2006年 9月 28日

日本の隠蔽体質

投稿者 by vulcan at 14:36 / カテゴリ: 存在理由 / 2 コメント / 0 TrackBack

日本人には、「和をもって貴しとなす」という聖徳太子の17条憲法の第一条にあるように、和というものが大切な精神文化として脈々と受け継がれておりますが、得てしてこれが悪い方向に作用する場合があることは、今更申し上げることでもありません。

「日本人に限らず、人間は社会性動物であり、それゆえ、徒党を組むことは人間の本性に沿った行動であるため、これを否定することは宇宙原理に反するわけで、そうしたありのままの現実を受け入れ、善用することが大切だと聖徳太子は説いている」、確か、松下幸之助の『指導者の条件』では、このような解説を行なった上で、「ありのままを受け入れる」ことを102個の条件のうちの1つ目の条件としていたと記憶しています。

数年前までは、閥を作ったり、根回ししたりという日本的な和の精神に対して、嫌悪感を抱いておりましたが、それによって、不用意な摩擦を回避できることを理解し、一面において重要な精神文化だと今は評価しています。

つまり、派閥や学閥それ自体は悪ではないと思います。しかしながら、その存在が長く続くことで、閥の存続が何よりも優先される判断基準となってしまい、いろんな弊害が生じることも事実です。

この問題は、ちょっと探せばどこにでも転がっているテーマですが、大阪大大学院生命機能研究科の助手が、自分の研究データを改ざんされたうえ論文を米国の科学雑誌に投稿されたとして取り下げを訴え、自殺した事件が5号館のつぶやきで取り上げられていました。論文は異例の取り下げとなり、助手は、自らの死をもって不正を正したことになろうかと思います。

ところが、この自殺について、大学当局が取った行動は、真相の究明と公開ではなく、自殺の隠蔽だったようです(柳田充弘の休憩時間より判断)。妻子を残しての自殺に追い込まれたK氏の無念を思うと、無性に悔しくなります。

こうした大学当局の対応を見てすぐさま思い浮かべたのは、盗作画家和田義彦のあきれ果てる行為と、それを隠蔽する大学当局の体質を指弾したきっこの日記の記事です。

和田義彦が名古屋芸術大学の名誉教授をやっていた時代、セクハラ委員会は和田義彦のセクハラを揉み消す方向に動いていたらしく、A講師が問題を提起しセクハラ委員会を招集しようと動いたときに、次のような発言があったときっこの日記で報告されています。

そして、委員会がひらかれる前に、委員会のメンバーの1人である助教授のところに、学内で力を持っている彫刻科の教授から電話が掛かって来た。

「(和田のことでセクハラ委員会が召集されたそうだが)また和田が何かやったのか?以前にも女子学生を二度妊娠させたことがあって、二度とも中絶させているんだが、もう俺は守りきれんぞ。その非常勤のA君はどんな話を持ち込もうと言うのかね?」

結局A講師は、セクハラ委員会では埒が明かないことを知り、学長に直訴、後日A講師は名古屋芸術大学を辞め、その後、学長は和田義彦のセクハラ問題を教授会にかけ、和田を辞めさせたそうです。

(参考)盗作画家のイイワケ(きっこの日記)

結局、閥の存続、会社の存続、大学の存続等、徒党の存続を最優先課題とすることが、判断をおかしくするのではないかと思いますが、その裏には、かばい合いの体質、引いては弱みを握り合う体質があるのかもしれません。

ここで思うのは、翻って、松下幸之助の102の指導者の条件です。松下幸之助は、102の条件を全て完璧にすることは神でなければできることではないが、少なくとも102の条件を全て、行動として実践している部分がなければならないと述べており、101の条件が良く実践されていたとしても、1つでもゼロの項目があれば指導者として失格だと言っています。

ここで言う指導者とは、社長や学長のみを指しているのではなく、工場における組長や班長なども指しているので、当然、教授会の構成者である教授や取締役会の構成者である取締役も対象です。

あらためて、何が大義かを見極められる人が指導者(リーダー)となり、小沢主義(小沢イズム)で書かれているように、責任の所在が明確になる仕組みづくりが必要だと、強く思いました。

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コメント

 トラックバックありがとうございました。

 私も某教授に「教室の和を大切にしなさい」と言われたことがあります。悪い人間が悪いのはみんなが知っているのだから、わざわざことを荒立てて全体の雰囲気を壊さないようにしなさいという警告またはアドバイスだと感じました。逆に言うと、たとえ正論をもってしてもことを起こしたことで窮地に追い込まれてもしらないぞ、ということでしょう。そんなことを平気でいう人間がいる日本という国あるいは大学は、封建時代を抜けていないのだと思います。困ったことです。

投稿者:  5号館のつぶやき   at 2006年09月28日 20:06

stochinai様、コメントありがとうございます。

和という言葉は難解だと感じています。そして、和が求められる時期と
和を排すべき時期とが存在するように思います。

平時は和を大切にすべきで、人が集まれば、多少の不満は生じて
当たり前であり、わざわざ事を荒立てて、全体の雰囲気を壊さない
ことが、大切なように思います。事を荒立てたことで生じる不協和の
方が酷いからです。これは、例えば、マンションの住民が共同生活を
営む上で、必要な心構えではないかと思います。

一方、有事は和を排すべき時が必ずあると思います。当然のことながら
有事であろうと和を排すれば痛みを伴いますが、大義のためには
いたし方ありません。平時が長らく続くと、有事を有事と見えなくなるのが
大きな問題であり、平時から有事のことを常に念頭に置いているリーダーが
存在するかどうかが重要だと考えます。

小沢主義(イズム)において、小沢一郎氏は上記のようなことを
説いているのだと理解しております。

投稿者:  Vulcan   at 2006年09月28日 22:23
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