらった方が安上がりでしょうし、間違いも少ないでしょう。費やさずに済んだ時間は別の自分にふさわしい事項に回すことができます。教養のために38,000円のセルフメディケーションコースを受講することは意義もあると思いますが、ネットの情報も膨大にあるわけですし、図書館でも色んな文献を借りられるでしょうから、お金を使うことを急ぐのもどうかと思います。

また、医師法、薬事法はややこしく、あまり深入りしたくない領域として普段は避けて通ろうとしているのですが、ホメオパシーに興味を持つ以上は避けて通ることはできません。

日本の医師法・薬事法とホメオパシー

とはいえ、ハーマンアカデミーにおいて、ホメオパスを、「森羅万象の摂理に精通し、自然の摂理・道理に基づくことによって病の状態をその人本来の健全な状態に導く者」と定義しており、治療に人生哲学・世界観を導入している点は、新鮮な印象を持ちました。しかし、よく考えると代替医療と呼ばれるものは多かれ少なかれそういった側面があるのかもしれません。

そんな調査過程の中でたどり着いたのが、漢方の温心堂薬局です。ここにたどり着けただけで、ホメオパシーについて調査した労力は全て報われ、大いに甲斐があったことを理解しました。

まずは、ホメオパシーに関する所感を読みました。一部を抜粋して紹介します。

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ホメオパシー

とにかくこうして出来上がったものがレメディーというホメオパシー薬である。しかし実際はただの水なのだ。苦しい説明をするならば希釈し振とうし1分子残す操作によりもともとの物質の記憶を残し、それが治療効果を発揮するというのだ。まさに仮説に仮説を重ねた治療理論である。このレメディーは時に薬局の店頭に並べ販売もされている。普通に飲用する限り、水に副作用はなく同じく効果もない。

これこそプラシーボの典型であろう。しかしこれに学ぶところは多い。レメディーの製法は細かく厳しく正確な手順を踏まなくてはならない。まさに神々しい治療のための儀式なのだ。これで期待できるものは治療家と病者の思いが渾然一体となって発現するプラシーボ効果であると考えるのがもっとも妥当なところである。放置しておいてもやがて日々揺れ戻る体調や一部の軽い病気、精神的なストレスによってもたらされる体の不調は、副作用のないレメディーを使っても被害は少ない。

「かなり偏見に満ちた文章だな」というのが第一印象でした。しかし、筋も通っていますし、効果がないと言っているわけではありません。プラシーボについては、「では、動物に効くというのはどう説明するのだ」という反証がすぐ返ってきますが、プラシーボが『効く』という信念による効果だとすると、信念を持つのを患者に限定する必要は無く、治療行為をする人の信念であっても構わないのではないかと思います。一見ぶっ飛んだ論理だとしても、「この水を飲めば愛犬が息を吹き返す」と信じて飲ませば、犬にも思いが通じるというのは、感覚的には理解できなくも無い話です。

そんな感じで読み始めた『温心堂』ですが、ありとあらゆる代替医療について所感が述べられており、いちいちうなずかずにはおれません。非常にバランスの取れた人物であることがうかがい知れます。

以下、気に入った表現を引用します。

漢方医学

漢方薬がいくらか有効だとして、それを利用する場合、分量や煎じ方に注意がいる。更に剤形によっても効果は異なる。異なるような気がするというべきなのか。エキス顆粒と同じ処方の煎じ薬、丸剤、散剤でそれぞれ手応えが違ってくる。

漢方に20年余りの歳月を係って来た温心堂主人が効果について『気がする』という表現を使われているのは、非常に含蓄があると思います。一時は漢方を万能と崇めた温心堂主人が到達した境地がここには濃縮されて表現されているのではないでしょうか。

鍼灸

それぞれ相容れない理論で治癒例を重ねているのを見ると、理論は科学的法則ではなく教義に近いような気さえしてくる。「気」に関われば、奇妙な観念に取り憑かれ、その観念に基づく奇妙な治療が行なわれたり、カルト的になったりする。鍼灸のみならず代替医療に普遍的に見られる注意すべき点である。

気功

更に気功について是非述べておきたい事がある。気功に取り憑かれ「魔境」に入った治療家や同業者を幾人か知っている。気功の副作用を「偏差」という。偏差が認識できるうちはまだ魔境に入っていない訳だが、その認識も出来なくなるくらい気功に傾倒すると妄想が芽生えプライドだけが限りなく「神」の領域に近づく事になる。「気」という曖昧で未確認のものには、不可解で常識を逸脱した恣意が入り込みやすい。量子力学などと弄し理解不能なものを似非科学で説明されると、更に理解困難になる。そしてこの気功こそ魑魅魍魎の跋扈する巣窟でもあり、また魑魅魍魎にもっとも利用され易い療法かもしれない。理解不能な理屈や科学に騙され得体の知れない道具を買わされる。ただのブリキのペンダントに師の「気」が込められているとして法外な金銭を要求する。ただの水を波動水やイオン水と称したり、ただの粗悪な薬草茶を仙薬と称したり・・・まさに人の健康願望につけ入る見事な商売を展開してくれる。

気功の限界と効用と療法の実態を考えるなら、もっぱら内気の充実に徹し呼吸法でリラックスしたり、体を柔軟に動かすことで、自然と渾然一体となる爽快感を愉しむに留めておいたほうが賢明であろう。

恐らく『魑魅魍魎の跋扈する巣窟』という表現で想定している魑魅魍魎とは比喩であって、字句どおりの『いろいろな化け物』を指しているのではなく、邪悪な心を持った人々という意図であると思いますが、妖怪変化の類を指していると解釈することもあながち間違っていない気がします。信心深い人に対して、魑魅魍魎は取り入ろうとするわけですから。

マクロビオティック(玄米菜食)

MLに参加して感じたのは医学的根拠もなく、精神主義的指導で実際に病気が治った人が居る事である。プラシーボ、自然治癒力とあっさり言い切ってよいのか?偶然自然治癒力が生かされたに過ぎないのかもしれない。しかし治療家によってその偶然の自然治癒力を引き出せる人と引き出せない人が居るのは確かである。熟練の技術なのか才能なのか・・・適確な言葉が見つからない。代替医療に限らず西洋医学の医師にも認められる。誤解を招く表現を許してもらえるなら天性とか霊的(spiritual)とでも形容するにふさわしい能力をもった治療家である。治療法の如何に関わらず高い治癒率を上げうる治療家であれば、通常医療より期待がもてるだろう。諸々の療法も極めれば「癒し」という一つの境地で融合するのかも知れない。

アーユルヴェーダ

人の代謝パターンを3分類し(カパ・ビッタ・ヴァータ)、これが五大環境元素(地・水・火・風・空)と結びついていると解釈する。東洋は体そのものも自然の一部、内なる宇宙とよび、自然と同じ環境があると考えている。余談になるがこの3分類は、偶然にも心理学でクレッチマーやシェルドンが唱えた、人の体型と気質の3分類に酷似している。
※闘士型→てんかん気質、痩せ型→分裂気質、肥満型→躁鬱気質。

ホメオパシーについて調べているとあちこちで目にする『アーユルヴェーダ』についても所感が述べられていたので注目しました。そして、心理学者の斎藤 環氏による『石原慎太郎を精神分析する』(週刊朝日別冊「小説トリッパー2001年秋季号」)というインタビュー記事を、一月ほど前に読んだときの記憶が蘇ってきました。そこでも、ドイツの精神科医クレッチマーが提唱した「分裂気質・てんかん気質・循環気質」という人間の気質に関する三分類について説明がなされていたからです。

カイロプラクティック(整体術)

創始者・パーマー氏は「あらゆる病気の95%は椎骨のズレが原因である。」従って「椎骨を調整することにより、あらゆる病気をなおすことができる。」という理論を展開している。ところが、パーマー自身が病気になった時には、普通の医師の所へ行ったという。1952年刊 パーマー著1問1答カイロプラクティックの本に、こんなことが書かれてある。

Q:背骨の機能は何でしょう?

A: 1)頭を支える  2)肋骨を支える  3)カイロプラクターの生活を支える

3)の選択肢には思わず失笑してしまうが、案外3)が正解なのかも知れない。

電気・電磁波療法

熟練した治療家であれば、経験や勘で病気の一定の見当はつくものと思う。それを器械で検証するに過ぎない。と、言えないだろうか?O-ring testや波動計など意念に左右され易いものは、特に診断には適さない。この手の器械は鍼灸師やカイロプラクターを始めとする多くの代替医療の治療家が利用している。信じているから利用するのだろうか。器械の数字を示せば顧客は信じ込みやすいという一面はある。入力した情報と出力された情報とに整合性のないブラックボックスに高価な代価を払っていないか検討の余地がある。

これらを完全なビジネスとして原理もわからぬまま販売している人達もいる。MLMやマルチの形態をとることも多い。講習会に誘われたり、これを副業に始めると親類友人、知人、近所をも巻き込み金も人間関係までも失いかねない危険性がある。一握りの成功者を支えるために、野心ある無能者を必要とするのだ。

作業・芸術療法

汗を流したり好きなことをやっているとき、ストレスを忘れたり心が満たされるのはあり得ることだ。これは当然癒しに利用できる。精神科では古くから作業療法や運動療法という形で取り入れている。現在さらに細分化され絵画、音楽、陶芸、ユーモア音響、、、などの多種類の療法があり、一部にはその療法士の国家資格まである。そこまで必要があるのだろうか?

心地よい音楽を聴くのは安らぎをもたらす。好みの絵画を見れば自然に豊かな気分がわいてくるであろう。絵を描いたり、焼物を製作したり、また文章を書いたりすることも自己を表現し実現する癒しの一面がある。これらに触れることで安らぎ、楽しみ不快や苦痛をしばしでも忘れることが出来るだろう。リハビリの一環として何らかの作業療法を取り入れている医療施設は多く、きっと渇いた療養生活の糧となる筈である。これらの利点は副作用のないことである。作業によって得られた物を販売し利益がもたらされるなら生産の喜びも享受できる。いまでこそ○○療法と名が付けば有難く高貴に見えるが、これらは昔からあったし行われてきたことである。言葉を変えれば、所謂「気晴らし。」なのである。気晴らしに資格ある療法士が必要なのか?

アロマテラピー

例えば、食物が胃にもたれ胸が焼ける、といったとき芳香性健胃薬を服用すると、たちまちガスが動きだし、食物や胃の水分も動き出す。そのため食欲が増す、軽い胃痛が取れる、吐気が収まる、このあたりまでは効能・効果としてよいだろう。しかしこれによって食欲が出て、栄養の摂取ができ、疲労が回復し、それによって風邪が治った、筋肉痛が改善した、偶然肝炎が治った、尿量が増えた、、、こんなことを捉えて疲労回復・滋養強壮・感冒・筋肉痛・肝炎・腎臓病などに効くとは言えないのだ。解りきったことだが、この「春風が吹けば桶屋が儲かる」式の効能・効果を謳うのは殆どの代替医療に見られる属性でもある。アロマテラピーの効果といえば畢竟、冒頭で述べたようなファッション性あふれるリラックスと楽しさにある。オイルマッサージなら更にマッサージ効果も期待できるだろう。

信仰療法

これを全否定しない。お布施という治療費が、小遣いの範囲で融通できる額であれば副作用もなく治癒に導かれる病気があるかもしれない。癒しには神秘的な闇も必要と考えている。原因不明の病気が、どんな言葉であれ解釈が為されることは、治療家にとっても病人にとっても癒しの契機となる。時々、祈祷師のお告げと言っては漢方薬や薬草を買い求めに見えられる。その病気に適応しないだろう、、と思ってもとりあえず渡すことにしている。というのも、見当違いの薬で効いてしまうことがあるのだ。こんな事が繰り返し起ると漢方の勉強など要らぬ、効くという信念さえ研ぎ澄ましておれば良いのだと思えてくる。実際そうなのかも知れない。漢方用語の、気が神に、血が悪霊に、水が霊魂に翻訳されたとしても解釈は成り立つ。信じるか否かの問題である。通常医療も代替医療も治療家が信じるに足る言葉で医療行為を続けているのであろう。言葉を突き詰めてゆけば、実はそれほど実体や根拠がある訳ではない。免疫学と言いながら神や霊を笑えなかったりする事もある。

栄養補助食品

業界の問題は、これに留まらない。既述の電気・電磁波療法と同じく魑魅魍魎の跳梁跋扈する闇なのだ。80~90%はそうだという調査報告もある。ノーベル賞学者だとか医学博士などの推薦の言葉を冒頭に書き綴った立派なパンフレットに、会社の理念や社会的使命が書かれている。栄養補助食品に留まらず豊富なアイテムで、生活製品まで網羅する。そして利益率表が準備されている。つまり、マルチやMLMまたは一発屋の草刈場ともなっているのだ。半年分買えば30%割引。一年分買えば50%割引、、、こんな馬鹿な話に騙される人が居るのだろうか?...少数ながら騙される人は後を断たない。病気の人の情報を聞きつけ売り込みをかけたり、講習会に誘う。明らかに邪悪な販売員には警戒するが、販売員までも洗脳され信じ込んでいると手におえない。理性や科学が及ばないばかりか、友人や肉親の叫びにさえ耳を貸さない洗脳につくづく恐怖させられる。食餌で不足した栄養を補う必要があるとき、高額すぎるもの販売形態に疑いのあるものには手をだしてはいけない。健康に不可欠なのは栄養補助食品ではなく、栄養バランスの取れた食生活こそ不可欠なのだ。生きるため誰しも医学や栄養学の素人であってはならない。

リフレクソロジー

リフレクソロジーは反射帯療法といって体の部分に、体の全体に対応する部分があると考える。例えば手なら、体の臓器などに対応する、その部分を圧迫したりマッサージすることで診断、治療を行う。足の反射帯は有名である。ある教祖が足裏診断と称して高額のお布施を巻き上げた事件は記憶に新しい。これらの療法にも流行廃りがあり、テレビや雑誌に取り上げられると、にわか療法家や、にわか療術所が雨後の竹の子のように建ち並ぶ、少し遅れて治療院を開業した時には閑古鳥が鳴き営業は悲惨なものである。流行は最初の人だけが得をし、周囲の人が少し潤い、次からの人は苦汁を舐める。

クリスタルヒーリング

竹炭、トルマリン、チタンなどの癒し製品が出回り利用している人も多い。商品が違うだけでこれもクリスタルヒーリングの類似物である。療法として取上げるのに躊躇するくらい、胡散臭いものが沢山あるが、肩こり、不眠、腰痛が治ったという話もしばしば耳にする。効くという科学的裏づけがなくても「効くものは効く。」と思えば効くのである。しかしそのように思い込むのに一定の条件が要る。高価、美しい、疑似科学での権威付けなど、この療法の常套手段である。高価でなくて効果が得られるなら良いが、高価でないと効果がないと信じる人も大勢である。

生物学的歯科療法

歯の充填剤を非金属性の物質と取り替える治療法。現在の充填剤である水銀、錫銅、銀、亜鉛などは正体不明の歯の感染症を引き起こす毒素が含まれ、それが原因で内臓や生理機能に重大な健康上の被害をもたらす。「歯は臓器だった、、」という内容の本を書店で見かけ興味を持ったが、帯の推薦人に船井幸雄の名があったので、そのまま書架に戻す。氏は医学者ではなく経営コンサルタントなのだ。氏の絶賛するものはEM菌だったり脳内革命だったり....その殆どが根拠に乏しいオカルトビジネスやマルチ商法、一発屋ビジネスだったりする。

瞑想

瞑想で病気が治ることはない。しかしリラックスによるストレスの軽減は癒しの助けになるだろう。癒しは心の安定やストレスの軽減によってもたらされるが、逆にストレスや緊張の中でも癒しが起る。癒しそのものが複雑なメカニズムを秘めているのだ。必ずしも絵に描いたように満たされた条件のもとで癒しが起るとは限らない。怒り、涙の中で癒されたり、治療家への憎悪によっても癒しに向かった例を知っている。

1日10分でも瞑想の時間を持つと、それまで気づかなかった感性が動き出す。意外なものが聞こえてきたり、見えてきたり、日々変わる体調の変化にも気付きがおこる。難しい事を言うつもりはない。少し頭が重いとか、胃がもたれるとか、足が凝っているとか、他愛もない体調の変化は生きているという実感につながり生きてゆく為の支えともなる。

これだけでもすごい量ですが、これで全てではなく、更に、『オステオパシー』『手かざし療法』『サイモントン療法』『バイオフィードバック』『ゲルソン療法』『断食療法』『薬用人参』『サメ軟骨エキス』『光照射療法』『波動療法』『代謝療法』『腸管洗浄法』『酵素療法』『飲尿療法』と、徹底の仕方が並ではありません。

上記は一部の引用なので偏った印象を与えているかもしれません。全体を読めば、温心堂主人は代替医療を否定しているわけではなく、警鐘を鳴らしているに過ぎないことが分かると思います。何事もバランスが大切であり、究極の真理というのはありえないことをベースにするべきだと思います。西洋医学には西洋医学の良さがあり、欠点があるように、代替医療も完全ではありません。

西洋医学の精神は検証できたことをベースに理論を構築するため、カルトに走りにくいブレーキがかかりますが、代替医療はブレーキを掛けにくい性格を有していますので、より一層気をつける必要があると思います。とはいえ、西洋医学といえども、理論の出発点は主観に基づいた仮説であることが指摘されていることは付言しておく必要があるでしょう。また、理論で説明がつかない現象をすべて排除するというのは科学として二流であり、科学も究極はアートであると信じています。

さて、代替医療について一通り知識を詰め込んだ私は、他のページにも興味を持ち始めました。サイトマップを見るとすごいボリュームであることが分かり、とても一日で全てを読み通すことはできませんが、いくつか選んで読んだものはどれも興味深い内容でした。

そんな中で、『危険な話の終焉を祈って』は、「原発について改めて考えさせられた」という程度の感想では済まされない、逼迫した事態が進行していることを理解することができます。下記の引用を読んだだけでも、もう見てみぬ振りをしていられる状況ではないことが伝わってくるのではないでしょうか。既に、長々とした代替医療の説明を読んだことで疲れていることとは思いますが、私のように原発の知識が欠落していた人は、是非、この機会に、『危険な話の終焉を祈って』を読んで、原発について理解を深めて欲しいと思います。

添加物、農薬、ダイオキシン、環境ホルモン、狂牛病、、、危険な話は後を絶たないが、個人の努力で回避可能なものはまだ救いがある。核は人類の存続に深刻な問題を投げかける。兵器はもちろんだが、原発によって生み出された世界中の核物質が人類の終焉を決するかも知れない。就任後間もない頃のある休日、人通りの少ない歩道を歩るく知事を見かけた。多分、愛娘であったに違いない。子供の手をとり、買い物の袋を下げた姿に親近感を覚えた。この平和な光景と、いまに至っての決断との乖離に茫然としている。世界の人々や子供の未来を考えた上での同意だったのか。「技術や費用、電力需要の問題で実現は困難だろう」という学者や識者の話もあるが、そこに行き着くまでの安全に不安があり、見切り発進も懸念される。政治に対する無力感...「どうせ世の中こんなもの」と悟っても、諦めに徹することはできない。なにか私にできることはないだろうか、神よ知恵を与えたまえ。

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2006年 9月 04日

分かち合い

投稿者 by vulcan at 14:30 / カテゴリ: 育児 / 1 コメント / 0 TrackBack

最近、コンビニの飲料はいろんなグッズがついているものが多くあります。私に限らず、子供へのお土産にちょうどいいと考えて、グッズ付の商品を選ばれる方も多いのではないでしょうか。

子供へのお土産の場合、よく問題になるのはお土産の数と子供の人数ではないでしょうか。実は私もこの点を悩みどころと感じており、不公平感を生んで返って悪い結果を招いてしまわないだろうかと心配することがあります。

そんな中、「分かち合いといえばHikaru」というぐらいに、分かち合いの精神を生まれながらに身に付けているかのようなHikaruの分かち合い精神に助けられることも多いですし、我が家では『年長者優先』の原則を貫いているため、それによる秩序もある程度保たれています。

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とはいえ、いつもいつもHikaruが犠牲になるのは可愛そうですし、時に見せる彼の悲しみの視線に心にグサっと来るものがあります。かといって、Hikaruを優遇することで、BianのHikaruに対する攻撃が大きくなっては逆効果ですし、『年長者優先』の暗黙の原則が崩れることで秩序が混乱するかもしれません(大げさですが)。

いつもそんなことを考えているのですが、先週の金曜日、「おーいお茶」のおまけを1つだけ、持って帰ることになりました。(災いを招くだけに終わらないかな)という心配をし、(2つ揃うまで渡すのを伸ばそうか)と考えましたが、子供達に「お土産ある?」と聞かれると、「無い」とは言えず、1つだけしかないお土産を出しました。

1個しかないし、お茶のボトルに可愛い熊の人形が乗っているグッズなので、機械好き、電車好き、車好きのHikaruよりも、人形好きのBianが気に入るだろうという読みと、『年長者優先』の原則、最初に「お土産ある?」と聞いたのがBianであったことから、Bianに手渡し、Hikaruには、「Hikaru君のは来週買ってきてあげるからね」と言ったのですが、予想以上にHikaruの瞳の奥に悲しみの表情が…

(やっぱり1個だけというのは失敗だったか)と、思った矢先、Bianが「これ、Hikaru君に上げようと思ってるんだけど。来週のをBianに頂戴ね。」と言ってくれました。Bianの言葉に感激した私は、Bianに感謝の意を示すと同時に、分かち合いを信じることが大切かもしれないと反省しました。

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2006年 9月 01日

小沢一郎氏

投稿者 by vulcan at 18:53 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

私は、社会人になった平成6年以降、つまり、小沢一郎氏が自民党を離れて以降、ずっと氏を支持しており、新生党、新進党、自由党、民主党を支持してきました(といっても、選挙で投票するだけで入党するとかではありませんが)。「ほとんど無条件に、直感に基づいて氏を支持してきた」というのが実情ですが、氏の発言を追いかけていくことで、常に正論中の正論を述べられており、姿勢に揺らぎが無いことが確認でき、ますます気に入りました。

しかし、小沢一郎氏に対する国民の支持は、常に一定水準を越えることが無く、「なぜ受け入れられないのだろう」という疑問を持ち、それに対して「まだ時代が氏を求めていないのだろう」と、待つしかないと決めていました。

ところで、このほどオーマイニュースが立ち上がったそうで、いろんな議論が行なわれています。

ガ島通信『オーマイニュースジャパンの「炎上」と「現状」』

ニュース・ワーカー『オーマイニュース日本版のこと』

我的因特網留言板『本家オーマイニュースは苦戦中』

オーマイニュースブログ~編集局から~『佐々木俊尚のオーマイニュースへの疑問 (上)』

オーマイニュースブログ~編集局から~『佐々木俊尚のオーマイニュースへの疑問 (下)』


オーマイニュースがどうなっていくのかは分かりませんし、オーマイニュースに対する私見を述べられるような段階ではありませんが、一連の調査過程で、鳥越俊太郎・オーマイニュース編集長による小沢・民主党代表インタビュー『政権交代に自信』に辿り着きました。

小沢氏の意気込みが良く伝わってくるインタビュー記事で、「今度こそ氏が本領を発揮する環境が整った」と確信しました。そんなわけで、「何か自分もしたい」と思い、支持政党を表明した次第です。

小沢一郎ウェブサイト