2006年 10月 30日

ヒロさん日記

投稿者 by vulcan at 12:30 / カテゴリ: / 7 コメント / 0 TrackBack

ヒロさん日記

イギリス在住の元ジャーナリスト、ヒロさんの日記です。911テロに関する記事が印象的ですが、ピースボートについても読み応えがあります。私もまだまだ全文読破していませんが、とにかく読み応えのある記事ばかりなので是非ご訪問してください。

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「一体世の中で信じられることなど何かあるのか?」「正しさなどどこにもない。あるのは信念の強弱ばかり。

そんな思いを強くさせられたサイトです。

自分の目で確かめ、耳で確かめ、前頭葉で確かめ、自己責任で判断する、それしかないと思いました。

正直言って、ヒロさんの書いている文章の50%も理解できません。その主たる要因は、例えば日本赤軍やピースボートに関して、私の知識があまりにも不足しているためです。しかしそれだけが原因ではなさそうです。もう一つの理由は、世の中が余りに複雑すぎることです。

それゆえ、一つ一つの記事を、ジョークなのか、真に受けていいのか、何かを暗喩しているのか、つぶさに検証しながら読む必要があります。そうやって読んだからといって、すぐさま分かることなど微々たるものです。したがって、『ヒロさん日記』については、どう解説したら良いか分からないというのが現状です。

そこで、本日まで紹介を試みませんでしたが、本日、ヒロ様より当ブログにコメントを寄せていただきましたので、紹介を試みることにしました。

言えることは、「一つ一つの記事は吟味する価値がある」ということです。私も、もう少し吟味した上で、何かもう少し解説できることが出てくれば追記したいと思います。

なお、『ヒロさん日記』との出会いに関する経緯ついては、『つらつら日暮らし』の紹介記事に記載しておりますので、そちらをご参照ただければ幸いに存じます。

2006年 10月 29日

『武士道』新渡戸稲造

投稿者 by vulcan at 07:36 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

『いま 新渡戸稲造 武士道 を読む (サムライは何を学び、どう己を磨いたか)』志村史夫(三笠書房)
『武士道』全文を載せているわけではありませんが、志村氏が現代に必要なエッセンスを抽出してくれており、初学者にはお勧めの解説書だと思います。武士道の本質を容易に理解することができ、先にこちらを読んでおけば、後日『武士道』全文を読んだときに覚える多少の混乱を防いでくれると思います。

『(人に勝ち、自分に克つ強靭な精神力を鍛える) 武士道』新渡戸稲造著、奈良本辰也訳・解説(三笠書房)
『武士道』の訳者として奈良本辰也氏は有名と思われ、確かに注が非常に詳しいと思います。『武士道』は、欧米人向けに『武士道』を紹介する目的で書かれているため、欧米の偉人を多く登場させながら『武士道』へのなじみやすさを演出していますが、我々、特に現代の日本人にとっては、こうした欧米の偉人が登場することは、返って分かりにくくなることもあるため、詳細な注を付した本書は、『武士道』を初めて全文読むには最適な書と言えるかもしれません。解説自体は7ページほどで、「注こそ解説」といえるのかもしれません。

『(いま、拠って立つべき”日本の精神”) 武士道』新渡戸稲造著、岬龍一郎訳(PHP文庫)
全文の訳文と解説という構成であり、奈良本辰也氏の本かこちらかのいずれかを読めば十分だと思います。注のボリュームは少ないですが、最小限の注は付されています。奈良本氏の訳本の場合、注の存在により、あちこちで流れを分断して注を読みふけるという読み方となるのに対し、岬氏の訳本の場合は、本文中にカッコ書きで最低限の注を付すに止めていることが多く、読書の流れが切られずに快適かもしれません。また、解説は20ページに及び、なかなか当を得ている解説で、一見の価値があります。

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さて、新渡戸稲造の『武士道』には、引用して解説を試みたい箇所が何箇所もありましたが、そうすることで、最も伝えたいことが薄れてしまいますので、次の一節を引用するのみとします。

私見によれば、義理は「正義の道理」として出発したのであるが、しばしば決疑論に屈服したのである。それは非難を恐れる臆病にまで堕落した。スコットが愛国心について、「それは最も美しきものであると同時に、最も疑わしきものであって、他の感情の仮面である」と書いていることを、わたしは義理について言いうるであろう。「義しき道理」より以上もしくは以下に持ち行かれる時、義理は驚くべき言葉の濫用となる。それはその翼のもとにあらゆる種類の詭弁と偽善とを宿した。もし鋭敏にして正しき勇気感、敢為堅忍の精神が武士道になかったならば、義理はたやすく卑怯者の巣と化したであろう。

「正義の道理」の絶対命令に基づいた義務であった義理が、決疑論(詭弁、こじつけ)に容易に屈服し、非常に堕落しやすいものであり、また、卑怯者の巣と化しやすいものであることには、非常に留意しなければならないと思います。
義理なら何でも尊ぶ、何でも重んじるというのは、義理を大切にしているとはいえません。「正義の道理」に適っているならば義理を重んじ、「正義の道理」に外れた義理を要求された場合には、それをはねつけることが義理を大切にしていることになると思います。

それにしても、スコットの愛国心についての言葉は、「なんともまあタイムリーな表現だ」と思うのはわたしだけでしょうか。


『武士道』は確かに今読まれるべき書物だと思います。

現代の日本人にとって、最も足らないものは信念だと思います。信念が何もないので、正邪善悪、つまり、何が正道なのか、何が邪道なのかが分からなくなり、また、何が善なのか、何が悪なのかも分からなくなるのでしょう。また、差別と区別の違いも分からなくなるのも信念が一本通っていないからだと思います。

『武士道』は、100%受け入れるべき書物ではないと考えますが、信念を持つきっかけとなるようないろいろな学びがあると思います。そして、何を受け入れるべきか、何を拒否すべきかは、人それぞれ、また、そのステージによって違いますが、そういうことを考えながら読み進めると、非常に有意義になると思います。

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2006年 10月 26日

危険な話の終焉を祈って(4)

投稿者 by vulcan at 11:44 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

四たび、温心堂主人による『危険な話の終焉を祈って』から引用します。

think-Pu.net-考えよう、プルサーマル・プルトニウム

危険な話の終焉を祈って(1)

危険な話の終焉を祈って(2)

危険な話の終焉を祈って(3)

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原子力と環境 中村政雄 中公新書ラクレ

グリーンピース創始者は、なぜ転向したのか..と、タイトルにも増して大きな帯の文字。

グリーンピースは反捕鯨で知られる環境団体でその活動は反原発にも及び、核物質を積んだ輸送船を追跡するなど、その行動力には定評がある。

自ら調査・研究が出来ないものにとって、本や反原発団体のWebページは貴重な情報源となっている。

私は、原発の存在に恐怖を抱いている。安全、安全とばかり聞かされても、真実の声が伝わってこない。原発について調べれば調べるほど不安だけが大きくなるばかりだ。どこかに確かな安全情報がないかと、探すものの、安心広告以上のものを探し出すことが出来ないでいる。原発推進の学者や識者の意見は決まって、CO2による温暖化やエネルギーの問題と絡め、安全管理をしながら推進という話に行き着く。

安全管理をしても事故は起こるし、いままでも小規模な事故は起こっている。ひとたび事故が起こると手の付けようがないのが原発事故の恐ろしいところだ。事故の拡がりを食い止めるすべもなく、被爆の危険のため被害者の救出もできない。避難するにも交通網はパニック状態で身動きがとれない。追いかける死の灰から逃れるには風よりも早く、1000Km単位で移動しなくてならない。

つまり、事故が起こればすべてが終り、終わったとこから生き延びた人々の苦悩が始まる。「NIPPONチャチャチャ!」とスポーツやイベントに興じているようでは、この地獄図の空想すらできないだろう。

本書は、少しでも安全情報が欲しいと思っている矢先の出版であった。グリーンピースの創始者の話なら、反原発から賛原発に転じた信頼のおける安心を示してくれるだろうと期待を寄せた。

結果から言うと、惨憺たる本であった。著者は科学の素養があり、新聞社の科学部記者を経て現在、科学ジャーナリストという職にある。書物の中には読む価値のないものもあるが、読む価値はなくとも批判する価値のある本がある。まさに、この本がそれに値する。科学部の記者として一体、この著者は何を見て、何を考え行動してきたのだろうか。まさに電力会社の広告、「原子力物語」から一歩も出ることがなく、新たな情報を得ることはできなかった。

2005年4月28日。反原発団体グリーンピースの共同創始者の一人であり、環境学者のパトリック・ムーア博士がアメリカ上院のエネルギー・天然資源委員会で証言した。「原子力は二酸化炭素(CO2)も大気汚染物質も排出せず、化石燃料に代わって世界中のエネルギー需要を満たすことのできる唯一、最善のものである」と言った。

CO2と温暖化が出てくれば、すでに後の展開は知れたものだ。冒頭から失望させられる。過去に自分が主張してきたことをいとも容易に否定できる心境の変化にこそ興味がある。そして、著者はこの年の12月、ムーア博士に転向の理由を直接聞く機会を得た。

  • 原子力の軍事利用と平和利用の区別がつかず反対した。ところが原子力発電は安全で環境にクリーンであることがわかった。地球に住む65億人が食料やエネルギーを必要としている。その解決策が原子力エネルギーである。
  • 現在、世界のエネルギーの約86%は化石燃料で賄われている。残りの原子力と水力で約7%、残り1%以下がその他である。環境活動家は化石燃料、原子力、水力に反対している。残り1%以下の方法でエネルギーを賄うのは実用的ではない。
  • 冷戦が終結し、核エネルギーと核兵器を結びつけ、原子力の開発が兵器の隠れ蓑である時代は終わった。
  • 原子力発電のコストの約1/3は安全システムの整備にあてられ、世界で約440基の商業用原子炉が安全に稼動している。
  • 世界には多くの誤った、歪められた情報が多すぎる。原子力はその良い例だ。事実とフィクションを見分ける力を身につけ、正しい情報か恐怖を煽ろうとしているのかを判断してほしい。
  • 環境保護活動家の多くは原子力に対し、全く非寛容(ゼロ・トレランス)だ、そこには科学的な検証や論理的な考えかたなどなく、宗教的な信念だけだ。そのため対話も成り立たない。
  • 化石燃料によるCO2の排出を抑えるため、原子力エネルギーをベースに水力、地熱、バイオマス、風力、太陽光などの自然エネルギーを組みあわせていくべきだ。

以上が5ページに渡る要旨であるが、6ページ目には、「会場が沸いたのはグリーンピースの資金源について語ったときだった」と、そこから9ページを割いて反原発の活動資金と内情を暴露する。「環境を大切にしている」というポーズをとるため、50の財団がグリンピースに資金を提供しているという。

グリーンピースがいかにお金にまみれているか、いかに教条主義か、いかに風評を煽るか、ついでに「ロシアやアメリカの情報機関とつながっていることを聞いた」と語ったという。著者のコメントは「(博士は)冗談めかして語ったが本当だろう」、「(グリンピース)の実体に迫る報道がないのは情けなく残念だが、日本はまだその程度の情報小国なのである」。

これが元・新聞記者、現・科学ジャーナリストの言葉だろうか?数値や実証されていること、実際行われていることを示し原発の議論に正面から挑むべきだ。低次元の井戸端会議に沸いているくらいでは、どちらが情けなく残念なのか。資金源や闇の部分は賛原発こそ巨大なものだ。しかし、闇の部分を取り上げる手法は反原発派も用いるのでお互い様として、だから原発はクリーンだという主張はできないし、原発の危険までもが帳消しにはならない。

私がもっとも知りたかった、「グリーンピース創始者は、なぜ"転向"したのか」という大きな帯文字のテーマは実質21ページで終わる。読書の意欲もここで息絶える。残り150ページは、「原子力・クリーン・安全」のお題目を繰り返し唱える賛原発のプロパガンダであった。

クリーン、安全の大合唱こそ胡散臭く、心配していることだ、危機意識の欠如こそが事故の重大な原因になるのだ。安全、クリーンという宣伝の他、エネルギーや温暖化に危機感のない日本人のことや人口増のためエネルギーが要ることを主張し、反原発運動の迷妄を揶揄する。

最終章で、日本文化を語り、神道や戦前を礼賛するのには違和感を覚えた。これが科学ジャーナリストとして「現実に立脚した視点(本の帯より...)」といえるのだろうか。反原発論者の仕掛けた地雷を避けながら歩くと、こんな話がせいぜいであろう。電力会社の広告をそのまま使った、お太鼓持ちに等しい。

こういう人たちにのみ死の灰が降り注げばよいが、困ったことに原発の被害は平等である。少なくとも、この本については賛原発の話の軽さと浅さで、結果的に説得力のある反原発の書となった。

グリーンピースではありませんが、ピースボートも信頼の置けない団体であることは、『ヒロさん日記』の『ピースボートの「核」しきれない初体験』で理解できます。

こうした反核団体の体たらくさ加減が、真相をうやむやにする一つの要因だと思います。もしかすると、反核団体にいつの間にか取り入った賛核派の『トロイの木馬』によって、いいように混乱させられているのかもしれませんが、そうであったとしても、脇の甘さを指摘せざるを得ません。

次に紹介するのは、20年間、原発の現場で働いた平井憲夫(故人)の「原発がどんなものか知ってほしい」という話である。原発関連の掲示板やブログなどでも頻繁に目にするが、「嘘が多い」と軽くいなす電力関係者もある。

日本の原発はびっくりするような大事故を度々起こしています。スリーマイル島とかチェルノブイリに匹敵する大事故です。1989年に、東京電力の福島第二原発で再循環ポンプがバラバラになった大事故も、世界で初めての事故でした。そして、1991年2月に、関西電力の美浜原発で細管が破断した事故は、放射能を直接に大気中や海へ大量に放出した大事故でした。

ー cut ー

美浜の事故の時は・・・原子炉の中の放射能を含んだ水が海へ流れ出て、炉が空焚きになる寸前だったのです。日本が誇る多重防護の安全弁が次々と効かなくて、あと0.7秒でチェルノブイリになるところだった。それも、土曜日だったのですが、たまたまベテランの職員が来ていて、自動停止するはずが停止しなくて、その人がとっさの判断で手動で止めて、世界を巻き込むような大事故に至らなかったのです。

たぶん「・・・チェルノブイリになるところだった」という話を「嘘」と言いたいのだろうが、事故が起こった事実に揺るぎはない。不安を煽ることに神経質になる理由こそ知りたいものだ。

原発こそが最も環境を汚染することを語らず、危険性や経済性の本質を語らず、原発のためにこそ火力発電が必要なことも語らない。ここまでして続けたいのは、原発が発電を目的とはしていないからではないか。

チェルノブイリの事故から20年を迎えた4月、数々の報道特集が組まれた。現在、廃墟となった原子炉は危険が去らず管理が続いている。そこに近づくと徐々にアラームの音が速くなり急を告げる。ここで作業をする人々は被曝しているのだ。そして原子炉近くでのまとまった作業は困難だという。平井氏の話から、さらなる引用である。

放射線量が高いところですと、1日に5分から7分間しか作業が出来ないところもあります。しかし、それでは全く仕事になりませんから、3日分とか、1週間分をいっぺんに浴びせながら作業をさせるのです。

ー cut ー

稼動中の原発で、機械に付いている大きなネジが1本緩んだことがありました。動いている原発は放射能の量が物凄いですから、その一本のネジを締めるのに働く人30人を用意しました。1列に並んで、ヨーイドンで7mくらい先にあるネジまで走って行きます。行って、一、二、三と数えるくらいで、もうアラームメーターがビーッと鳴る。中には走って行って、ネジを締めるスパナはどこにあるんだ?といったら、もう終わりの人もいる。

ネジをたった1山、2山、3山締めるだけで160人分、金額で400万円くらいかかりました。なぜ、原発を止めて修理しないのかと疑問に思われるかもしれませんが、原発を1日止めると、何億円もの損になりますから、電力会社は出来るだけ止めないのです。

「百聞は一見に如かず」。クリーン、安全と言う人々よ...原子炉を囲み、人間の輪を作ってアピールしてくれ。そして、それから10年、放射能による障害が何事もなければあなたたちの言い分を認めよう。

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2006年 10月 25日

『あなたが知らなかったギリシャ神話』ミヒャエル・ケールマイアー

投稿者 by vulcan at 22:13 / カテゴリ: / 5 コメント / 0 TrackBack

私のハンドルネームであるVulcanは、Kawasakiのバイクの名前『Vulcan』から付けたものです。このバイクは平成7年の4月に買ったものなので、かれこれ11年以上の付き合いであり、私が『Vulcan』と名乗りだしたのが、平成10年か、11年ごろからだったと思いますので、こちらも7、8年になります。

これぐらいの長さになってくると、ハンドルネームといえども名前に性格が付いてくるもので、そうなってくると、名前の由来も気になります。バイクの名前ではありますが、ギリシャ神話に出てくる火の神であることも当然念頭に置いた上で選択したわけで、一度神話についてじっくり理解したいものだと思っていました。

なぜ、私がハンドルネームを必要としたのかというと、ネットワークゲームをし始めたからです。その後、ホームページを作りましたのでそこでもハンドルネームは必要でしたが、一番最初はディアブロというネットワークRPGでの要請でした。

私は、ネットワークゲームはディアブロとAge of Empiresというウォー・シミュレーション・ゲームしかはまりませんでしたが、その代わり、この二つは半端じゃないほどはまりました。そのあたりの詳しい話は別の機会に譲るとして、バーチャルな世界において、特に初期のころ、Vulcanとしての性格形成をゲームを通じて行なっていたわけです。

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Age of EmpiresのシリーズでAge of Mithologyというのがありました。これは、プレイヤーがエジプト、ギリシャ、北欧の3文明から一つを選択し、更に主神と従神を選択することで、文明の性格形成が行なわれるという、一風代わったシステムでした。

私は主にエジプト文明を選択し、初期のころは主神をラー、従神をブタハ(古典時代)、セクメト(英雄時代)、オシリス(神話時代)という組み合わせが多かったです。わずかに北欧を使うこともありましたが、ギリシャを使うことは皆無だったといっていいかもしれません。すなわち、「ギリシャというのは常に敵が使う文明である」というのが私にとっての位置づけでした。

ギリシャは主神をゼウス、ポセイドン、ハデスの3神から一人を選択します。従神は、主神の選択によって選択肢に制限がありますが、古典時代においてアテナとヘルメスとアレスから1神、英雄時代においてディオニソスとアポロンとアフロディティから1神、神話時代においてヘラとヘファイストスとアルテミスから1神を選びます。

こうして、各文明は、神々に祈り、神々の恵みを受けて国土を豊かにし、また、神々の力を借りて自国の戦力を強化し、敵を殺戮しながら領土を拡大していくわけです。

しかし、このころは、ヘファイストスがVulcanのギリシャ名であることを知っていませんでした。知っていたら、きっと意地でもギリシャばっかり使っていたと思います。今思えば残念なことです。

また、Age of Mithologyの拡張版では、アトランティス文明が登場し、主神はガイア、ウラノス、クロノスから選択するというものでした。

とまあ、多少脱線気味に、ゲームについて語ってしまいましたが、そんなわけで、ギリシャの神々の名前だけは多少なりとも知っていました。

さて、掲題の『あなたが知らなかったギリシャ神話』に戻ります。初めてギリシャ神話をまともに読んだ感想ですが、相当のカルチャーショックでした。

そもそもの神話の始まりはガイアからだそうです。そして、ガイアからウラノスが生まれましたが、ガイアはウラノスの母であり、愛人だったそうです。そして、ガイアとウラノスの子供の中にクロノスがおり、クロノスはガイアの命によってウラノスを去勢してしまいます。

去勢された性器が海水と混ざり合って泡立ち、その泡から美の女神アフロディティが生れます。一方、クロノスは姉のレアーを妻とし、ヘラ、ハデス、ポセイドンなどが生まれ、最後にゼウスが生れました。

ゼウスはクロノスを負かし、隠居させました。そして、姉のヘラを妻とし、天と地を治めることにしました。兄のハデスは冥界を、ポセイドンは海と川を支配します。

ゼウスは様々な女神を手篭めにしますが、エウローペーについては、レイプしたとする説があるようです。しかし、エウローペーがヨーロッパの語源となっていることから、この説に強力に反対する一派もいます。

・・・とまあ、そんな感じで、また、英雄伝説についても、息子に殺される親の話、逆に息子を殺す親の話、男たちは戦場に行き屠った国の女を我が物とし、留守を守るはずの妻たちは愛人作りに忙しいなどなど、倫理もへったくれもないという有様です。

そもそも、古代ギリシャには倫理観というものが無く、倫理観はキリスト教によって造られたのではないかと思うのですが、そうすると、古代ギリシャには正邪善悪は無かったのかというと、善悪は無かったとしても正邪はあったと思えます。

となりますと、正邪と善悪はどう違うのかということになりますが、正邪とは正道と邪道、つまり、潔いかずるいかという区別です。一方、善悪とは、善行と悪行という区別ですが、こちらは、個々の主観によるところが大きく、ある者にとっては善行でも、別の者にとっては悪行極まりないということも往々にしてあることで、一概に決められるものではないと最近つくづく思いますので、古代ギリシャにおいて、善悪という観念を持たなかったのは、ある意味で聡明であったと思ったりもします。

つまり、ある者を救うためにある者を殺す、あるいは、ある者を殺すことである者を守るということは、古代ギリシャにおいてはしょっちゅうあったことであり、これをいちいち善悪として判断していたら矛盾だらけになってしまいます。そして、殺し方が正道か邪道かだけを判断するわけです。

あるいは、私が突然行方をくらまし、20年後に突如戻ってきたとしましょう。20年もの間、妻は私の帰りを待っているでしょうか。更に、私が戦争に向けて旅立っていたとしたらどうでしょう。とにかく、20年後に私が突然戻ってきて、妻が新しい家庭を築いていたとしたとき、果たして善悪で物事を判断できるでしょうか。ここでも、やはり、正邪の観念だけが絶対です。私が行方をくらます前から関係を持っていたとすれば邪道、そうでなければ正道ということになりましょうか。

まあ、そんなことを考えさせられるギリシャ神話でした。

ところで、『あなたが知らなかったギリシャ神話』において、一番心に残った一説は、ヘファイストス(ペーパイストス;Vulcan)とアテナ(アテーナー)の比較論です。それぞれの神のことを知れば知るほど含蓄のある一説なのですが、両者を事細かに説明するのは話が長くなりすぎるので端折ります。

一面、ヘーパイストスとさまざまに似たところもあるものの、また別の面からするとこの鍛冶の神の対極にあるのが、パラス・アテーナーです。この女神は、なりゆきによってはゼウスをしのいでもおかしくはないすべてのものを備えていました。ひょっとしたら、アテーナーはとっくにそうしているのかもしれません。とっくにわたしたちの上に君臨しているのかもしれません。ただ、わたしたちがそれに気づかないだけなのかも…アテーナーの成果とは、ずばり、原則だけによってふるまうこと、概念を隠れ蓑にすること、純粋な、見も蓋もない分別だけで武装することです。
ギリシアの多くの地方では、アテーナーはゼウスよりも高く崇拝されていました。アテーナーはオリュンポスの、どうにもとらえどころのない女神です。その出生は、一種の単性生殖を思わせます。
ゼウスは妻に、自分もひとりでなにかを産むことができるところを示そうと思いました。すぐさま、できるわけないでしょ、との反論が、ヘーラーから返ってきたことでしょう。そのころゼウスは、ティータニスのメーティスに恋をしていました。メーティスはゼウスと寝ることを拒んで、雲隠れしてしまいました。ありとあらゆる植物に変身し、ありとあらゆる動物に姿を変え、およそ考えられないような形になりながら、ゼウスから逃れたのです。
それでも、ゼウスはメーティスを追いかけまわしました。そしてかわいいメーティスは、ついにミスを犯してしまいました。メーティスは蠅に変身しました。これなら見つけられっこない、と思ったのです。ところがゼウスは、この蠅をひょいと捕まえて、呑みこんでしまいました。ゼウスの体の中に閉じこめられたメーティスは、血管を伝って上へ上へと這っていきました。そして、なんとも不思議な方法で、メーティスは神の体の中で身ごもったのです―どのようになんて、こんな奇想天外なてんまつは、のっけから描写しようという気も起こりません。
ゼウスはメーティスと情を交わしたいと思ってはいましたが、息子が生れることは望んでいませんでした。メーティスに生れる息子はゼウスをしのぐであろう、と予言されていたからです。ゼウスは、それはなんとしても避けたいと考えました。けれども、いまやメーティスは身重です。そして、ゼウスの頭へと、じわじわと登りつめていきました。ゼウスは苦しみだしました。同時に不安にもなりました。胎児は頭蓋骨を内側から圧迫し、ゼウスの頭はふくれあがりました。そしてついに神々の鍛冶、ヘーパイストスが呼ばれました。
ヘーパイストスは、この問題を職人ならではのやり方で解決しました。斧でゼウスの脳天をぶち割ったのです。ぱっくりと割れた頭から、パラス・アテーナーが、すっかり成長した姿で、完全武装してあらわれました。
アテーナーは、ですからゼウスのお腹、ではなくて頭を痛めた子供です。さしずめ、ヘーパイストスは産婆といったところです。そのためか、ヘーパイストスはアテーナーを、目に入れても痛くないほどかわいがりました。アテーナーにだけは、無礼なところも、粗暴なところも見せませんでした。むしろ、へりくだった態度で接しました。アテーナーは、他の神々と一緒になって、ヘーパイストスを笑いものにしました。けれども、一つのことでは、ヘーパイストスと意見の一致を見ていました。二人は、愚昧な荒くれ者アレースに我慢がならなかったのです。
アテーナーはヘーパイストスとは正反対のことを体現しています。アテーナーはひらめきの女神でした。精神のアテーナーに対して、ヘーパイストスは現実に密着した手仕事を表しています。ヘーパイストスは、火を使って世にも見事なものを作ることができました。けれども、最後のところでひらめき、つまり太陽が、ヘーパイストスにはありませんでした。神話の語るところでは、火はどこまで行っても太陽の模倣でしかありません。また、行為はどこまで行っても思考の後追いでしかありません。アテーナーは、ほかの全ての神々と違って、精神を神格化した女神でした。

ゼウスの妻ヘラ(ヘーラー)の単性生殖で産まれたのがヘーパイストス(Vulcan)であるならば、アテーナーはゼウスが単性生殖で産んだようなものです。ヘーパイストスは妻のアフロディティを寝取ったアレースを憎んでいたと思いますが、アテーナーはアレースの粗暴さを憎んでいたようです。しかし、アテーナーは清浄なのかというのは浅はかです。

アテーナーはちやほやされることが好きでしたが、それは知的なやり方でなくてはなりませんでした。露骨に言い寄ったりすると、失格でした。アレースに対するアテーナーの敵意は、神々の世界にしょっちゅういざこざを引き起こしました。アレースは、血に飢えた乱暴者ではありましたが、全面戦争、つまり殲滅戦の創始者はアテーナーです。アテーナーは戦略家でした。敵を前にしたり、あるいは敵を前にした英雄に加勢しようと思ったときに、アテーナーが提案する方策は、いつも徹底したものでした。つまり、完膚なきまでにやっつける、というものです。最小の被害で最大の効果をあげなければならない、敵を全滅させることでしか、将来にわたって憂いをなくすことはできない、というわけです。
アレースとアテーナーが現代にいたとしたら、わたしは迷うことなく、パラス・アテーナーに恐怖を抱きます。パラス・アテーナーは原子爆弾の女神です。アレースは残酷で残忍ですが、原爆による大領殺戮は、この神のお気には召さないと思います。

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2006年 10月 25日

教育基本法案比較検討(3)

投稿者 by vulcan at 17:55 / カテゴリ: 雑感 / 0 コメント / 0 TrackBack

最後に「インターネット教育」、「教育行政」、「教育振興基本計画」について所見を述べてみたいと思います。

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インターネット教育

現行法(教育基本法)

対応する条文なし

政府案(教育基本法案)

対応する条文なし

民主党案(日本国教育基本法案)

第十七条(情報文化社会に関する教育)
 すべての児童及び生徒は、インターネット等を利用した仮想情報空間におけるコミュニケーションの可能性、限界及び問題について、的確に理解し、適切な人間関係を構築する態度と素養を修得するよう奨励されるものとする。
2 すべての児童及び生徒は、文化的素養を醸成し、他者との対話、交流及び協働を促進する基礎となる国語力を身につけるための適切かつ最善な教育の機会を得られるよう奨励されるものとする。
3 すべての児童及び生徒は、その健やかな成長に有害な情報から保護されるよう配慮されるものとする。

インターネットが社会的な問題を生み、また、欠くべからざるツールであることは周知の事実ですが、果たして本条文を教育基本法に盛り込むべき性質のものかと考えると、疑問に思います。特に3は無理があり、かつ返って規制する方が教育上も弊害が大きいのではないかと思います。

本質的に、人間には健全な心と邪悪な心が内在しているという人間の性について、あるいは死生観について、宗教教育を通じて教育することを一義的に行なうべきであり、その礎の上にインターネット教育を持ってくるべきです。いずれにせよ、基本法においてインターネット教育について触れることは勇み足であると考えます。

教育行政

現行法(教育基本法)

第十条(教育行政)
 教育は、不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負つて行われるべきものである。
2 教育行政は、この自覚のもとに、教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立を目標として行われなければならない。

政府案(教育基本法案)

第十六条(教育行政)
 教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律の定めるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行われなければならない。
2 国は、全国的な教育の機会均等と教育水準の維持向上を図るため、教育に関する施策を総合的に策定し、実施しなければならない。
3 地方公共団体は、その地域における教育の振興を図るため、その実情に応じた教育に関する施策を策定し、実施しなければならない。
4 国及び地方公共団体は、教育が円滑かつ継続的に実施されるよう、必要な財政上の措置を講じなければならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第十八条(教育行政)
 教育行政は、民主的な運営を旨として行われなければならない。
2 地方公共団体が行う教育行政は、その施策に民意を反映させるものとし、その長が行わなければならない。
3 地方公共団体は、教育行政の向上に資するよう、教育行政に関する民主的な組織を整備するものとする。
4 地方公共団体が設置する学校は、保護者、地域住民、学校関係者、教育専門家等が参画する学校理事会を設置し、主体的・自律的運営を行うものとする。

民主党の説明に「民主党は、現行法の「不当な支配」という言葉の定義をめぐる、子ども不在の不毛な論争を教育現場から一掃するため、「民主的な運営」という表現にした。」とあります。確かに、『不当な支配』という文言の存在によって、指摘にあるような本質的な部分をなおざりにした戦いが繰り広げられてきたと考えます。

また、政府案にある『国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力』というのは、いかにも玉虫色で、日本の悪しき習慣が現れていると考えます。この点について、民主党案はすっきりしており、評価すべきと考えます。

現在の教育行政が三位バラバラ(学校設置者は市町村/人事権は都道府県/学習指導要領は国)で、これを見直さなければならない。また地方自治体では、予算編成権は首長、教育行政は教育委員会という二元性になっており、これを一元化する必要があると考える。その意味で、地域住民の民意を教育行政にも反映させるという観点から、直接選挙によって選ばれる首長を最終的な教育行政の責任者として位置づけることがより適切だと判断した。

ここで、確認しておきたいのは、民主党案の第7条第3項『国は普通教育の機会を保障し、その最終的な責任を有する。』との関係です。

両者を比較すれば分かるように、国は、普通教育の機会を保障しその責任を持つこととし、教育行政は地方に委ねるということが民主党の提案です。これでもグレーな部分は出てくるでしょうが、勇断と見てよいと思います。

教育振興基本計画

現行法(教育基本法)

対応する条文なし

政府案(教育基本法案)

第十七条(教育振興基本計画)
 政府は、教育の振興に関する施策の総合的かつ計画的な推進を図るため、教育の振興に関する施策についての基本的な方針及び講ずべき施策その他必要な事項について、基本的な計画を定め、これを国会に報告するとともに、公表しなければならない。
2 地方公共団体は、前項の計画を参酌し、その地域の実情に応じ、当該地方公共団体における教育の振興のための施策に関する基本的な計画を定めるよう努めなければならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第十九条(教育の振興に関する計画)
 政府は、国会の承認を得て、教育の振興に関する基本的な計画を定めるとともに、これを公表しなければならない。
2 前項の計画には、我が国の国内総生産に対する教育に関する国の財政支出の比率を指標として、教育に関する国の予算の確保及び充実の目標が盛り込まれるものとする。
3 政府は、第一項の計画の実施状況に関し、毎年、国会に報告するとともに、これを公表しなければならない。
4 地方公共団体は、その議会の承認を得て、その実情に応じ、地域の教育の振興に関する具体的な計画を定めるとともに、これを公表しなければならない。
5 前項の計画には、教育に関する当該地方公共団体の予算の確保及び充実の目標が盛り込まれるものとする。
6 地方公共団体の長は、第四項の計画の実施状況に関し、毎年、その議会に報告するとともに、これを公表しなければならない。

第二十条(予算の確保)
 政府及び地方公共団体は、前条第一項又は第四項の計画の実施に必要な予算を安定的に確保しなければならない。

民主党案はかなり踏み込んだ規定であり、基本法として相応しいかどうかの議論があると思います。しかし、政府を、会社でいう取締役会として機能させ、執行役として地方自治体の長が実際に行政を行なうという基本方針がある以上、実効性を高めるとともに、監視を強化する要請から、上記のような踏み込んだ規定を設けることは、意義が大きいと考えます。

いずれにせよ、相当の拘束力を持ちますので、覚悟の高い法案だと言えると思います。

民主党コメンタール

2006年 10月 25日

教育基本法案比較検討(2)

投稿者 by vulcan at 15:44 / カテゴリ: 雑感 / 0 コメント / 0 TrackBack

引き続き、「義務教育」、「大学(高等教育)」、「私立学校」、「家庭教育」、「地域教育」、「生涯学習」、「障がい児教育」、「職業教育」、「政治教育」、「宗教教育」について所見を述べてみたいと思います。

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義務教育

現行法(教育基本法)

第四条(義務教育)
 国民は、その保護する子女に、九年の普通教育を受けさせる義務を負う。
2 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料はこれを徴収しない。

政府案(教育基本法案)

第五条(義務教育)
 国民は、その保護する子に、別に法律で定めるところにより、普通教育を受けさせる義務を負う。
2 義務教育として行われる普通教育は、各個人の有する能力を伸ばしつつ社会において自立的に生きる基礎を培い、また、国家及び社会の形成者として必要とされる基本的な資質を養うことを目的として行われるものとする。
3 国及び地方公共団体は、義務教育の機会を保障し、その水準を確保するため、適切な役割分担及び相互の協力の下、その実施に責任を負う。
4 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については、授業料を徴収しない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第七条(普通教育及び義務教育)
 何人も、別に法律で定める期間の普通教育を受ける権利を有する。国民は、その保護する子どもに、当該普通教育を受けさせる義務を負う。
2 義務教育は、真の主権者として民主的で文化的な国家、社会及び家庭の形成者を育成することを目的とし、基礎的な学力の修得及び体力の向上、心身の調和的発達、道徳心の育成、文化的素養の醸成、国際協調の精神の養成並びに自主自立の精神の体得を旨として行われるものとする。
3 国は普通教育の機会を保障し、その最終的な責任を有する。
4 国は、普通教育に関し、地方公共団体の行う自主的かつ主体的な施策に配慮し、地方公共団体は、国との適切な役割分担を踏まえつつ、その地域の特性に応じた施策を講ずるものとする。
5 国又は地方公共団体の設置する学校における義務教育については授業料は徴収せず、その他義務教育に関する費用については、保護者の負担は、できる限り軽減されるものとする。

政府案、民主党案ともに9年の年限が外れており、大きな相違点は、国家に最終責任が存することを謳っているか否かです。これは、小沢一郎氏の『小沢主義(イズム)』を読めば分かることですが、「現行法下では教育の責任の所在が明文化されておらず、それが、教育の現場を混乱させる元凶となっている」との信念に基づいた条文です。

進んで責任を取り、明文化せずとも「武士に二言は無い」と約束を守りきる武士道の精神が旺盛に生きているのであれば、この条文を盛り込むことは恥としなければなりませんが、責任を押し付け合い、あるいは、お互いにかばいあって責任の所在をうやむやにする、また、「記憶に無い」と、記録されたものが無いことをいいことに都合の悪いことは無かったことにしてしまう、あるいは積極的に記録を隠蔽する現在の官僚体制や政治家の姿勢に鑑みると、必要な条文であることを、不承不承認めざるを得ないと考えます。

大学(高等教育)

現行法(教育基本法)

対応する条文なし

政府案(教育基本法案)

第七条(大学)
 大学は、学術の中心として、高い教養と専門的能力を培うとともに、深く真理を探究して新たな知見を創造し、これらの成果を広く社会に提供することにより、社会の発展に寄与するものとする。
2 大学については、自主性、自律性その他の大学における教育及び研究の特性が尊重されなければならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第八条(高等教育)
 高等教育は、我が国の学術研究の分野において、その水準の向上及びその多様化を図るとともに、社会の各分野における創造性に富む担い手を育成することを旨として行われるものとする。
2 高等教育を行う学校は、社会に開かれたものとなるよう、職業人としての資質の向上に資する社会人の受入れの拡大、地域、産業、文化、社会等の活性化に資する人材の養成を目指す関係者との連携等を積極的に図るものとする。
3 高等教育については、無償教育の漸進的な導入及び奨学制度の充実等により、能力に応じ、すべての者に対してこれを利用する機会が与えられるものとする。

「日本の高等教育における家計の負担比率は約6割であり、アメリカ3割、ヨーロッパ平均1割、スウェーデン0割と比べ、日本が著しく高い状況」とのことです。

我が家は子供が3人おり、最低でも4人、できれば5人でも6人でも子供が欲しいと思っていますので、高等教育に対する、『無償教育の漸進的な導入及び奨学制度の充実等』は、個人的には非常にありがたいと思います。

但し、方向性としては、奨学制度の充実で対応してもらい、意欲ある者の教育の機会を広げることを優先して欲しいと思います。

私立学校

現行法(教育基本法)

対応する条文なし

政府案(教育基本法案)

第八条(私立学校)
 私立学校の有する公の性質及び学校教育において果たす重要な役割にかんがみ、国及び地方公共団体は、その自主性を尊重しつつ、助成その他の適当な方法によって私立学校教育の振興に努めなければならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第九条(建学の自由及び私立の学校の振興)
 建学の自由は、別に法律で定めるところにより、教育の目的の尊重のもとに、保障されるものとする。国及び地方公共団体は、これを最大限尊重し、あわせて、多様な教育の機会の確保及び整備の観点から、私立の学校への助成及び私立の学校に在籍する者への支援に努めなければならない。

私立学校のモラルをどう規律するかが難しいと思います。しかし、義務教育の最終的な責任を国家が負うことを明文化することにより、国家は私立学校といえども、モラル違反に対しては積極的に関与することが可能となると考えます。

政府案では私立学校の自主性を尊重することが謳われていますが、これに対して民主党案は建学の自由を保障しています。あくまでも、国家事業として教育に取り組む以上、私立学校といえども、モラル違反には厳しい姿勢で介入することが筋だと考えます。

家庭教育

現行法(教育基本法)

第七条第一項(社会教育)
 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によつて奨励されなければならない。

政府案(教育基本法案)

第十条(家庭教育)
 父母その他の保護者は、子の教育について第一義的責任を有するものであって、生活のために必要な習慣を身に付けさせるとともに、自立心を育成し、心身の調和のとれた発達を図るよう努めるものとする。
2 国及び地方公共団体は、家庭教育の自主性を尊重しつつ、保護者に対する学習の機会及び情報の提供その他の家庭教育を支援するために必要な施策を講ずるよう努めなければならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第十条(家庭における教育)
 家庭における教育は、教育の原点であり、子どもの基本的な生活習慣、倫理観、自制心、自尊心等の資質の形成に積極的な役割を果たすことを期待される。保護者は、子どもの最善の利益のため、その能力及び資力の範囲内で、その養育及び発達についての第一義的な責任を有する。
2 国及び地方公共団体は、保護者に対して、適切な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、健やかな家庭環境を享受できないすべての子どもに対して、適当な養護、保護及び援助を行わなければならない。

一義的の字義は『いちばん大切な意味をもっているさま。根本的。第一義的。』です。まさに教育の一義的な責任が保護者にあることを明記した点で、政府案、民主党案いずれも評価できますが、本来であれば、そのようなことは条文に明記せずとも当たり前のことであり、それを明記せざるを得ない世の中というのが悲しむべき現実の姿です。

なお、民主党案は、一義的という字句解釈の不当な拡張を危惧してか、『その能力及び資力の範囲内』という制限を付しており、より望ましい表現だと思います。

地域教育

現行法(教育基本法)

[再掲]第七条第一項(社会教育)
 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によつて奨励されなければならない。

政府案(教育基本法案)

第十三条(学校、家庭及び地域住民等の相互の連携協力)
 学校、家庭及び地域住民その他の関係者は、教育におけるそれぞれの役割と責任を自覚するとともに、相互の連携及び協力に努めるものとする。

民主党案(日本国教育基本法案)

第十一条(地域における教育)
 地域における教育においては、地域住民の自発的取組が尊重され、多くの人々が、学校及び家庭との連携のもとに、その担い手になることが期待され、そのことを奨励されるものとする。

これも当たり前のことを条文に盛り込まなければならない悲しい現実の姿です。

生涯学習

現行法(教育基本法)

[再掲]第七条第一項(社会教育)
 家庭教育及び勤労の場所その他社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
(社会教育)第七条
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館等の施設の設置、学校の施設の利用その他適当な方法によつて教育の目的の実現に努めなければならない。

政府案(教育基本法案)

第三条(生涯学習の理念)
 国民一人一人が、自己の人格を磨き、豊かな人生を送ることができるよう、その生涯にわたって、あらゆる機会に、あらゆる場所において学習することができ、その成果を適切に生かすことのできる社会の実現が図られなければならない。
(社会教育)第十二条
 個人の要望や社会の要請にこたえ、社会において行われる教育は、国及び地方公共団体によって奨励されなければならない。
2 国及び地方公共団体は、図書館、博物館、公民館その他の社会教育施設の設置、学校の施設の利用、学習の機会及び情報の提供その他の適当な方法によって社会教育の振興に努めなければならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第十二条(生涯学習及び社会教育)
 国及び地方公共団体は、国民が生涯を通じて、あらゆる機会に、あらゆる場所において、多様な学習機会を享受できるよう、社会教育の充実に努めなければならない。
2 国及び地方公共団体が行う社会教育の充実は、図書館、博物館、公民館等の施設と機能の整備その他適当な方法によって、図られるものとする。

あまり比較しても仕方の無い条文ですが、生涯学習を法律で規定しなければ安心できない国民性とはなんとも幼稚だと感じます。

障がい児教育

現行法(教育基本法)

対応する条文なし

政府案(教育基本法案)

[再掲]第四条(教育の機会均等)
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第十三条(特別な状況に応じた教育)
 障がいを有する子どもは、その尊厳が確保され、共に学ぶ機会の確保に配慮されつつ自立や社会参加が促進され、適切な生活を享受するため、特別の養護及び教育を受ける権利を有する。国及び地方公共団体は、障がい、発達状況、就学状況等、それぞれの子どもの状況に応じて、適切かつ最善な支援を講じなければならない。

ここでは、民主党案に『尊厳』という言葉が使われている点に注目しています。政府案が『十分な教育』という表現なのに対し、民主党案は『適切かつ最善な支援』とありますが、この点は、何を持って十分とするか、何を持って適切かつ最善とするかを明確にすることはできず、どちらも大差は無いと考えます。

障害を有する子どもの尊厳を確保するというのは、教育基本法においても規定するに値する事項だと考えます。なぜなら、現状の障害者教育の現場では、明らかに障害者の尊厳を無視した(暴力的)行為が現存しているからです。

職業教育

現行法(教育基本法)

対応する条文なし

政府案(教育基本法案)

対応する条文なし

民主党案(日本国教育基本法案)

第十四条(職業教育)
 何人も、学校教育と社会教育を通じて、勤労の尊さを学び、職業に対する素養と能力を修得するための職業教育を受ける権利を有する。国及び地方公共団体は、職業教育の振興に努めなければならない。

職業教育が教育基本法で規定すべき事項であるとは思いません。この規定は生涯教育の中で盛り込むべではないかと考えます。

政治教育

現行法(教育基本法)

第八条(政治教育)
 良識ある公民たるに必要な政治的教養は、教育上これを尊重しなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

政府案(教育基本法案)

第十四条(政治教育)
 良識ある公民として必要な政治的教養は、教育上尊重されなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第十五条(政治教育)
 国政及び地方自治に参画する良識ある真の主権者としての自覚と態度を養うことは、教育上尊重されなければならない。
2 法律に定める学校は、特定の政党を支持し、又はこれに反対するための政治教育その他政治的活動をしてはならない。

本条文は、歴史的には、学校現場での特定の政党支持が行なわれてきたことによる行き過ぎを反省して作られたものと考えられ、現状の社会的要請によるものではないと考えれば、政府案のように一字一句現行法を踏襲することも一理あると思います。しかしながら、『主権在民』という自覚が薄れつつある社会に鑑みると、社会的要請が存在すると考えることもでき、民主党案は評価できると考えます。

宗教教育

現行法(教育基本法)

第九条(宗教教育)
 宗教に関する寛容の態度及び宗教の社会生活における地位は、教育上これを尊重しなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

政府案(教育基本法案)

第十五条(宗教教育)
 宗教に関する寛容の態度、宗教に関する一般的な教養及び宗教の社会生活における地位は、教育上尊重されなければならない。
2 国及び地方公共団体が設置する学校は、特定の宗教のための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第十六条(生命及び宗教に関する教育)
 生の意義と死の意味を考察し、生命あるすべてのものを尊ぶ態度を養うことは、教育上尊重されなければならない。
2 宗教的な伝統や文化に関する基本的知識の修得及び宗教の意義の理解は、教育上重視されなければならない。
3 宗教的感性の涵養及び宗教に関する寛容の態度を養うことは、教育上尊重されなければならない。
4 国、地方公共団体及びそれらが設置する学校は、特定の宗教の信仰を奨励し、又はこれに反対するための宗教教育その他宗教的活動をしてはならない。

我が国において、古来から、教育の現場で宗教を取り上げるという習慣は無かったと思います。それは、家庭における宗教教育が十分に行き届いていたからです。しかし、戦後、我が国では宗教に対する態度を明確にすることが難しくなり、それは家庭においても同様となりました。この結果、我が国における伝統的宗教は壊滅的な打撃を受けていると考えます。

西洋では、宗教は倫理観の根源であると考えられており、宗教教育は教育の現場で積極的に行なわれていると聞きます。一方日本では、家庭や地域社会において、倫理教育そのものが実践されていたわけです。その根本となる思想は、武士道、つまり、大和魂であったと私は考えます。

しかしながら、武士道は廃れてしまいました。したがって、現代において、伝統的宗教の知識を教育することは二つの理由で意義があると考えます。一つは、キリスト教などは宗教そのものに倫理観が備えられているため、倫理観の向上が期待できるというものです。しかしこれは実際にはなかなか思うようには効果が出ないでしょう。もう一つは、儒教、神道、仏教が封建制度とあいまって武士道を生み出したことに鑑みると、宗教教育の充実により、新たな日本の誇るべき精神が生み出しうるかもしれないからです。こちらは、時間のかかることですが、大いに期待したいと思います。

そういう意味で、踏み込んだ条文である民主党案は、時代の要請だと考えます。


民主党コメンタール

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2006年 10月 25日

教育基本法案比較検討(1)

投稿者 by vulcan at 13:43 / カテゴリ: 雑感 / 0 コメント / 0 TrackBack

教育基本法案について、比較検討し、個人的な所見を述べてみたいと思います。

まずは、「前文」、「目的」、「教育の機会均等」、「学校教育」、「教員」、「幼児期の教育」についての所見を述べます。

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前文

現行法(教育基本法)

(前文)
 われらは、さきに、日本国憲法を確定し、民主的で文化的な国家を建設して、世界の平和と人類の福祉に貢献しようとする決意を示した。この理想の実現は、根本において教育の力にまつべきものである。
 われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育を普及徹底しなければならない。
 ここに、日本国憲法の精神に則り、教育の目的を明示して、新しい日本の教育の基本を確立するため、この法律を制定する。

政府案(教育基本法案)

(前文)
 我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。
 我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。
 ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。

民主党案(日本国教育基本法案)

(前文)
 心身ともに健やかな人間の育成は、教育の原点である家庭と、学校、地域、社会の、広義の教育の力によって達成されるものである。
 また、日本国民ひいては人類の未来、我が国及び世界の将来は、教育の成果に依存する。
 我々が直面する課題は、自由と責任についての正しい認識と、また、人と人、国と国、宗教と宗教、人類と自然との間に、共に生き、互いに生かされるという共生の精神を醸成することである。
 我々が目指す教育は、人間の尊厳と平和を重んじ、生命の尊さを知り、真理と正義を愛し、美しいものを美しいと感ずる心を育み、創造性に富んだ、人格の向上発展を目指す人間の育成である。
 更に、自立し、自律の精神を持ち、個人や社会に起こる不条理な出来事に対して、連帯して取り組む豊かな人間性と、公共の精神を大切にする人間の育成である。
 同時に、日本を愛する心を涵養し、祖先を敬い、子孫に想いをいたし、伝統、文化、芸術を尊び、学術の振興に努め、他国や他文化を理解し、新たな文明の創造を希求することである。
 我々は、教育の使命を以上のように認識し、国政の中心に教育を据え、日本国憲法の精神と新たな理念に基づく教育に日本の明日を託す決意をもって、ここに日本国教育基本法を制定する。

前文というのは、条文ではないことから、これを根拠に法的規制が行使されることはありません。そのため、とかく軽視されがちですが、前文は理念であり、実は非常に重要な存在です。なぜなら、これを元に法体系が構築され、また、条文間で矛盾が生まれた場合に、裁定は理念に立ち戻って行なわれるからです。

理念に基づいて判断していくことが、一貫性・公平性を保つ唯一の方法です。そうなりますと、理念というのは分かりやすくあるべきであり、なにが言いたいのかが、なんとなく分かるが漠然としているというのは、あるべき姿ではありません。そういう意味で、民主党案は非常に理念として、つまり前文として優れていると考えます。

また、政府案では「個人の尊厳を重んじ」という表現を使っているのに対し、民主党案では「人間の尊厳と平和を重んじ」という表現となっています。尊厳という言葉は『とうとくおごそかなこと。気高く犯しがたいこと。また、そのさま。「人間の―を守る」』という意味を指し、個人の尊厳を重んじるということが、どういう状況を生むか、空恐ろしくなります。尊厳を与えるべきは、どうあっても人間でなければならないと思います。

総じて、政府案は、「前文など短ければ短いほどよい」という考え方から、きれいな言葉を並べて煙に巻いた印象を受けますが、民主党案は、何ゆえ、今、教育基本法を改正しなければならないのかが、すっと理解できる構成になっていると考えます。

目的

現行法(教育基本法)

第一条(教育の目的)
 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第二条(教育の方針)
 教育の目的は、あらゆる機会に、あらゆる場所において実現されなければならない。この目的を達成するためには、学問の自由を尊重し、実際生活に即し、自発的精神を養い、自他の敬愛と協力によつて、文化の創造と発展に貢献するように努めなければならない。

政府案(教育基本法案)

第一条(教育の目的)
 教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。
第二条(教育の目標)
 教育は、その目的を実現するため、学問の自由を尊重しつつ、次に掲げる目標を達成するよう行われるものとする。
1 幅広い知識と教養を身に付け、真理を求める態度を養い、豊かな情操と道徳心を培うとともに、健やかな身体を養うこと。
2 個人の価値を尊重して、その能力を伸ばし、創造性を培い、自主及び自律の精神を養うとともに、職業及び生活との関連を重視し、勤労を重んずる態度を養うこと。
3 正義と責任、男女の平等、自他の敬愛と協力を重んずるとともに、公共の精神に基づき、主体的に社会の形成に参画し、その発展に寄与する態度を養うこと。
4 生命を尊び、自然を大切にし、環境の保全に寄与する態度を養うこと。
5 伝統と文化を尊重し、それらをはぐくんできた我が国と郷土を愛するとともに、他国を尊重し、国際社会の平和と発展に寄与する態度を養うこと。

民主党案(日本国教育基本法案)

第一条(教育の目的)
 教育は、人格の向上発展を目指し、日本国憲法の精神に基づく真の主権者として、人間の尊厳を重んじ、民主的で文化的な国家、社会及び家庭の形成者たるに必要な資質を備え、世界の平和と人類の福祉に貢献する心身ともに健やかな人材の育成を期して行われなければならない。

『目的』という字義は、『実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。』であり、一方、『目標』という字義は、『見てすぐわかるようにつけたしるし。』です。これに対して、前文で述べている『理念』という字義は、『ある物事についての、こうあるべきだという根本の考え。』です。なお、現行法で規定している『方針』という字義は、『めざす方向。物事や計画を実行する上の、およその方向。』です。

私が一番違和感を感じるのは、政府案が『目標』として挙げていることが、果たして『目標』たりうるかということです。目標とはマイルストーンであり、達成したのかどうかがすぐに分かる性質を備えていなければならず、そうしたものを欠いた場合、寝言に過ぎません。

教育の機会均等

現行法(教育基本法)

第三条(教育の機会均等)
 すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならないものであつて、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によつて、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によつて修学困難な者に対して、奨学の方法を講じなければならない。

政府案(教育基本法案)

第四条(教育の機会均等)
 すべて国民は、ひとしく、その能力に応じた教育を受ける機会を与えられなければならず、人種、信条、性別、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
2 国及び地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう、教育上必要な支援を講じなければならない。
3 国及び地方公共団体は、能力があるにもかかわらず、経済的理由によって修学が困難な者に対して、奨学の措置を講じなければならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第二条(学ぶ権利の保障)
 何人も、生涯にわたって、学問の自由と教育の目的の尊重のもとに、健康で文化的な生活を営むための学びを十分に奨励され、支援され、及び保障され、その内容を選択し、及び決定する権利を有する。
第三条(適切かつ最善な教育の機会及び環境の享受等)
何人も、その発達段階及びそれぞれの状況に応じた、適切かつ最善な教育の機会及び環境を享受する権利を有する。
2 何人も、人種、性別、言語、宗教、信条、社会的身分、経済的地位又は門地によって、教育上差別されない。
3 国及び地方公共団体は、すべての幼児、児童及び生徒の発達段階及びそれぞれの状況に応じた、適切かつ最善な教育の機会及び環境の確保及び整備のための施策を策定し、及びこれを実施する責務を有する。
4 国及び地方公共団体は、経済的理由によって修学困難な者に対して、十分な奨学の方法を講じなければならない。

民主党は「民主党の憲法提言でも学ぶ権利の保障を21世紀の基本的人権と位置づけているが、新法でも、「学ぶ権利の保障」を明記したことは民主党案の特徴である。」と述べています。現行法や政府案に「学ぶ権利の保障」が込められていると解釈できますので、一見どちらでもいいように思います。

しかしながら、『義務教育』というのが、「子供には教育を受ける義務がある」という解釈を成り立たせようとしているかのような世情を鑑みると、声高に『権利の保障』を掲げるのにも肯けます。『義務教育』の字義は『法律に基づいて、国民がその保護する学齢児童・生徒に義務として受けさせなければならない普通教育。』であり、分かりやすく言えば「子供の教育を受ける権利を妨げてはならない義務」ということだと考えます。

学校教育

現行法(教育基本法)

第六条(学校教育)
 法律に定める学校は、公の性質をもつものであつて、国又は地方公共団体の外、法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。

政府案(教育基本法案)

第六条(学校教育)
 法律に定める学校は、公の性質を有するものであって、国、地方公共団体及び法律に定める法人のみが、これを設置することができる。
2 前項の学校においては、教育の目標が達成されるよう、教育を受ける者の心身の発達に応じて、体系的な教育が組織的に行われなければならない。この場合において、教育を受ける者が、学校生活を営む上で必要な規律を重んずるとともに、自ら進んで学習に取り組む意欲を高めることを重視して行われなければならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第四条(学校教育)
 国及び地方公共団体は、すべての国民及び日本に居住する外国人に対し、意欲をもって学校教育を受けられるよう、適切かつ最善な学校教育の機会及び環境の確保及び整備に努めなければならない。
2 学校教育は、我が国の歴史と伝統文化を踏まえつつ、国際社会の変動、科学と技術の進展その他の社会経済情勢の変化に的確に対応するものでなければならない。
3 学校教育においては、学校の自主性及び自律性が十分に発揮されなければならない。
4 法律に定める学校は、その行う教育活動に関し、幼児、児童、生徒及び学生の個人情報の保護に留意しつつ、必要な情報を本人及び保護者等の関係者に提供し、かつ、多角的な観点から点検及び評価に努めなければならない。
5 国及び地方公共団体は、前項の学校が行う情報の提供並びに点検及び評価の円滑な実施を支援しなければならない。

ここで、大きく指摘しなければならないのは、政府案が教育を受ける者に対して義務を課している点です。『重んじる』とか『重視する』という用語を使っていますので、規律違反をした者を即座に法律違反とすることには当たらないと思いますが、教育を受けることを望んでいない者が、意思に反して(親の顔を立てて)教育を受けている場合、規律を重んじる姿勢が見られない可能性が高いと考えます。こうした者は、考えあっての姿勢(行動)である場合もあると思いますが、本条文に基づき、『社会的落伍者』として排除する世の中が助長されるのではないかと危惧します。

教員

現行法(教育基本法)

[再掲]第六条(学校教育)
2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であつて、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。

政府案(教育基本法案)

第九条(教員)
 法律に定める学校の教員は、自己の崇高な使命を深く自覚し、絶えず研究と修養に励み、その職責の遂行に努めなければならない。
2 前項の教員については、その使命と職責の重要性にかんがみ、その身分は尊重され、待遇の適正が期せられるとともに、養成と研修の充実が図られなければならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第五条(教員)
 法律に定める学校は、公の性質を有するものであり、その教員は、全体の奉仕者であって、自己の崇高な使命を自覚し、その職責の十全な遂行に努めなければならない。
2 前項の教員は、その身分が尊重され、その待遇が適正に保障されなければならない。
3 第一項の教員については、その養成と研修の充実が図られなければならない。

何ゆえ、『全体の奉仕者』すなわち『公僕』の言葉を政府案は取り除いたのでしょうか。『公僕』の精神こそ今の教育に必要なものであり、教育者に自覚を促すべき事柄ではないでしょうか。『公僕』というのは『国家の下僕』という意味ではなく、その字義は、『広く公衆に奉仕する者。公務員のこと。』であり、きわめて崇高な精神であり、現行法から継承すべき精神であると考えます。

幼児期の教育

現行法(教育基本法)

対応する条文なし

政府案(教育基本法案)

第十一条(幼児期の教育)
 幼児期の教育は、生涯にわたる人格形成の基礎を培う重要なものであることにかんがみ、国及び地方公共団体は、幼児の健やかな成長に資する良好な環境の整備その他適当な方法によって、その振興に努めなければならない。

民主党案(日本国教育基本法案)

第六条(幼児期の教育)
 幼児期にあるすべての子どもは、その発達段階及びそれぞれの状況に応じて、適切かつ最善な教育を受ける権利を有する。
2 国及び地方公共団体は、幼児期の子どもに対する無償教育の漸進的な導入に努めなければならない。

この点について、民主党は「現在、幼稚園や保育園に通う経験なく小学校に入学する子どもが一定割合存在しているが、すべての子どもたちがより円滑な就学を図るためには、幼児段階での社会化のための教育を行うことが有効であり、そのためにも、幼児教育の漸進的な無償化が必要だと考えた。」と述べています。

私個人としては、当初、子供たちを幼稚園に通わせることをせず、学校教育は小学校からで十分と考えていたのですが、幼稚園での教育も意義はあろうと考え直して、年中組から入園させる方針に切り替えました。

幼稚園や保育園に通うことが、それらに頼らない方法に必ず勝るとは、今でも考えておりませんので、これを義務化する流れだとすれば反対の立場ですが、広く機会を与えるための無償教育の導入ということであれば、理解できます。


民主党コメンタール

2006年 10月 25日

藤田東吾の大和魂(2)

投稿者 by vulcan at 07:35 / カテゴリ: / 5 コメント / 0 TrackBack

らくちんランプが、時々行なう、安倍総理の写真の落書きは、あまりフェアプレーではないと考え、虫唾が走ります。

らくちんランプにはサムライになってもらいたいので、できればあの愚劣な落書きは削除してもらいたいと思います。

しかし、写真の点は唯一気に入りませんが、その他の点においての正義感は高く評価しています。特に、先日の藤田東吾の首相官邸前のビデオ撮影は、「よくぞ実行した」と思います。

イーホームズ藤田東吾社長からの、様々な疑問に対する回答文(必読)。(らくちんランプ)

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国交省、マスコミ関係者、ジャーナリスト、住民/国民の皆様へ

 代表的なご質問に対する回答と、私が記者の前で語り報道されないこと

 ここ数日の間に、私に対して、多くのご意見が届けられています。その中で、代表的なご質問に対して、また、司法クラブや総理官邸前で私が話した重要なポイントなど、以下の通りご回答申し上げます。この文責は、全て僕にあります。どうか、このままの内容で、とありあげてください。今、僕は、国民の命の危機を訴えて、安倍総理に「国家に巣食う者を弾劾する」と題した書面を届けました。昨日、内閣事務官の小金井武様から、総理秘書官に届いたとのお電話を留守電に頂きました(2006.10.23 AM11:45)。僕は、ある尊敬する財界(筆者誤字と判断により訂正。以下、下線部分について同様。)の大先達の方の紹介を受けて、安倍総理に偽装を証明する資料を直接お届けしたいと考えています。そして、国家の指定確認検査機関の代表を務めたものとしての務めを終え、その後の、必要な是正や不法行為を行なった公務員の摘発については、総理の名の下に、法の下に平等な実施を願うばかりであります。

 僕は、この文章のファイルを、国土交通省住宅局建築指導課小川指導課長以下、TBS、日本テレビ、フジテレビ、テレビ朝日、NHK、東京12cha、朝日新聞、共同通信、読売新聞、毎日新聞、日経新聞、知りうる限りのジャーナリスト、きっこさん、被害にあったマンション住民、その他の有志の国民、etcに送信します。
 下記の、you tubeの映像は、一般の方(らくちんランプさん)が撮影してくれました。昨日、世界で8位になりました。今、世界中の人が見ています。今、国家が隠蔽しようとしている、日本の同胞の命の危機を救うために、そして、国家に巣食う者を弾劾するために、journalist皆様のご協力を切にお願い申し上げます。(明らかな誤字脱字がありましたらお手数かけますが、訂正をお願い致します)

 その1.http://www.youtube.com/watch?v=LrgaPATsKDU
 その2.http://www.youtube.com/watch?v=dApNqiZ5k3A

 平成十八年十月二十四日
 イーホームズ株式会社
 代表取締役 藤田東吾

 1.何故、今の段階で、アパや国、行政の「隠蔽」の事実を公表するのか?
 1)まず、私には指定機関の代表を務めた公僕として、国民の命が危険に晒されているリスクを、お伝えする義務が大前提にあります。私は、社員から報告が上がった、これらの事実を、今年の二月から国交省、各地方行政、警察、東京地検にも何度となく伝えてきました。一定の、信頼できると考えていた報道機関にも、資料とともにお渡ししてきました。五月下旬に保釈された後には、民主党の馬淵議員にもお伝えしました(この効果は六月七日の国会で取り上げて頂きました)。しかし、結果的に、国家行政サイドもマスコミも黙殺してしまいました。その結果、川崎のマンションは来月に竣工し、住民に引き渡されると言う事態に到りました。アパの物件も、半年も経つのに、取り壊しもせずに放置されています。私の職業上の経験からは、事件が風化した後に、工事を再開し販売するのではないかと推測できます。

 2)この耐震偽装事件は、以上述べたとおり、「隠蔽」が根源にあります。故に、「耐震偽装隠蔽事件」と呼ぶのが正しいと僕は思います。

 3)耐震偽装隠蔽事件が発生してから、因果関係は証明できませんが、複数の方が亡くなりました。よって、当社の社員の身の危険を案じていました。また、僕が四月下旬に逮捕された後は、追及することも出来なくなりました。

 4)八月三十一日に、最後まで残務整理に残ってくれていた社員が、ようやく再就職が決まりました。僕は一人になり、これを機に、僕は、この耐震偽装事件を総括するために、mixi上の日記サイトを利用して、記録をまとめ始めました。(イーホームズのHPは既に閉鎖して、僕が記録できる場所としては「mixi」が適当だろうとの友人から勧めがあったのです。この友人が誰か?との質問も多いのですが、仕事関係の友人です。きっこ氏ではありません)

 5)僕は保釈の身であり、判決が出るまで、瑣末なことでも再逮捕される可能性があります。例えば、駐車違反をするだけでも、違法だとして逮捕され、投獄される可能性があると言われました。だから、十月十八日の判決が出るまでは、公表できなかったのです。静かにしていることが、住民の命に関わる問題を、公表できる唯一の手段だと思いました。                      
 以上の理由で、結果的に遅れましたが、行政やマスコミに隠蔽されてきた、「国民の命に関わるリスク」という事実を、こうして衆目の一致するところに公表できました。それでも、遅れた点を責める方がいるなら、スタッフの責任ではなく私の責任であり、「どうか申し訳ありません。お許しください」との言葉を添えさせて頂きます。

 2.なぜ、「きっこのブログ」や、「きっこの日記」に情報を提供したのか
 僕は、日本のマスメディアには、この一年を通じて失望しました。真実を伝えることが出来ないメディアは無意味です。僕、が幾ら住民の命のリスクを訴えても、彼らは無視し、僕の語る言葉の揚げ足を取り、主観的な観点から、イーホームズのイメージを悪くしたり、僕が言い訳や泣き言を言っているような報道ばかりが行なわれました。一人一人の人間は善良な方だと思いますが、この事件を社会的に公表することに対して、政治的な圧力が背景にあり、彼らは屈したのです。

 よって、きっこさんが、ネット上で、お一人の力で、真実をお伝えしているその他の状況を見てきながら、去年の十二月十七日か十八日だったかに、僕は、僕の知る真実の経過を、きっこさんにお伝えしました。そして、きっこさんのサイトだけが、僕らが認識する真実の耐震偽装事件を、ありのままの形で社会に公表してくれたのです。これは、インターネットの世界を知る多くの方が証明してくれるはずです。

 以上の経過を背景に、先の十月十八日に司法クラブの公表に先立ち、きっこさんに同様の内容をお伝えしました。結果として、司法クラブの内容は、税金で賄われているにも関わらず、判決に対する感想などの一場面しか取り上げられずに、その他の僕が話した内容は黙殺されました。国民の命が危険に晒される原因を作った「国土交通省」や「財団法人日本建築センター」の責任や、アパや、読売新聞の渡辺恒雄などの不正を糾弾しました。しかし、記者の連中は、裏が取れないとか、アパの物件は既に六月に朝日新聞などが取り上げていて、ニュースバリューがないという言い訳を言うばかり。もっと重要な、今の日本には二百万棟を越す耐震偽装建築物が隠蔽されている可能性を何故公表しないのか、不思議でなりません。

 僕は、発言の全責任は僕が取るから、公表してほしいと思います。例えば、渡辺恒雄が指示したら、裏も取らずに、他人を落とし込む記事を平気で書いたり、ニュースを流す、そして、その責任を取りもしない、「読売」と言うメディアの存在は、この日本を堕落させています。僕は、国家だけでなく、こうしたマスコミの腐敗振りを一定の証拠を伴って本に書きました。

 耐震偽装事件を経験して、結果的に傷つかなかった者は、公務員とマスコミです。デベロッパーも、建設業者も、設計事務所も、指定機関も、住民も、近隣住民も、ホテルオーナーも、ホテル利用者も、騒動に翻弄された多くの国民の皆様も、傷ついたにも関わらず、耐震偽装をもたらした責任を有する「公務員」と、情報操作で、事態を混乱させたマスコミは一切傷ついていません。この事実だけでも、この日本は、表面的には穏やかですが、イラクや北朝鮮とレベルが同等の「法意識」を持った上層階級の人間が、市民の犠牲の上に禄を窃んでいると、断定できるではないでしょうか。

 3.アパや川崎の物件の「偽装」の信憑性について
 僕は、今年の二月に、技術的専門家の構造審査部のスタッフ(一級建築士、建築構造士、JSCA正会員、構造計算プログラム運用経験者、建築基準適合判定資格等の専門的資格及び経験を有するスタッフ)から、これらの物件の構造計算図書が、「偽装(改ざん、若しくは不整合)」されているという報告を得ました。僕自身は専門的技術者じゃないですから、今、残された最後のエビデンス(証拠、you tubeで僕が安倍総理に渡そうとして持っている青いパイプファイル)を、技術的に説明することは出来ません。スタッフが示した偽装箇所が明示されているだけです。

 これのどこが偽装されているかは、耐震偽装調査委員会の委員だった、東大の野城先生が一目瞭然に説明しきれるはずだと思いますから、技術的な見地から不明な点があるなら、是非、野城先生にお尋ねください。野城先生は、調査委員会の席上でも、イーホームズの審査体制が未整備だったと明言していましたから、さぞかし、簡単に明確に分りやすく、あっという間に、偽装箇所と、その意味や低減の効果を説明しきれるはずです。それにも関わらず、(私の推測では、「おそらく」)、野城先生が理解不能ということであれば、その場合には、私が尊敬する、東工大の和田教授にご教授をお求め下されば、和田先生は、構造設計の実務家としても立派で高い実績をお持ちになる研究者ですから、適確にご指導いただけると思います。
現在、僕が持っている最後のエビデンスは、TBSの報道部に預けてあります。TBSは内容を調査し(既に複数の調査の結果、イーホームズでは偽装を認識しています)、事実を公表されるはずですから、もし、TBSの方が内容の詳細な説明をお求めになるのなら、以上申しましたように、まずは、東大の野城先生にご教授をお求め下さい。

 いずれにしましても、私どもが、二月に偽装を指摘した、アパの物件は工事が四月二十五日に止まりました。工事を停止したのはこの四月二十五日です。六月七日に、国会で馬淵議員の質問に対して、山本繁太郎住宅局長は、「三月二十日に工事は停止したと聞いている」という内容の回答をされましたが、事実は四月二十五日です。このように、結果的に住民の命に関わるリスクを内在する、偽装マンションの工事がいつ停止したかの「裏」も取らずに、国土交通省住宅局長が堂々と国会で答弁を行なうのです。そして、山本繁太郎局長は、この言葉にきっと責任を持ちません。工事が本当に止まった、四月二十五日まで、例えば、アップルガーデン若葉駅前のマンションは総事業計画は200億円に到ると推計されます(605戸、平均価格3千万円に、付帯工事費を加算した概算)ので、三月二十日から四月二十五日までの両端を含めて三十七日。金利を2.5%としても年間5億円、37/365は、約5千万円です。
 この金額を、山本繁太郎氏は個人で負担できるのでしょうか?アパグループに、「申し訳ない、余計な工事予算を使わせてしまって」と謝罪するとともに、自分のポケットからアパに支払うのだろうか?僕ならそうします。それがプロというものだと教わってきました。山本繁太郎氏が、プロならば、自分の発言に責任を持たねばなりません。公務員だろうと民間だろうと、プロとはそういうもののはず。もし、責任が取れないのなら、辞めるべきだと僕は思います。無駄な税金は眼を研ぐことで幾らでも削れるのです。

 とにかく、もし、偽装でないなら、工事中の写真や施工図で即座に証明できるはずですから、工事を止める理由も、販売を休止する理由もありません。自分達が不正をしていない確信があるなら、プロならば工事は続行するし、当然に販売を続行されれば良いだけです。違いますでしょうか?例えば、新聞記者にしろ、雑誌の記者にしろ、あなた達が書いた内容のものを、真実と違うから公表をしないで下さいとのお願いをしても、公表するのではないでしょうか?100%、誰が見ても、嘘だとわかる記事であれば、流石に控えるでしょうが。私は、現実に工事が停止している事実を、そして、販売を休止した事実をもってしても、イーホームズの技術的専門家のスタッフが指摘したとおり、偽装の存在は事実だと確信を持って主張できます。

 4.ヒューザーもアパも本来は被害者。全責任は、国土交通省と財団法人日本建築センターにある
 そもそも、耐震偽装は、「底の空いた金庫」を作った、「大臣認定の構造計算プログラム」を評価/認定した、旧建設省住宅局建築指導課と財団法人日本建築センターに全責任はあります。プログラムソフト自体は、ユニオンシステム等のソフト開発メーカーが作成していますが、このソフトを利用して、構造計算書が作成され運用されるという、建築基準法における性能評価業務が定める「業務方法書」を、リスクの存在を深く追求検討することなく、評価してしまった財団法人日本建築センター、そしてそれを認定してしまった住宅局建築指導課がミス(過失)を行なったものと考えます。つまり、耐震偽装事件における全ての被害は、国家賠償法一条に定める、公務員の過失に基づく賠償責任を、国が果たすのが筋だと私は思います。

 平成十七年十一月十七日に、当時の佐藤信秋事務次官は、建築士法と建築基準法の確認検査制度上の法的根拠を示して、イーホームズと姉歯氏、四社の設計事務所等の実名を公表しました。同時に、指定確認検査機関が、「図書省略制度においてヘッダーの印字を見落とした単純なミス」などという、事実を知らない国民の方が聞いたなら、「そんな素人でも見つけられるミスで偽装を見落としたのか」と信じてしまうような「嘘」の発表を行ないました。図書省略制度は採用されていませんから、この発表は全くの「嘘」です。本来は、自分達、国家官僚が過去に行なった大臣認定制度のミスを、この単純な「嘘」で隠蔽したのです。私が、平成十七年十月二十六日に、国交省に耐震偽装の第一報を通知した時に、この事案は、「大臣認定制度のプログラムの認定制度にある」と指摘し、同時に、「履行者責任として、宅建業法(に基づくデベロッパー)と建設業法(に基づく施工業者)による責任」を所轄する国交省に伝えたのです。その後、十一月十七日の時間発表に到るまで、この認識は、調査に関わった人たちの共通の認識でした。残ったメール等で証明できます。(これは本に記録しました)

 それにも関わらず、佐藤事務次官の行なった発表は、一部の者に責任を擦り付けて隠蔽しようとした国家的犯罪の発言だと僕は思います。「公務員は全体の奉仕者であって、一部の者の奉仕者であってはならない」(憲法十四条第二項)のです。佐藤事務次官の発表は、ヒューザーや木村建設の名前を伏せて、つまり、一部の者の奉仕者として、設計事務所と指定機関の責任で総括しようと意図された「嘘」なのです。

 佐藤事務次官が、この「嘘」を言わなければ、森田設計士は自殺しなかったかもしれません。
 失われた命は、二度と戻らないのです。
 佐藤信秋氏は、参院選に出馬を準備しているようですが、このような不届き者が政治家になるような国が美しい国であるとは思えません。

 そして、問題の大臣認定プログラムを認定した、財団法人日本建築センターは国家公務員の天下り機関であり、未だに大きな利権を有しています。この理事長を務める立石真氏は、旧建設省住宅局局長であります。偽装マンション、(小嶋氏流に言わせるなら)、殺人マンションを生む原因を作った評価/認定を行なったこの者の責任は誰も問い質していません。誰も手が出せないのでしょうか。僕には不思議で堪りません

 平成設計と姉歯元設計士が関与した都内のホテル等の物件で、この日本建築センターが確認を行なったものがあります。建築センターが調査をしないので、との理由で、イーホームズが調査を行なったところ、当社に申請されていたものと同様に構造計算書が、「偽装」されていました。
 私は、この事実を、住宅局建築指導課の田中政幸課長補佐に伝えました。しかし、隠蔽されました。

 立石真理事長は、建築指導課の連中の大先輩です。 彼らは身内に不祥事を表に出しません。僕が、何故、日本建築センターの偽装を公表しないのですかと田中課長補佐に問い質したところ、「確かに、偽装はされていました。しかし、再計算を行なったところ、1.0を下回るどころか、1.0を大きくクリアしていたのです。
 だから、偽装はされていても、低減していないので公表しません」と言いました。こんな馬鹿な話があるのでしょうか。構造計算書が、他の物件と同様に偽装されていた、図面を見ると、鉄筋の本数も太さも柱のスパン等も同様な内容です。それなのに、再計算したら、日本建築センターの物件だけ1.0を上回る。そんなことがあるのでしょうか。

 最早、警察の捜査で資料は一切僕らの手元にはありません。既に、日本建築センターや、国交省は改ざんを修正した図面を用意しているでしょう。こうした隠蔽を隠す周到な準備は公務員に勝るものはいないと思います。
 明らかに、彼らは、公権力に基づく差別を行い、法を犯しています(「全ての国民は法の下に平等」憲法十三条)
 ヒューザーの小嶋社長を逮捕したのだから、彼ら公務員を逮捕しなければ、法の下の平等に反し、差別的扱いを行なっているものと弾劾できます。

 5.新耐震基準以降でさえも、日本には200万棟の偽装建築物の存在可能性がある
 平成十八年五月二十二日に、当時の北側国土交通大臣は、非姉歯物件の103物件をランダムサンプリングして、構造計算図書の偽装を調査したところ、15棟(14.5%)の改ざんを発見しました。一年間に日本で建つ建築物は約70-75万棟です。単純計算するなら、年間約10万5千棟。新耐震基準以降、平成元年から17年間だけでも、この日本には、二百万棟の建築物の構造計算書が偽装されていると推計できます。
 
 イーホームズは、住民の安全確保を最優先に、誠実に全棟調査を徹底的に行い、姉歯物件37棟、田村水落物件3棟、計40棟の偽装建築物を発見しました。これは、二百万棟に対して、0.002%です。つまり、この日本には、行政が確認を下ろした物件で199万9千棟以上の偽装建築物が存在している可能性があります。

 命の危険を最優先して、直ちに、全物件の再調査を行い、地震国日本だからこそ、他国に較べて安全重視の建築行政を実施していることを行なうべきです。官僚は、自分達が間違っても謝りません。僕は、歴代の建設省、国土交通省の大臣や、立石真氏、佐藤信秋氏、山本繁太郎住宅局長は、即座に土下座でもして謝るべきだと思います。悪いことをしても素直に謝れない子供が増えているのは、彼ら公務員が、自分達の過ちを認めずに、屁理屈を言って自分を正当化している、ずるい大人の姿を見ているからではないかと思う時が、多々あります。

 6.偽装の調査を行うことが経済回復を失速させるのか?(前武部幹事長の言葉に対して)
 経済効果より、「命」が大切だと僕は思います。隠蔽して、結果的に地震が来て、死ななくて良かった人命が失われたとき、親や兄弟や愛する人が死んだ時、どれほど嘆いていも、幾らお金を積んでも、失われた命は二度と戻りません。経済の問題より遥かに大きな問題ではないのでしょうか。武部幹事長は政治家として失格した発言を行なったと思います。

 また、僕がこの一年を通して体験してきただけでも、全く無駄な税金が使われています。無駄な政治家、無駄な記者クラブ、無駄な財団法人、本当にたくさんの無駄な税金使途があります。この無駄を排して、その代わりに、一斉に、安全で快適な建築物に変えてしまうことのほうが、安心できる快適な21世紀を生むのではないでしょうか。今、正にローンの二重払いに苦しんでいるマンション住民や、善意であった建築主の方などの救済にも繋がるし、その他の経済効果は、果てしなく大きいはずです。新潟や阪神の大震災で、今でも苦しんでいる方の救済に繋がるなら、役に立っていない政治家の人件費を削るだけでも、すぐに救済できるはずです。経済の乗数効果は想像を超えるはずです。地震国だからこそ、段階的に、計画を持って、八年程度の計画の中で、日本を美しく変える。経済効果も高く、無駄な税金を排して、自由闊達な日本を、世界にアピールできると僕は思います。

 7.最後に 隠蔽体質という闇の意味
 僕は、公務員が、そして、おそらく多くの国民が、理念を失った。若しくは、理念を忘れてしまった。ということが、「隠蔽」を生み、そして、それを見て見ぬ振りをする価値観に日本が到っている原因だと思います。
 そして、これを直すには、憲法の前文、「主権在民」の意識を、もう一度取り戻せばいいだけの話だと思います。間違ったら謝る。修正できることは直す。隠し通してはいけない。憲法の前文と、第三章の「国民の義務と権利」を今一度読み直してください。戦争のない平和な未来を築くために、皆で努力しましょう。闇に閉ざされた心に光を差し込ますことが出来るのは、今をともに生きる我々一人一人の、不断の努力をもってしか出来ないのです。今こそ、憲法の理念に照らされて、枝葉の法律、省令、条令、準則、指導要綱など、複雑に入り組んだ手続き規定に人生を浪費しないように、徹底的に見直すことが大切だと思います。

 ありがとう御座いました。

 以上

 イーホームズ株式会社
 代表取締役 藤田東吾

2006年 10月 24日

サーバー移行中

投稿者 by vulcan at 18:11 / カテゴリ: 駄文 / 0 コメント / 0 TrackBack

現在、ロリポップからチカッパにサーバー移行中です。

DNSサーバーが完全に書き換えられるまで、72時間かかるようで、完了予定は27日午前1時です。移行が確認でき次第全エントリを再構築してみて、不具合がないかどうか確認しますが、おかしな点が見つかりましたら、このエントリにコメントしていただけるとありがたく思います。

2006年 10月 22日

共謀罪法がカウントダウン?

投稿者 by vulcan at 23:39 / カテゴリ: / 6 コメント / 0 TrackBack

きっこの日記を見ていたら、またまた共謀罪法が強行採決されようとしていることを知りました。

自民が補選に2勝したことで、24日火曜日に共謀罪法が強硬採決される可能性がぐっと高まってきたようです。「もうこの国に正義はないのか」と憤りを感じます。あと二日もありませんが、共謀罪法だけは阻止すべく、傍観者に徹するのではなく、できることをやろうと思います。

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共謀罪が危ない!緊急に行動を

重大情報!共謀罪は10月24日法務委員会法案審議冒頭に強行採決か!?(海渡弁護士)

共謀罪の行方に関心を寄せるすべての方へ

                  海渡 雄一(弁護士)

 本日18日、日弁連主催の共謀罪反対集会が開催されました。私はパネルディスカッションのコーディネーターをつとめたのですが、次のような情報を総合すると、共謀罪は10月24日法務委員会の法案審議冒頭に強行採決される可能性が高いと結論づけるに至りました。

みなさん、直ちに、強行採決を許さないという声をあらゆるところから上げて下さい。
まだ、時間は残されています。

根拠1

民主党の平岡議員(法務委員会理事)が、今国会では自民党が法務委員会でどの法案を審議するか、順番を決めようとしない。順当に行けば、信託法から審議にはいるというのが普通だが、そのような話が一切ない。平岡議員は、与党は、共謀罪から審議すると通告するのは間違いないだろうと言われている。

根拠2

与党理事が平岡議員の来週月曜の行動予定をしつこく聞いていたと言うことである。


これは、月曜日23日に法務委員会理事会を開催して、24日の開催日程から強行してくるためである可能性があることを示している。

根拠3

採決予定を明らかにしないのは、22日の補選までは、強行採決の意図を隠し、市民の反発を避けて、補選での与党勝利の障害要因をなくしたいためだというのが、平岡議員の分析だ。

根拠4

政府与党がこれまで、強行採決に失敗してきたのは、事前のノーティスがあり、市民側がこれに反対する準備をすることができたためである。この経過に学んで、政府与党は事前の計画を徹底して隠し、逆に今国会の成立は困難という情報を流して、市民の油断を誘い、一気に準備不足のところを襲おうとしているのではないか。

根拠5

法務省と外務省のホームページでのこの間のなりふり構わない日弁連攻撃は、日弁連 の疑問にはホームページで既に応えたとして、国会審議を省略して強行採決を正当化 する口実づくりとも考えられる。日弁連は既にこのホームページにも反撃しているが、政府側は、 論理的な説明は不可能であろうから、問答無用の正面突破を図る可能性がある。

根拠6

政治力学的にも、もし、補選で与党が勝利した場合には、この瞬間をおいて、共謀罪の一気成立をはかるタイミングは考えられない。このときを外せば、次の参院選が焦点化し、また、条約起草過程の解明や世界各国の条約実施状況の問題など、与党側は追いつめられていく一方だ。

確かに、このシナリオには、弱点もある。このような乱暴なことをすれば、野党の反発を招き、国会が中断されてしまい、他の重要法案の審議に差し支える可能性があるという点である。

また、補選で与党が一敗でも喫するようなことがあれば、状況は変わるだろう。

しかし、今日の集会で、ジャーナリストの大谷さんが、今週末には予備選だけでなく、核実験もありうることを指摘し、二度目の核実験を背景に、安部政権による国内には北朝鮮の工作員が3万人もいるのだから、共謀罪は当然必要だ、不要だなんて言う奴は非国民だというムードが作られ、一気に共謀罪を成立させようとしてくる可能性があるという予言をされていた。

大谷さんは10月15日に予定されていたサンデープロジェクトの共謀罪特集が北朝鮮特集に飛ばされ、放映が11月に延期されたという事実も報告された。北朝鮮情勢は、補選にも共謀罪の行方にも大きな影を投げかけている。


とにかく、来週火曜日は最大の警戒警報で迎えなければならない。後で泣いても手遅れなのだから。


【ヤメ蚊】この最大の警戒警報を受け、一人でも多くの方が、与野党議員(特に自民党公明党議員)に対し、共謀罪を採決したら二度と投票しないという決意を伝えるよう切望しています。

上記は『Some Kind of Wonderful』で知りました。その後、きっこの日記にもあった『きくちゆみのブログとポッドキャスト』を見てみることにしました。きくちゆみは、911テロに関する取り上げ方について多少偏りすぎている印象がありますが、正義感の強さゆえだと思います。少なくとも、今回の共謀罪問題に関しては、きくちゆみを指示しますし、彼女のような正義感の強い人物が必要なときです。

共謀罪は10月24日法務委員会の法案審議冒頭に強行採決される可能性もあるとのことです。
万が一予測が外れたとしても、最大限の警戒をしておく必要があります。

共謀罪についていまいちピンときてない方は下記HPを参照ください。

■共謀罪(キョウボウザイ)ってなんだ?


後で後悔しても手遅れだから、打てる手はいま打っておきましょう。
少しの時間で結構です。未来のために、皆さんの現在の時間をメールやFAXアクションに少しだけ使って頂けませんか?
衆議院・法務委員会へのFAXが一番効果的です。

(衆議院 法務委員会名簿)

「共謀罪には反対します!」などの簡単な文面でOKです。
とにかく沢山の反対意思を示しましょう。

【追記】

私は、法務委員会にスパムメール、スパムFAXを発射することには反対の立場です。法務委員会には是非とも、自分自身の言葉で、何をどうして欲しいのかを良く考えた上で、申し上げるようにしてください。

なお、私は以下の文面を、法務委員会のメールアドレスが公開されている25名に対して、政党にかかわらず、メールで送付しました。10数名へのメール送付が終えたところで、以後、スパム扱いと認定されたのか、送信が拒絶されてしまい、やむなく別のメールアドレスから発信しました。

あて先に全メールアドレスを載せて一通だけを発信するのが潔くないと考えたことで、個別に発信したのですが、メールサーバーにスパムチェッカーが入っているサーバーをご利用の場合は、全宛先をセットして、各位宛で送信するのも止むを得ないのかもしれません。

『是非、正義のために一命を賭してください』

○○ ○○様

初めまして。千葉に住む吉村と申します。

共謀罪法が24日に強行採決されるとのうわさが立っております。

大日本帝国が明治9年に発した『廃刀令』によって武士の魂が廃せられました。以後、武士の魂は『文士』と呼ばれる方々に受け継がれましたが、現代のジャーナリズムを鑑みると、今や武士の魂、つまり、大和魂は風前の灯となっている感を否定できません。そのような折、『共謀罪法』は大和魂を完全に死滅させる悪法と考えております。

法務委員会の皆様方は、一体何故『共謀罪法』を審議しているのでしょうか。審議などする必要は微塵もなく、即座に退けるべき法案ではないでしょうか。この法案が可決されたとき、皆様方を含め我々の祖先が、どれほど嘆かれるか、思いを馳せてください。

日本が日本として自尊心のある国としての道を歩むために『大和魂』を大切にしてください。この法案を退けることこそ、現代の『大和魂』の具現化だと考えます。

是非とも、勇断を持って『共謀罪法』の審議を終結させ、廃案としてください。よろしくお願い申し上げます。

吉村 健

Vulcanの日記
http://vulcan.kodakara.com/

情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士『【転載熱望】共謀罪の行方に関心を寄せる全ての方へ送る海渡弁護士の解説~政府は国民をこうして騙す!』

法と常識の狭間で考えよう『共謀罪法案の審議入り=強行採決が迫っている

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2006年 10月 22日

『正法眼蔵』勉強会参加報告

投稿者 by vulcan at 06:22 / カテゴリ: 存在理由 / 6 コメント / 0 TrackBack

20日(金)、会社帰りに『正法眼蔵』の勉強会に参加しました。勉強会での流れは以下のようになっています。

『正法眼蔵』「現成公案」素読(10分)
   ↓
講師による解説(75分)
   ↓
質疑応答・雑談(15分)
   ↓
坐禅(座禅)(20分)

2時間の勉強会で、最後の20分は座禅ということで、座禅が初めての私には、多少なりとも緊張感を持って臨みました。

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本日のテーマは『遍参』でした。一般的な解釈としては「遍く諸方の知識に参じること。雲水の如く行脚して、尋師訪道すること。」のようですが、『遍参』が推奨されだすとたちまちにして、「新しい発見は外にこそある」とばかりに、真理や修行を外に求めがちとなる人間の浅薄な性向を戒めた訓戒でした。

どういうことかというと、「自分探し」と題して、世界各地を放浪してみたり、「天職を見つける」と称して、あちこち会社を変わってみたり、あるいは、「自己を向上させる」ために、いろいろなジャンルについて学ぼうとする人たちは、ちょっと立ち止まって考え直したほうがいいということです。

確かに、自分の狭い世界に閉じこもっていると「井の中の蛙 大海を知らず」となってしまいますので、外に教えを学ぶというのは大切なことですが、自分というものが何もない(何も確立されていない)のに外にばかり求めていても、学んでいるつもりでいるだけで、(肝心なことは)何も学べないでしょう。

そのため、まずは自己を確立するため、「一つに徹する」ということが大切です。どんなにつまらないと思っても、どんなに腹が立っても、我慢するのが大事です。「悔いが残らないようにする」というのが何よりも大切で、「我慢する」というのも、「悔いを残さない」ための我慢であれば、楽しむことさえできます。

そんなことを考えさせられた『遍参』でした。

『つらつら日暮らし』様の方で当日の様子がアップされています。写真を見ると、ちょっと新参者とは思えないようなリラックスした態度をしている私がいますが、雑談中ということで、言い訳させてください(笑)

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2006年 10月 21日

霊能者のひとりごと

投稿者 by vulcan at 03:48 / カテゴリ: 厳選リンク / 0 コメント / 1 TrackBack

霊能者のひとりごと

占いを本職としている霊能者の星様のブログです。霊能力があるかどうかは確認の仕様がありませんので保証できませんが、うそを言う人ではないことははっきりしています。”占い”、”霊能者”と言うと、いかにもいかがわしい響きがありますが、この方がそのような部類の方ではないことを、私が名誉に掛けて保証します。とはいえ、何もかも占いや霊能力に頼るというような、主体性の無い方は星様を疲弊させるだけなのでリンクを辿らないで下さい。「占いや霊能力など信じないが、後学のために知識は得ておきたい」という方は是非ご訪問ください。

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『霊能者のひとりごと』を一言で説明するとすれば、仏教を中心とした伝統宗教を、我々に分かる言葉で説明したサイトと言えると思います。霊能力は、単なる(といってしまうと星様に失礼かもしれませんが)ツールに過ぎません。プログラミング能力とか数ヶ国語を操る能力とか法律知識であるとか数学知識であるとか、そうしたツールと基本的に似たようなものだと思います。

重要なのはそれを用いて何をするかであり、星様が行なっている伝統宗教を仏教用語を多用しないで教えるというのは非常に優れた業績であると考えます。

また、仏教といっても、真言宗、浄土宗、浄土真宗、臨済宗、曹洞宗、天台宗、日蓮宗など様々な流派があるわけですが、僧侶の方ですと、どうしても自分の流派に偏ってしまいますが、星様の場合はどの流派にも大きく偏っておらず、この点も重要な要素です。これによって、各流派を公平に論じることができていると考えます。僧侶ではなく宗教学者であれば同様に公平な立場に立つのかもしれませんが、宗教学者がこれほどに平易な文章で宗教を説明しえるとはなかなか考えにくいと感じます。

霊界通信・脱新宗教

こちらは、星様が霊界通信という自動書記の記録のいくつかをアップしたサイトです。

各宗派の霊界通信を5個前後投稿しており、網羅性という点で非常に価値があると思います。特に、宗教ではありませんが、『古代ギリシャの霊界通信』は、最も素直に理解できる教えではないかと思います。

なお、『霊界通信・脱新宗教』で星様が伝えたかったこととして、『挨拶』のところで以下のように述べています。

 私がこのサイトを開設した目的は伝統的な仏教教団や神道、修験道の復興が一つの目的です。新興宗教の多くが伝統的な教団を葬式仏教や観光仏教などと批判したり、伝統的な教団は既にその使命を終えていると公言したりしています。

 私からするならば各地の名刹古刹には偉大な心霊がおられることが多く、また数多くの心霊が日々衆生救済のために働き続けておられます。そのことを一人でも多くの方々に知ってもらいたい、そんな気持ちを強く持っています。

 しかし、多くの方々は名刹や古刹に偉大な心霊がおられるのであるならば何故、世の中はこんなにも苦悩する人々が満ち溢れているのかとの疑問を持たれるのではないでしょうか。また私は一所懸命に祈願をしたのに何一つ助けてはもらえなかったと考える方も多いのではないでしょうか。

 そんな疑問を僧侶や神主の方に尋ねたとしてもどれだけの方がその疑問に答えてくださるでしょうか。恐らくは大半の方は曖昧な返事しかされないのではないかと思います。まして心霊現象などの話を持ち出そうものならば狂人扱いされるのではないでしょうか。

 では、仏教書の中にそれらの答えはあるのでしょうか。残念ながら専門書の中にはそれらの疑問に対する答えを見つけることはできませんでした。その疑問に明確な答えを用意している教団があるとするならばそれは新興宗教の教団でしかありません。

 私は霊能者ではあるとしても宗教家ではありません。そのため私は教えを説く立場にはないと考えていますが、心霊の言葉をお伝えすることはできます。そのため、在家の方が信仰を続けられる過程にて抱かれるであろう疑問や信仰の入り口に立つ在家の者にとって必要な心構えを中心に心霊にお尋ねしています。

なお、星様からもらったメールの中に以下の文章がありました。

二宮尊徳の「報徳記」に

慈悲のない経済は、悪である。
経済のない慈悲は、寝言である。

というのは、けだし名言であろう。

                   東海四十九薬師巡礼P176 より

宗教だけでは人は救えないですし、経済的に豊かになったとしても人は救われないのは、現代の世の中を眺め回せば容易に理解できると思います。

そこで、「物心ともに豊かとなる」ことが救いの道であるというところに行き着くのだろうと思いますが、物にせよ、心にせよ求め始めると際限がありません。如何に足るを知るか、つまり、如何にバランスを取るかがきわめて重要であると思います。

『霊能者のひとりごと』を知った経緯については、『つらつら日暮らし』のエントリーで述べておりますので、そちらをご参照いただければありがたく存じます。

2006年 10月 21日

5号館のつぶやき

投稿者 by vulcan at 03:19 / カテゴリ: / 6 コメント / 0 TrackBack

5号館のつぶやき

北海道大学大学院理学院にて聖職につかれている方のブログです。様々な時事ネタを誠実に取り上げられ、議論も活発に行なわれていますが、やはり大学関連の時事問題に対しては熱く語ってくれています。

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大学院では生物学を研究されているようで、私の会社がゲノムを研究していることから、なんとなく親近感を持ちます。

親近感といえば、『5号館のつぶやき』の管理人であるstochinai氏の勤務する北海道大学は、「少年よ、大志を抱け!」で有名な、あのウィリアム・S・クラーク博士が教頭(実質的には校長)として赴任した札幌農学校のことで、ここの二期生に新渡戸稲造がいます。クラーク博士の赴任期間は8ヶ月だったので直接面識はありませんでしたが、クラーク博士の感化を受けたことは、その後新渡戸稲造がキリスト教徒になったことにも表されています。

そして、新渡戸稲造といえば『武士道』で、私が最近やたらにはまっている書物です。『武士道』の原題は、”Bushido -The Soul of Japan”であり、つまり、『武士道(大和魂)』となるわけです。『武士道』、つまり『大和魂』に非常に興味を持った時期と時を同じくして、stochinai氏と知り合いになれたことは、感慨深いものがあります。

ところで、『5号館のつぶやき』を私が知った経緯は、『野良里蔵狸 -norakura-』の『さくらちゃんを救う会に募金は必要か?』をきっかけに、ネットサーフィンして辿り着きました。その辺のことは『死生観』にて記載していますのでご覧いただければありがたく存じます。

ところでstochinai氏は97年からつぶやいているようです(笑)

2005年1月31日以前のつぶやきが見たい方は過去ログをご覧下さい。

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2006年 10月 21日

つらつら日暮らし

投稿者 by vulcan at 01:54 / カテゴリ: / 25 コメント / 0 TrackBack

つらつら日暮らし

曹洞宗僧侶の方(tenjin95様)のブログです。極めて信頼の置けるサイトだと思います。聡明で且つ非常に厳しい管理人様であり、議論は活発に行なわれていますが、無責任な発言をさせない威圧が感じられます(笑)

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ブログは一日に4、5本投稿されるようで、それも毎日欠かさず投稿されますので、ついていくのはなかなか大変です。あまりにも膨大なログなので、読み始めた時点からでもキャッチアップしていくのでやっとですが、内容は非常に充実していますので、過去ログから学ぶことも非常に有意義です。その場合は、ブログ内リンクというとても親切なものが用意されておりますので活用してください。

つらつら日暮らしWiki

『つらつら日暮らし』管理人のtenjin95様による仏教系用語集サイトです。Wikiということで意欲と知識のある方には編集権限が与えられるようですが、私などは意欲は別として知識がないのでとても無理です。何においてもうまく活用するのが私の本分と考えておりますので、こちらのサイトも活用させていただこうと考えております。

なお、tenjin95様とはフレパ仲間ということになりました。というのも、tenjin95様を追いかけて私がフレパに入ったからです。

フレパとはミクシィのようなSNSのことで(といって私はミクシィには入っていませんが)、ネットの社交場のようなものですが、あまり有意義な社交はない、というか、ほとんど皆無です。ですからわざわざフレパに入ることもありませんが、tenjin95様とお近づきになりたければ入るのも一つの手です。

SNSについては『ARTIFACT―人工事実―』の『mixiは毎日年賀状をやりとりするようなものだから疲れる-コミュニケーションコストが高いツールで複数の人と雑談を毎日する苦労-』が真理をついているかもしれません(特にミクシィ)。

さて、ここで、tenjin95様の『つらつら日暮らし』を知った経緯を述べておきたいと思います。

以前、RSSでチェックしていた『らくちんランプ』のタイトル「ユナイテッド93」は、史上最低の「捏造プロパガンダ映画」だ!が気になり見に行ってみたところ、ベンジャミン・フルフォードの著書の存在を知りました。また、そのコメントから『ヒロさん日記』に辿り着きました。その後、ベンジャミン・フルフォードの著書『9.11テロ捏造・日本と世界を騙し続ける独裁国家アメリカ』を読み、驚天動地の内容に言葉を失ったのを強く覚えています。

ベンジャミン・フルフォードについては、多少偏りがあるように感じましたが、『ヒロさん日記』については、非常に客観性に優れた印象を受け、信頼できる人物だと判断しましたので、ヒロ様のリンク集『心の支え40サイト』も信頼を置いてよいだろうと考えました。

そして、40サイトの中で、一番気になったのが『霊能者のひとりごと』です。普段であれば、”霊能者”という言葉に対する偏見から、絶対に見に行かないし、見に行ったとしても素直に内容を読むことができなかったと思います。しかしながら、一方で”霊能力”を持つとされる人物が何を言うのか興味が無いと言えばうそになります。そういうわけで、ヒロ様の推奨する『霊能者のひとりごと』とはどのようなサイトなのか非常に気になったわけです。

『霊能者のひとりごと』に行ってみて、ログを読んでみると、要するに仏教を中心とした伝統宗教の教えを分かりやすい言葉で説明しているサイトであることが分かりました。そこに、霊能力を駆使して行なったかどうかはさほど重要ではなく、教えが本物であること、伝統宗教を仏教用語を駆使して分かりにくく説明するのではなく、我々の言葉で分かりやすく説明しているところに大変意義があると思います。

そんなわけで『霊能者のひとりごと』の管理人である星様とメールをやり取りする仲になれました。その後、星様が別サイト『霊界通信・脱新宗教』をも運営されていることを知り、そこの中でtenjin95様のコメントがあり、それによって『つらつら日暮らし』を知ったわけです。

ちょっと経緯が長くなりすぎてしまいました。要約しますと、「らくちんランプ→ヒロさん日記→霊能者のひとりごと→霊界通信・脱新宗教→つらつら日暮らし」と辿っていったわけです。そんなわけで、非常に偶然の結果『つらつら日暮らし』を知り、tenjin95様とも懇意にしていただけるようになった今、「縁というのは不思議なものだ」と心から思います。

なお、2006年10月現在、『ヒロさん日記』の心の支え40サイトから『霊能者のひとりごと』は外れています。したがって、8月に私が上記のルートを辿ったのでなければ、もしかすると星様に知り合うこともtenjin95様に知り合うことも無かったかもしれません。そう思うとますます縁の不思議を感じてしまいます。

2006年 10月 21日

漢方の温心堂薬局

投稿者 by vulcan at 01:36 / カテゴリ: 厳選リンク / 0 コメント / 0 TrackBack

漢方の温心堂薬局

詳しいのは漢方だけではありません。アロマテラピー、ホメオパシー等の代替医療に関心のある方は(ない方も)一読の価値があります。プルサーマル計画に関する『危険な話の終焉を祈って...』は是非お読みください。

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私が温心堂を知ったのは、妻がホメオパシーに関心を示したからで、「ホメオパシーって何?」という状況でしたから、ネットでいろいろ検索し、そうこうしているうちに辿り着きました。

サイトは非常にボリュームがありますので、まずはサイトマップでどこを見ようかと当たりをつけることをお勧めします。

漢方に関する知識はかなりのものをお持ちであり、以下の文章でそれは分かると思います。

漢方雑感

漢方に取り組んだのは、薬学を卒業後数年たってからでした。生薬学の講義は苦手で、更に漢方など興味さえ湧かなかったのですが、たまたま天職?を求め東京に出かけ、なかなか職も見つからずオロオロしてるとき、漢方煎じ薬専門の薬局に拾われました。「漢方の知識があれば損はないよ。」と言う事だったけど、いつのまにか20余年が経ち、今やライフワークとなってしまいました。漢方に対する思い入れは幾分減退していて、これで食べていくしかない、といふ諦観でやっている面もあります。

はじめた頃は漢方で治らないものはないと、錯覚するほど熱中したものです。しかし読書を重ね講演会や勉強会に出席し、漢方相談をこなすうちに、どうやら漢方の守備範囲はそれほど広くはないのじゃないか、と考えるようになりました。症状から病態を捉え病機を分析し弁証論治すると、あらゆる病態に対応できる処方は可能です。それを守備範囲とするなら確かに広い。しかしどれだけの病が治るのか...と問われたら、自信はなく、治らない病気も多くあります。西洋医学や他の代替医療、補完医療との組み合わせで、治癒率を高める事は出来るもののそれを以ってしても治らない病気は多い。治らない病気の一つに老化があります。

(後略)

また、佐賀のプルサーマル計画に対する温心堂主人の憤りには心打たれるものがあります。

危険な話の終焉を祈って(1)

危険な話の終焉を祈って(2)

危険な話の終焉を祈って(3)

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2006年 10月 20日

藤田東吾の大和魂

投稿者 by vulcan at 15:16 / カテゴリ: 雑感 / 0 コメント / 1 TrackBack
かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂

上記は吉田松陰が投獄の折に詠んだものですが、今の日本において、藤田東吾こそ大和魂の塊ではないでしょうか。彼の言っている事実関係・論理性・重要性等を、どうのこうのと議論する前に、彼の正義感の大きさに対して、日本人であれば真っ先に畏敬の年を覚えるのが当然ではないでしょうか。

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「安倍総理殿、国家に巣食う者を弾劾致します」

平成18年10月20日

安倍晋三総理大臣、長勢甚遠法務大臣、但木敬一検事総長、東京地検の皆様、そして、官僚、政治家、マスコミ、関係業者、そして国民の皆様

イーホームズ株式会社
代表取締役 藤田東吾
 
 安倍総理大臣に置かれましては、日頃ご公務ご多忙の中、本日の、私からの通報を受け付けて下さり、誠に有難う御座います。深く感謝の意を申し上げます。

 私は、今日の午前中、川崎市内のマンション(エグゼプリュート大師駅前)と、設計事務所のアトラス設計の、二つを訪ねて来ました。何れにおいても、この度の「耐震偽装隠蔽事件」を解き明かす上で、とても重要な証拠となるからです。
 私が解き明かしたいものは、一部の官僚と政治家が、国民の命と財産を軽視して、癒着業者とともに利権を死守しようと、違法行為を犯したり、または少数の弱者をスケープゴートに見立てて、不正を隠蔽するという国家体質を暴きたいのです。そして、この体質を日本から除却しなければ、子供達の為に明るい未来はないと信じているからです。
 よって、私は、以下の事実を記者クラブや国土交通省に隠蔽されないように、直接、安倍総理大臣にお渡し、事件の解明と住民の安全確保を早急かつ遺漏なき対応をお取り頂きますようにお願い申し上げます。

 まず、エグゼプリュート大師駅前は、建築確認の構造計算図書が偽装(改ざん、若しくは不整合)されていました。ところが、中間検査の直前の二日前に、計画変更が川崎市において下ろされました。しかし、工事は建築確認の図面のまま進行したものと考えるのが当然であり、計画変更によって偽装マンションが隠蔽された可能性が99%以上はあるものと考えられます。

 この偽装マンションを生み出したのは、たとえ藤光建設サイドからの圧力があったにせよ、川崎市と国家であります。
 一方、国家は、ヒューザーの小嶋氏を、グランドステージ藤沢のマンションに偽装があるのを認識していながら、お客様に引き渡したとして、詐欺罪で逮捕しました。小嶋氏は、引渡し直前の、平成17年10月下旬の段階で偽装を認識したと思われますが、この時点では既に完了検査も終了していました。
 であれば、このエグゼプリュート大師駅前は、中間検査を1月末に行った時に、構造計算書の偽装が、川崎市によって隠蔽されたわけです。販売案内のHP(下記参照)を見ると、来月11月の竣工で、翌12月に入居予定となっています。つまり、販売は大方終了し、購入者は引越しの準備をし、新居に入る段取りや買い物を楽しみに進めているはずです。

 私は、川崎市と国交省建築指導課の罪は、建築行政を行なう者自らが隠蔽したとして、小嶋氏より遥かに大きいと思います。イーホームズでは、2月に構造計算書の偽装を認識し、川崎市と国家に通報しています。しかし、隠蔽されてしまいました。強制捜査と私の逮捕で追求も出来なくなりました。

 現段階でも、非破壊検査を、国家が関与しない公正中立な第三者機関等に徹底的に行なわせるべきです。99%以上の確率で偽装マンションのはずです。この偽装を生み出したのは、川崎市と国家官僚です。彼ら公務員が偽装マンション(小嶋氏流に言わせるなら、殺人マンション)を、生み出したのです。法の衡平を重視するなら、小嶋氏を逮捕した以上は、川崎市の倉形課長、国土交通省の当時の北側一雄大臣、佐藤信秋事務次官、山本繁太郎住宅局長、小川富吉建築指導課長、田中政幸課長補佐、高見企画調査官も同じく逮捕するべきです。この者達は、小嶋氏より、建築行政のプロとしての立場からも、遥かに悪質です。そして陰湿です。

 因みに、イーホームズでは、1月24日に行なわれた本件計画変更の内容については不知です。また、今の段階で状況がどうなっているかは同じく不知です。よって、今日、私は現場に行って参りました。現場は既に竣工間近です。既に、総戸数42戸の内、30戸以上の成約になっているとのことです。また完売も間もないとのことです。

もし、このまま誰もが見てみぬ振りしたら、ここにもうすぐ住む住民の方は、国家と川崎市によって耐震強度の偽装が隠蔽されたことを知らずに、一戸当たり平均3名の家族として、136名の命が危険に晒されながら住み続け、そして、ローンを払い続けて行きます。安倍総理、果たして、このような犯罪を許してよいのでしょうか。
 10月18日に、私が語った司法クラブでの発言を、99%のマスコミは黙殺しました。まさか、この事実も黙殺してしまうのでしょうか。許してよいとはとても思えません。

私は、イーホームズの代表者として、一国民として、国家に巣食う者を弾劾します。安倍総理大臣お力を発揮してください。日本のマスコミには期待できません。とは言え、私一人の力では及びません。どうか、日本の皆様も、力をお貸し下さい。お願い致します。

 そして、事実を明確にし、検事総長や、東京地検が、これらの役人を犯罪者として逮捕できないなら、小嶋進さんは無罪放免として即刻に釈放するべきです。そして、「秋霜烈日」のバッジを外して検事を辞職し、司法の職から離れるべきです。総理大臣も、法務大臣も、自らの責務を果せないなら政界から去るべきです。道徳的に不適合者です。

 また、同時に、株式会社田村水落が関与した全ての建築物について、即座に再計算及び非破壊検査を実施して、住民や利用者の命の安全確保を果すべきです。そこには、アパグループが関与した多くの物件が含まれています。

 次に、渋谷区代々木のアトラス設計に関する調査を行って参りました。ご存知の通り、渡辺朋幸氏が代表を務める設計事務所です。何故、調査を行ったかと言うと、渡辺朋幸氏が建築士の免許を持たない無資格者でありながら、名義を借りて設計事務所を経営し設計業務を行っているとの、確度の高い情報を得たからです。私は驚きました。今回の耐震偽装事件に関連して、姉歯元一級建築士が建築デザイナーの秋葉氏に建築士免許の名義を貸与したことで、姉歯氏も、秋葉氏も逮捕されました。皆さんご存知の通りです。

現在、アトラス設計の渡辺朋幸氏は、平成17年10月にイーホームズに姉歯氏が行なった構造計算書の偽装を指摘したと評価され、耐震偽装景気に便乗して、マンション販売講習会等で構造設計の講演をやっているなどと聞きました。しかし、一級建築士も持たず、建築構造士でもなく、JSCA会員でもないなら、分不相応といわざるを得ません。また、秋葉氏と同じく、名義借りによって逮捕されなければ不公平となります。
 よって、渡辺朋幸氏が本当に無資格なのかを確認するために、東京都や、建築士会、そしてアトラス設計の調査を行なってきたのです。この結果、与えられた情報どおり、無資格者でした。ある一級建築士の名義を借りて、アトラス設計事務所を運営していました。至極かつ誠に残念ながら、秋葉氏と同様に逮捕されなければなりません。
 もし、逮捕しないのなら、その差別的扱いを正当化する理由を、法の衡平性の観点から、但木検事総長は明確に国民に対して説明する義務があります。

 東京地検の皆様には、改めて、胸に付けた「秋霜烈日」のバッジの意味を思い起こし、あなた達が、法を司るものとして自らが正しい者であるのか否かを明らかにしてください。もし、明らかに出来ないのなら、バッジを外して、司法の世界から去るべきです。

 尚、川崎市のマンションと、アトラス渡辺については、詳細データを以下に掲げます。

1.(仮称)エグゼプリュート大師駅前
建築場所 川崎市川崎区大師駅前2丁目12番34号
     RC構造、地上15階建て、延べ床面積3,461?u
建築主(デベロッパー) 株式会社伸明ハウジング 代表取締役 山崎伸
        藤光建設株式会社 代表取締役 佐藤雅彦
設計者 藤光建設株式会社一級建築士事務所 橋本清
構造設計 株式会社田村水落設計 代表取締役 水落光男
川崎市まちづくり局指導部建築審査課長 倉形紳一郎 044-200-3019
国土交通省住宅局建築指導課 03-5253-8111(代表)
山本繁太郎住宅局長、小川富吉建築指導課長、田中政幸課長補佐、高見企画調査官

(1)確認済証番号 eHo.05.A-01003000-01号 (平成17年8月12日)

(2)計画変更:確認済証番号 eHo.05.A-01003000V-01号 (平成17年11月2日)
この11月2日の計画変更は、杭の変更(現場造成杭から規制杭への変更)である。工事は10月17日に着手しており、杭の変更以外の建築計画は、当然に、(1)の確認図面通り進行しているものと考えるのが常識である。

(3)現場の中間検査は平成18年1月26日に川崎市が行った。合格としている。
 しかし、この直前の2日前、平成18年1月24日に、再び、計画変更図面が川崎市に対して申請され、この計画変更の確認は同日付で川崎市が下ろしている。この規模の、中間検査とは、建物の2階部分の構造躯体までが終了した時点で行われる。よって、2日前に計画変更された図面が、現実の工事に反映されているとはまずもって考えられない。素人でも分かることです。
 
 イーホームズでは、2月において、上記建築計画の構造計算図書に偽装を認識しました。この通報を川崎市に行ないましたが、計画変更で処理したとして、それ以上の調査も追及もしませんでした。国に通報しても、関知しない、特定行政庁との間で処理してくれと言われました。田村水落が関与した多くの物件の再調査を行なうように、田中政幸課長補佐に電話で僕から話しましたが、国は動きませんでした。結果的に、構造計算が偽装されたままのマンションが、今では完成間近に到ってしまいました。被害を発生させ、拡大させてしまったわけです。

2.アトラスの渡辺朋幸の名義借り状況
住所 東京都渋谷区富ヶ谷1-9-19 2階
社名 有限会社アトラス設計 代表取締役 渡辺朋幸 03-5465-1137
   一級建築士事務所登録 管理一級建築士氏名 小林昭代(名義貸与人)

以上

らくちんらんぷ『藤田東吾社長の決意表明

2006年 10月 20日

危険な話の終焉を祈って(3)

投稿者 by vulcan at 00:24 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

三たび、温心堂主人による『危険な話の終焉を祈って』から引用します。

think-Pu.net-考えよう、プルサーマル・プルトニウム

危険な話の終焉を祈って(1)

危険な話の終焉を祈って(2)

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原発は「トイレのないマンション」とも言われ、その廃棄物の処理や管理に危険と困難と多額の費用を要する。それでも克服されることのないのが核物質である。原発に一歩踏み出したときからこのことが運命付けられたのだ。

この計画がしたたかに生き延びていくのは、広島型原爆3万発分ともいわれる核廃棄物の処理のためでもある。先に述べたように原発が稼働する限り廃棄物の発生は避けられず、原発を止めても残った廃棄物の処分と管理が待っている。原発を巡り巨額な金が動くと利権も生まれ、そのことが止められないもう一つの理由かも知れない。

公共事業に見られる構図は定着し、政治や行政、国策といわれるものの不透明さが透明に浮かび上がる。既に述べたように原発は再処理、廃棄物対策といった一連の経費とともに、税金による地域振興策がセットになっている。こういうことでしか国の政策や経済の存続が出来なくなってしまったことは私たち皆が受け入れなくてはならない。政治への不満や希望は熱く語るものの、いざ選挙では馴れ合いの一票を投じる。この行動が積もり積もった結果ではないか。

3/23日、ついに議会までもが知事の同意を容認し、「プルサーマル計画を慎重に推進」という決議が34:3(退席2)で採択された。知らないうちに、知らせないうちに、知らせたら困ることが進行していく。公には県民の意見を...と言いながら、もっとも大事なことは強権を発動する。すでに、2/21日地元の町長は、路線どうりの行動か、と思わせるほどあっさり同意を表明した。「国がやることだから間違いないでしょう...」と、町の人の声をテレビが伝える。

事故が起これば町は壊滅し、それだけでは済まない。この計画に熟慮が必要だろうか。やめることで得られる未来の保障をなぜ目指さないのか。こんなことに金を使うくらいなら新幹線や干拓や高速道路に注ぎ込むほうがはるかによい。

自分たち役人がババを引かないように、現実を直視せず、問題を塩漬け、先送りにし、責任を回避しあい、身内をかばいあう姿が目に浮かびます。

添加物、農薬、ダイオキシン、環境ホルモン、狂牛病、、、危険な話は後を絶たないが、個人の努力で回避可能なものはまだ救いがある。

核は人類の存続に深刻な問題を投げかける。兵器はもちろんだが、原発によって生み出された世界中の核物質が人類の終焉を決するかも知れない。

就任後間もない頃のある休日、人通りの少ない歩道を歩るく知事を見かけた。多分、愛娘であったに違いない。子供の手をとり、買い物の袋を下げた姿に親近感を覚えた。この平和な光景と、いまに至っての決断との乖離に茫然としている。世界の人々や子供の未来を考えた上での同意だったのか。

「技術や費用、電力需要の問題で実現は困難だろう」という学者や識者の話もあるが、そこに行き着くまでの安全に不安があり、見切り発進も懸念される。政治に対する無力感...「どうせ世の中こんなもの」と悟っても、諦めに徹することはできない。なにか私にできることはないだろうか、神よ知恵を与えたまえ。

温心堂主人の決意のほどがよく分かります。とにかく温心堂主人の役に立ちたいというのが私の希望です。以下、追記部分を連続して引用します。

【追記.1】

3/24日、この草稿を書き上げた日に北陸電力志賀原子力発電所2号機(石川県志賀町)をめぐって一つの判決が下った。今月15日に営業運転を開始したばかりの2号機だが、大規模な地震などの自然災害が懸念されるなか、電力会社の想定を超える地震があれば、いまの耐震設計では事故が起こり、被曝する具体的可能性があるとして運転の差し止めが命じられた。

夕方のテレビで歓喜に沸く原告の人々に心から拍手を送った。一方、地元町長は憮然として「意外な判決だ..」といい、電力会社は「予想外、不当判決..」などのコメントとともに直ちに控訴を表明した。危険を指摘されながらも運転をやめるつもりはないらしい。

結審までいったい何年を要するのか、最高裁の判断が出ても不当判決と言い続け居直るのが通例である。災害は明日にでも起ころうというのに恐ろしい話だ。この間、電力会社や国はどのような対策、作戦を巡らすのかその心配もある。

原発を受け入れた地元にはこれまでに約177億円もの交付金が支払われ、小中学校は改修され、道路整備も進んだという。のみ込んだものを吐き出すわけにもいかぬ町の苦悩はわかるが、命の値段は金には代えられない。

願わくはこの判決が神風となり、佐賀のプルサーマル計画が頓挫すればいいのだが。佐賀でも判決は大きく取り上げられ、テレビで地元町長と知事のコメントが流れた。町長は「意外な判決だが、安全は確保されなければならない」といい、知事は「国の意向をお伺いして...」という。

【追記.2】

3/26日、ここ数日の動きはめざましく、大きな出来事が続いた。まさに間髪を容れずに事が進行する。周到に計画されたタイムテーブルに沿ったものであろう。

この日は休日ともあって、県内各地で春の行事が催され桜も見頃を迎えた。朝9時から午後3時までの6時間の間に県や国の命運を左右することが行われた。知事はついにプルサーマル計画に正式に同意したのだ。国から大臣を迎えて原発を視察→安全宣言→会議→県庁で電力会社へ同意書を手渡し→記者会見。

結果は解っていたが、テレビ、ラジオを傍らに置き固唾をのみ見守った。まさに分刻みのスケージュールで6時間。反対派の市民団体は抗議を続け、署名を手渡そうとするが職員に阻止され知事には届かない。涙ながらに訴える女性の姿が痛々しく、従来の反原発には見られない危機感がつのっている。この日の出来事は夜のニュースのトップで伝えられる。そして翌日も、同じようにトップで扱われ佐賀新聞では数面を割いて記事が載せられた。

ここに来て、やっと県民は「プルサーマルとは何ぞや?」と気づき始めたのではないか。未来を担う子供達は知らないし、大人でも事の本質を知る人は少ない。「放射能は危険だが管理をすれば大丈夫」というていどで、当局の流す情報以上のものを得た人は少ない。

県境で事故が遮られるわけではなく、直ちに影響を被るであろう福岡、長崎の人々の関心はいかばかりであろう。このような人々の上にある日突然、死の灰が降り注ぐ。そのときどのような覚悟が出来るというのだ。

国や電力会社も安全や事故防止ということを最重要課題としている以上、危険の認識は十分あるものと思われる。反対派も同じ認識なのだ。同じ認識で何故、相反する行動に分かれるのだ。危険という共通の認識から、知恵を出し合い新たなエネルギーの模索は出来ないのだろうか。新聞には、「反対している人々に何度説明しても同じだ」という知事のコメントが載った。

【追記.3】

3/28日、追記.2までと思っていると、三たび原発についての大きな動きがある。異様に動きの激しい一週間である。

四国電力が伊方原発3号機(愛媛県伊方町、出力89万kw)で導入を目指しているプルサーマル計画の実施を経済産業省が許可した。これでプルサーマルの実施許可は、関西、東京、九州電力の計5基に続き、6基目となった。これから運転開始に向けて地元の同意を求める手続きに入るだろう。

このままいけば、佐賀と同様の経過が予想され、さらに電気事業連合会の計画では2010年度までに全国で16~18基のプルサーマル導入を目指しているという。佐賀、愛媛より早く許可が降りた関西電力の高浜3・4号機と、東京電力の福島第一3号機、柏崎刈羽3号機は、燃料のデータ改竄やトラブル隠しといった不祥事や事故などで、地元同意が白紙または凍結となっている。

国と業界の計画がここまで驀進すると、私が抱いている危機意識そのものが滑稽に思えてくる。一人の力は取るに足りないとして、幾万の署名を集めても権力を持つ一人にはかなわない。最近の政治や社会の動きは性急で強引だ。

我が国は一体どうなってしまったのでしょうか。世界の原発実験場と化そうとしているというのでしょうか。

【追記.4】

3/28日、まったくなんということだ。青森県六ヶ所村の再処理施設が稼働を始めることになった。ネットで見た地方版では「課題残し見切り発車・核燃再処理試運転同意」という見出しで...知事が試運転開始に同意を表明し、29日にも調印し、試験は31日にも開始されるという。国内初の商業用再処理施設として2007年8月の操業を目指し未知の領域に踏み込むことになった。

ウランの燃焼で生じる危険なプルトニウムの処理のため、それを集め再利用するというのがプルサーマル計画である。このための処理を六ヶ所村で行うことになる。再処理はプルサーマル以上に安全性に問題があるといわれている。約1万基の機器と総延長約1300kmの配管を持つ施設でわずかな不具合も許されない。その上、処理のどの工程に於いても事故発生の危険性が指摘されている。

もし、六ヶ所村の工場でフル操業時に臨界爆発が起これば、地球の半分の生命が無くなるほど巨大なものであるという。これほどまでに危険を冒し再処理した燃料を燃やしても、再びプルトニウムが発生する。原発の運転が続く限り、いつまでもプルトニウムを含む放射性廃棄物は無くならない。

技術や費用の問題などから、核保有国のアメリカでさえ再処理を断念している。また廃棄物の最終処分場はいまだ決まらず結果的に六ヶ所村で保管をすることになるだろう。

地層処分の計画もあるが、地震列島の日本で実現が可能かどうか疑わしい。再処理工場が稼働することで施設から高レベルの汚染物が発生し、使用済み核燃料に溜まった放射性物質やガスが一定量放出されるため、環境への影響も避けられない。

安全協定の締結が申し入れられるというが、実質的な安全は確保されず、ただの約束に過ぎない。仮にこの計画が頓挫したとしても、施設の解体や放射性廃棄物の管理に要する費用(バックエンド)も莫大なものになり、進むも泥沼、退くも泥沼の状況だ。税金が上がるはずである。

3日前まで...佐賀県がプルサーマル計画に同意すれば青森の再処理施設の稼働が始まるとして、青森の市民団体も反対運動に参加していた。エネルギー問題は人類の生存のために必要不可欠のものである。

確かに反原発の人々も電気を使っている。「イヤなら電気を使うな」という乱暴な議論もあるが、そのエネルギーが生存を脅かすならそれはもはやエネルギーとはいえないのではないか。私はこの同意で茫然鬱々となる。

しかし、青森に迫り来る事の重大さと緊急性は佐賀の比ではない。事故が起これば遠く北国の出来事では済まず日本各地や近隣諸国への影響は必至である。新聞に記された青森県幹部のコメントは「やっとここまで来た、年度末で区切りもいい」とのこと。何回読み返しても喜んでいるように見える。

NPO・原子力情報室の談話は「再処理工場の運転で結局、青森県が困ることを知事や県幹部が自覚していないことが悲劇だ」と...もし、取り返しのつかない事故が起こった時、この一週間の出来事が走馬灯のように蘇るであろう。臥薪嘗胆、次の選挙ではこのことを忘れない。

【追記.5】

3/30日、佐賀新聞は、九州電力玄海原発のプルサーマル計画に県が同意したことで、総額60億円の「核燃料サイクル交付金」が県に給付されることを一面で伝えた。同意から4日目である。

地域振興として原発を誘致することで数日のうちに巨額な金を手にする。交付金は県に支給されるため、地元の玄海町や唐津市が分配を要請しているという。言い換えるなら「オレにも分け前をよこせ」ということに他ならない。

真っ先に迷惑を被る唐津では農漁業者や観光業者を中心に反対運動が続いている。住民を馬鹿とでも思っているのか、政治家や役人のこの軽さに虫酸が走る。新聞記事は「交付金をあてにして事前了解があるわけではない」という知事のコメントで結ばれていた。

噂によると唐津地区では核廃棄物の最終処分場を誘致する計画まであるといわれる。危険と引き換えに得た金で地域の人々が幸福になれるとは思えない。得たものの代償は、後に大きなツケとして負わねばならない。そのための交付金ではないか。

「危険な話」が出版された1987年以降、大きな事故はなかったが、あわや大事故につながりかねない数々の事故は起こった。その都度、「このようなことが二度と起こらないように万全の...」と判で押したような会見が開かれ、再び、三たび..と起こっている。「万全の安全対策..」という人々と、「危険な話」とどちらに分があるだろうか。

【追記.6】

4/12日、再処理はプルサーマル以上に困難と危険を伴うといわれているが、早速、事故が発生した。

日本原燃は12日、試運転(アクティブ試験)中の青森県六ケ所村の使用済み核燃料再処理工場内にある前処理建屋の小部屋内で、プルトニウムなどの放射性物質を含む水、約40リットルが、11日未明に漏れたと発表した。

原燃によると、小部屋は厚いコンクリートで密閉されているため外部への放射線の影響はないという。3/31日の試運転開始以来、初のトラブルになるが、原因は作業員のミスだという。報告が一日以上も遅れた理由として「軽度な漏洩だったから..」と説明している。

軽度な事故が次の大きな事故に結びつくことはしばしばあるし、軽度という判断は今だから言える話に過ぎない。仮に大きな事故が発生した場合、一日はおろか一分の遅れさえ大惨事につながる。大事故が起こっても1日後に報告するのだろうか、そのときは報告する人も、報告を聞く人も、この国も惨憺たる終末を迎えていることだろう。

グリーンピースJAPANの情報では、六ヶ所村の工場では通常の運転でも大量の放射能を排出し、その量は1日で平均的な原子力発電所からの1年間分を超えるという。フランスのラアーグ再処理工場周辺では、小児白血病の発症率がフランス平均の約3倍にのぼるという報告がある。

日本原燃は、再処理工場周辺の健康被害について「ご安心ください。最良の技術で安全確保に努めます」と宣伝しているが、クリプトン85、炭素14、トリチウムは処理技術があるにもかかわらず、その全量を放出するとしている。

驚くべきことに経済的理由で意図的に垂れ流し、大気と海水で薄めようというのだ。実際に巨大な排気筒からは、クリプトンをはじめとしてトリチウム、ヨウ素、炭素などの気体状放射能が大気中に放出され、六ヶ所村沖合3kmの海洋放出管の放出口からは、トリチウム、ヨウ素、コバルト、ストロンチウム、セシウム、プルトニウムなど、あらゆる種類の放射能が廃液に混ざって海に捨てられる。

安全広告と毒物をセットにして垂れ流す神経は尋常ではない。電力を原発に依存するかぎり、直ちに停止出来ないと言うが、2003年、東京電力の事故隠しを端に、点検のため17基の原子炉を一斉に停止する事態に及んだ。大停電が懸念されたが、その夏、節電の啓蒙が行き届いたこともあり何事も起こらなかった。原発がなくても大丈夫という思いを強くしたものだ。

危険という認識があるなら知恵を結集し、一刻も早く別の方策を模索できないだろうか。光ときれいな水と空気、そして食物があれば人は生きていけるのだ。明るすぎる夜景、24時間営業のコンビニ、効き過ぎる冷房など...少しの不便を我慢すれば、いくつもの原子炉を廃炉に出来る。

原発に経済的依存があるなら、バックエンド費用だけでも事業として成り立つではないか。また、原発に代わる新たな公共事業を提案しても良い。日本中の海岸を埋め立て道路や新幹線を引くというのはどうだろう。あるいは、汚職や談合でも一向に構わない。「危険な話」が終わるなら..

危険な話の終焉を祈って(4)

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2006年 10月 19日

イーホームズ藤田社長のメッセージ

投稿者 by vulcan at 01:30 / カテゴリ: 雑感 / 0 コメント / 5 TrackBack

昨年の暮れ、藤田社長からきっこに到着したメールに私は心を打たれたのですが、先般藤田社長からきっこへ到着した次のメッセージを転載することについて、それを藤田社長が望んでいると判断しましたので、以下に引用します。

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きっこ様

藤田です。今日は援護射撃ありがとう御座いました。心強かったです。

僕は、きっこさんとはお会いしたこともお話したこともありません。ただ、僕が知っている耐震偽装事件の真実を、唯一、ありのままの形で取り上げてくれた日本のメディア(=「きっこの日記」)を運営されている方であることを、知っているだけです。

耐震偽装事件を通じて、マスコミとはどういうものなのかが良く分りました。新聞では朝日新聞が最も良いだろうと思って、去年の12月上旬に築地本社を訪ねました。たとえ、イーホームズに批判的な記事を書いたとしても構わないから、僕らが知る全ての事実を伝えるので、この事件をしっかり記録して記事にしてくださいと頼みました。耐震偽装を担当していた斉賀さんというデスクの方が応対してくれ、僕の趣旨を理解してくれ、担当記者をつけてくれました。12月13日に大臣認定プログラムが改ざん可能であるとの記事を書いてくれたのはこの方達です。他の報道関係者に較べて、最も、技術的学識的観点から確認検査制度や構造設計を勉強して記事を書いていました。

僕らは、年が明けて2月に入りアパを糾弾し始めました。斎賀さんが亡くなったのはこの時期です。そして、担当だった記者の方は担当から外されました。因果関係は僕には分かりません。そうした事実が符合しているだけです。そして、3月3日に、合同捜査本部の緊急立入捜査が入ります。アパの関係も含めて多くの資料が没収されました。しかし、僕らは、手元に残していた資料をもってアパの糾弾を続けました。結果として、4月26日に僕が逮捕されることで、会社の存続を断念せざるを得ませんでした。8月31日に最後まで残務整理の為に残っていた社員の再就職が決まりました。この日から、僕は、僕が辿った道筋を書き始めました。

僕は、我が子同然であったイーホームズという命を弔うために本を書きました。ある出版社に入稿もしました。そして、もしもの時を考えて、信頼できる複数の友人にも原稿ファイルを渡してあります。きっこさんにもお渡ししました。

いろいろと長くなってしまいましたが、本当にありがとう御座いました。
(以上の文責は当然に僕にありますが、もし、この文章を他に転載しようとされる方がいるなら、僕は構いません)

藤田東吾

また、次の記事は藤田社長がプレスリリースしたものなので、こちらも合わせて引用します。

「東京地裁での判決に際して、マスコミの皆様へ、そして国民の皆様へ」

今日、東京地裁で、僕に対する判決が出ます。
耐震偽装事件に関係した裁判では一番最初の判決です。
僕は、この裁判の容疑や内容については、話す意味がないと思いますのでコメントはしません。

僕を逮捕した本当の理由は、国が、アパのマンションやホテルの偽装を隠蔽するために、藤田東吾を逮捕して黙らそうとして、行なったものと考えています。

イーホームズでは、平成18年2月に、アパグループのマンションの偽装を発見しました。アパのマンションやホテルの構造設計を一手に行なっていた、田村水落という設計事務所の水落代表がイーホームズに来社して、「こんな偽装の手法は、姉歯より俺が先に初めた」と豪語しました。「建築確認を早く取るために、構造設計にかける時間が少ないから構造計算書を偽装(改ざん)するなんて、他(の構造設計士)にも沢山いるよ」と平気で言いました。実際に、田村水落がイーホームズに申請をしていた3件の物件に偽装が発見できました。その他の物件は、役所や他機関に提出してきたと言いました。その後、アパの取締役や責任者の方が来社して、アパに関する偽装の隠蔽や計画変更を要請しました。全く、ヒューザーの時と同様です。

イーホームズで受け付けていた3件の物件の内2件は、イーホームズでは計画変更も、再計算も適わないと判断したので、現在、工事は止まったままです。取り壊しもしていません。事件が風化したら、工事を再開して、販売するのかもしれません。「アップルガーデン若葉駅前」と「アパガーデンパレス成田」です。他の1件は、川崎市の物件で、川崎市で計画変更の処理がなされました。しかし、本当に重要なことは、住民や利用者の命に被害を与える可能性であり、それは、工事中のマンションやホテルではなく、既に完成して入居済みの物件です。

僕は、国交省に対して、イーホームズで受け付けた以外のアパの物件を調査するように糾弾をしてきました。国は関知しないと言いました。アパは工事を止めませんでした。これも、ヒューザーの時と同様です。この状況が、4月まで続いた中で、4月26日に僕は逮捕されました。逮捕自体の「見せ金」の容疑は、たとえお金はすぐに返済して誰に迷惑をかけなかったとしても、違法を行なった者として罰を受けなければいけないことだと反省しております。

多くの国民の皆様から激励のお手紙を頂きましたが、僕は以上の経過をずっと黙ってきました。もし、言ったとしても、国は隠蔽するために何をするのか分らなかったし、社員もいたので、安全を優先しました。また、アパの元谷会長が、安倍晋三官房長官(当時)の後援会である、安晋会の副会長を務めていたことも、当時は知りませんでした。
今、イーホームズの社員は、全員、再就職が決まり、新しい道を歩んでいます。そして、僕は一人になりましたが、僕が知る真実をここに語ることは、イーホームズを創業した者として、代表を務めた者として、そして21世紀に日本に生きる者としての責任だと思います。よって、ここに発表を致します。

耐震偽装事件の本質は、決して、ヒューザーやアパだけの問題ではありません。また、法的には、確認検査制度の問題ではなく、大臣認定制度の問題のはずです。構造計算書が、偽装(改ざん)可能なレベルで、構造計算プログラムの運用プロセスを評価/認定した、財団法人日本建築センター(国の天下り機関)と国土交通省住宅局建築指導課に責任はあります。アパやヒューザーは、この観点からは被害者です。但し、デベロッパーとして、自らが作ってきたマンションやホテルの、住民や利用者の命の安全を無視してはいけません。平成18年5月22日に、北側国土交通大臣も同様の発言を国会で行ないましたが、この発言はマスコミが取り上げませんでした。官僚がマスコミを情報操作の一手に使う表れだと思っています。

よって、僕は、日本の建築行政を担ってきた一員として、この真実を公表いたします。

また、僕は、「耐震偽装」と題して、僕が知る真実を本に書きました。ペンの力によって、耐震偽装が何であったのかをお伝えするべきだと思ったからです。既に原稿は、ある出版社に入れてありますので近く出版されると思います。たとえ、僕の身に何があったとしても、イーホームズの理念であった、『21世紀の住環境の質の向上に貢献する情報提供』を果したと、僕は思っています。

最後に、結果として、国民の皆様には、構造計算書に関わる国家の不正を公表したことで、不安と混乱をいたずらに招いてしまったことを、ここに深くお詫び申し上げます。

申し訳ありませんでした。

平成十八年十月十八日  藤田東吾

こんな国など信じられるか!(きっこの日記)

藤田社長からのメッセージ(きっこの日記)

藤田社長からの追伸(きっこの日記)

藤田社長からアパグループへ(きっこの日記)


オジャマモンの証人喚問(きっこの日記)

イノシシ捕獲成功!(きっこの日記)

グランドステージ川崎大師(きっこの日記)

祖父の代から売国奴(きっこの日記)

安倍晋三が改憲を急ぐワケ(きっこの日記)

【追記】

かきなぐりプレス『イーホームズ藤田社長が炸裂させた核爆弾

zara's voice recorder『藤田社長爆弾発言は本当か

Here There and Everywhere『イーホームズ藤田社長 アパグループ きっこ 安倍晋三

らくちんランプ『藤田東吾社長の告発文の内容は真実です。

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2006年 10月 18日

「導かれているな」という感覚

投稿者 by vulcan at 07:20 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

ここ数ヶ月、時々私は、何かの力に「導かれているな」という感覚を味わうことがあります。大きく分けると二つの種類があり、一つは人間関係においてであり、もう一つは読書においてです。

人間関係においては、私が数ヶ月前に、とある目的のため「視野を広げたい」と思って以降、視野を広げるために「いろんな人の話を聞こう」という姿勢になり、普段「人間関係は面倒くさいから知人は少なくていい」と考えていた私ではありえないほどの方と知り合うことができ、そのお陰でいろんなことを多面的に考えることができるようになり、また、人間関係の楽しさが分かってきました。

人間関係の輪も広がっている感じなのですが、それも「Aさんを知ったことでBさんを知り、Bさんを知ったことでCさんを知る」というように、連鎖的なことが多く、「Aさんを知らなければCさんは決して知りえなかったであろう」ことを思うに付け、「導かれているな」という感覚に至るわけです。

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読書においても同じようなものです。今までであれば好きな作家、興味のある分野の書物しか読もうとしなかったのが、やはり「視野を広げたい」というのがきっかけで、様々なジャンルに触手を伸ばすようになりました。但し、手当たり次第に読破するというのではなく、やはり連鎖というものがあります。AさんやBさんと知り合ったことで漠然と興味を持った分野の書籍Xをふと手に取ったことが皮切りとなり、その書籍で紹介されているYという書籍を読んでみたくなり、Yで取り上げられている事項とまた別のふとしたきっかけで手にしたZで取り上げられている事項との間に共通項があったりしたときに、ここでも「導かれているな」という感覚に至るわけです。

結局のところ、視野が広がれば、いろんな人に出会い、いろんな書物に出会うので、いつかはそういった「偶然の一致」を感じたり、「脈々とつながった連鎖」を感じたりするのでしょうが、わずか5ヶ月でそうした感覚に到達するというのは、「導かれている」と思うのも理解していただけるのではないでしょうか。

以下に、私が感じた偶然の一致の一つを紹介します。

先日、会社の書庫を整理していたら、4年前に贈呈された北尾吉孝氏の『人物をつくる』という書物が出てきました。頂いた当時は、北尾氏に対する偏見によって読む気がしなかったため、そのまま読まずにおいていたもので、すっかり存在すら忘れていました。このときは「北尾氏の人間学とはどのようなものか」と興味が沸いてきたので読んでみました。

北尾氏の直筆のサインがあることも判明し、今まで読まずにおいておいたことを申し訳なく思いましたが、読んでみて、北尾氏に対する見方も変わり、新たな興味を持ち得ました。

一つは道元の『正法眼蔵』に対する興味であり、もう一つは松下幸之助氏の『指導者の条件』に対する興味です。

早速両者を読むこととしました。『正法眼蔵』は、中野孝次氏の解説書を3週間かけて二度読みましたが、解説書であっても今の私にはあまりにも難解で、ちょっと歯が立ちませんでした。

一方、『指導者の条件』は指導者として備えるべき102個の条件が列挙され、それぞれに松下氏の解説がついています。経営者が備えるべき様々な資質をコンパクトにまとめているという意味で、経営者のバイブル的な書籍で、時々見返しては己の行動を振り返るのに適していると思います。

この『指導者の条件』のなかで、『訴える』という項目での解説に用いられた松代藩家老恩田木工(モク)の逸話と、『人を育てる』という項目での解説に用いられた吉田松陰の逸話には非常に感銘を覚えました。長くなりますが少し引用します。

訴える

十三歳で松代藩十万石の家督を継いだ真田幸弘は、十六歳になって元服すると、非常に困窮している藩財政を建て直すため、家老の末席にいた恩田木工を抜擢し、藩政の改革にあたらせることにした。
すると木工は、まず屋敷に家族親戚を集め、「今度こういう重責を担ったからには、自分は率先して徹底した倹約をしなくてはならぬ。しかしそれを家族や親戚のみなさんに強制はできない。ついてはこの際、妻を離別、息子は勘当、親戚とは義絶してこの仕事にあたりたい」といった。これにはみな驚いて、「いや、どのような辛抱でも、おっしゃる通りにするから、そんなことはしないでください」と嘆願したので、木工も喜んでそれを聞き入れた。

(後略)

これを読んだとき、思わず涙がにじみました。「果たして木工ほどの覚悟を決めることができるか」と己に問い正すと、うなるしか能が無さそうです。常日頃、正義を追い求める姿勢を貫いてこそ、初めて口にできる言葉だと思います。

人を育てる

吉田松陰は二十三歳の時、海外へ密航を企てて失敗し、捕らえられて入獄の身となった。この時、牢内には十一人の囚人がいたが、松陰はすぐに皆と親しくなるとともに、そこをお互いの教育の場としたのである。すなわち、松陰自身はみずからの得意とする、いわゆる四書五経の講義を行なうとともに、俳諧に詳しい人には俳諧を教えさせ、書道に秀でた人には書道を教えさせ、自分もそれを学ぶというようにした。それによって、今まで絶望的な雰囲気だった獄内が、みなそれぞれに自信と勇気を取り戻し、活気にあふれてきた。それが藩当局の認めるところともなって、ついに松陰を含めて全員が解放されるにいたったという。

(中略)

松陰は入獄の時、”かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂”という歌を詠んでいる。そうした国の将来を憂うるひたむきな思いが、囚人であろうと軽輩であろうと、わけへだてなく、人間としての価値に目覚めさせずにはおかなかったのであろう。

「この、”かくすれば かくなるものと 知りながら やむにやまれぬ 大和魂”こそが、私の求めていた言葉だ」と感じ、本書を買った価値があったと思った次第です。

さて、その後、いくつかの本を間に読み、再び北尾吉孝氏の書籍を読む機会を得ました。図書館で借りてきた『中国古典からもらった不思議な力』がそれですが、巻末に記載された書籍紹介の中で『武士道』(新渡戸稲造著、奈良本辰也訳・解説)を見つけ、非常に惹かれるものを感じました。

その直後に、妻が、「新渡戸稲造の『武士道』を読んでみたい」と言ったので驚いたのですが、妻は、藤原雅彦氏の『国家の品格』を読み終えたところで、そこで紹介されている新渡戸稲造の『武士道』に興味を持ったそうです。

私も、2ヶ月ほど前に『国家の品格』を読み、「極論もあるが、本質的には藤原氏の思想は全て正しい」と感じていましたが、そのときは『武士道』にはそれほど興味を抱いておりませんでした。

そんなわけで、妻との意見の一致をみたことで、俄然読みたくなった『武士道』を、図書館で検索しましたが、貸し出し中とのことで、予約だけしておきました。その一週間後、図書館からはまだ予約の書籍が届いた連絡がなかったのですが、週末家族でブックオフに立ち寄り、そこで、求めていた奈良本辰也訳・解説の『武士道』と、『いま新渡戸稲造の「武士道」を読む』(志村史夫)が目に止まり、早速買い求めました。

後者は『武士道』をパラグラフ毎に区切って解説を施したもので初心者には読みやすく、先にこちらから読んだのは正解でした。奈良本氏の訳した『武士道』の方は、解説は後回しにして原著を先に示しており、原著の流れがつかめるため、これはこれで有意義なものですが、最初にこちらから取り組んでいたとすれば消化不良に陥っていた可能性が高いと思います。

そして、私が驚いたのは(というか私が如何に馬鹿かが窺い知れますが)、北尾吉孝の『中国古典からもらった不思議な力』と奈良本辰也訳・解説の『武士道』と志村史夫の『いま新渡戸稲造の「武士道」を読む』が、いずれも三笠書房の出版物であったことです。「三笠書房の出版物という共通項があったからこそ、ここまで辿りついたのだ」と、今思います。

ところで、『武士道』にはいくつもの教訓がありますが、その中でも目を見張ったのが、以下の部分です。

武士道は一の無意識的なるかつ抵抗し難き力として、国民および個人を動かしてきた。新日本の最も輝かしき先駆者の一人たる吉田松陰が刑に就くの前夜詠じたる次の歌は、日本民族の偽らざる告白であった。

かくすればかくなるものと知りながら
やむにやまれぬ大和魂

形式こそ備えざれ、武士道は我が国の活動精神、運動力であったし、また現にそうである。

さて、私の見出した『武士道精神』につながる『偶然の一致』は、まだまだあるのですが、ここまででもあまりにも長くなってしまい、「既に興ざめの域をとうに越した」と思いますので、このあたりで筆を置きたいと思います。

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2006年 10月 14日

『進化し続ける経営』北尾吉孝

投稿者 by vulcan at 23:35 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

本書は、北尾氏の十八番である『経営』に関する書であるため、内容は非常に充実しています。『経営』に関して、北尾氏の足元にも及ばない私が解説しても無益でしょう。しかしながら、いくつか思うところと留意すべきところがあると考えますので、それを書き留めておきたいと思います。

本書は、タイトルが示すように、「企業は進化し続ける不断の努力が必要であり、それを怠れば衰退するか、崩壊する」ということが示唆されています。これは、言葉で言うのは簡単ですが、『改善』といった生易しいことを指しているのではなく、めまぐるしいほどのパラダイムの転換が求められており、それに伴った犠牲や痛みも小さくありません。そして、それを、実際に実行し、今も実行し続けているところが北尾氏のすごいところだと思います。

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とはいえ、「北尾氏のやることなすこと全てが正しい」と賛美しているわけではありません。しかし、彼の正義感及び信念の強さには畏敬の念を覚え、自分というものを捨て切っているのであろうことが窺い知れますので、彼のとった行動を非難するつもりはなく、私の信念と反している部分も、情勢を鑑みると止むを得なかったと理解します。

「株主価値を高めることができればストックオプションの価値も上がり、役職員のモラルを高めることにつながる」と述べた箇所があります。成長を加速させるためにストックオプション制度を導入するというのは、確かに一つの考え方です。ストックオプションというのは優秀な人材を獲得するには即効性があるのは事実でしょう。そして、SBIグループはストックオプションの導入を効果的に活用して優秀な人材を短期間で増大させたのだと思いますし、彼らの期待を裏切らない企業価値の向上が達成され、貢献に報いたと思います。

しかしながら、ストックオプションは、本場アメリカでも「Fuck you money(Fuck youと言って、積年の恨みを晴らしながら立ち去るために必要なお金)」と言われているように、モラルを高めることにつながるとは思えません。「仕事に対するモチベーションが上がる」というのも、かなり限定的だと考えており、効果があるのは付与時だけだと思います。付与した途端に既得権となってしまうからです。

そもそも、ストックオプションというのは会社の株を売却することが前提です。つまり、会社との縁を切る行為が組み込まれた仕組みであり、縁を切るタイミングが明確に自覚できます。

ストックオプションについての私の考察と対案をここで展開するのは、多くの人には眠い話ですし、まだまだ独りよがりな説に過ぎませんので控えますが、「モラルはストックオプションによって高まるものではない」ことだけは断言したいと思いました。

次に、グループ会社の上場戦略についても、肯きにくい点がありましたが、やはり、企業の成長を加速させるためには、やむをえなかった措置と理解します。現に、今では、パラダイムを転換し、十分肯ける上場戦略となっているようです。

私が直感的に最も危惧を抱いたのは、『コングロマリット戦略』でした。しかし、これを、比類のない経営センスによって見事に達成したことが良く理解でき、天晴れと言うほかありません。ジョイントベンチャー方式を活用しながら子会社を短期間に次々に設立し、それらの子会社を100%子会社化させて指揮命令系統を明瞭にすることで成長を促し、更なるグループの成長加速のために早期上場を果たしてキャピタルゲインを得、得た資金で買収・合併による成長を遂げ、急激な成長による弊害としての拡散したグループを引き締めるために、事業持ち株会社から純粋持ち株会社に移行させるというダイナミックな企業運営を極めて短期間に実現させたのは、まさに神業であり、北尾氏でなければなし得なかったのではないかと思います。

ところで、私が非常に留意しなければならにと感じた点は、「北尾氏が自分を捨て切っている」点です。あくまでも北尾氏を突き動かしているのは正義感であり、彼の私欲ではありません。ここを見落とすと、本書の読者は猿真似をして必ず失敗するでしょう。

私欲によって行動している限り、上記のような度重なるパラダイムのシフトやダイナミックな企業運営は「理念がない」とか「一貫性がない」とか「場当たり的だ」と言って内外から非難されて崩壊するのは火を見るように明らかです。外野から非難されるのはさしたる問題にはならないにせよ、内部からの非難が大きくなりすぎると事は甚大です。

北尾氏が正義のために自分を捨て切っているがゆえに、部下にとってはたとえ不本意だとしても、北尾氏についていくのであり、ついていくことが結果的に部下にとっての本意となるのでしょう。ここにも武士道精神に流れる真正たる義理、「正義の道理」の本質を見ることができると思います。

ただし、やはり私は、主に次の二点において危惧せざるを得ません。

一つは、北尾氏以後のSBIグループがどうなっていくのかです。この点については、北尾氏も危惧しており、人材の育成に力を入れていますが、果たして、北尾氏ほどのスーパーな人間が見出せるかどうかというと心もとないように感じてしまいます。

もう一つは、時価総額を標榜している以上、やはりいつか破綻するのではないかという危惧です。加速度的に成長できる時期、規模というのはあり、それは、トップの器によって違いますので、何年間、幾らが一般に妥当かという議論は無駄ですが、足るを知らざれば、無間地獄に陥るわけで、どこかで時価総額主義を捨てなければならないと思います。まあ、北尾氏ほどの人物であれば、そのようなことはとうに承知の上であり、次の長期戦略では時価総額主義を廃してくるかもしれませんが、この転換は痛みも相当大きなものになるだけに、生半可な舵取りではかえって命取りとなってしまいます。

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2006年 10月 13日

危険な話の終焉を祈って(2)

投稿者 by vulcan at 16:23 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

再び、温心堂主人による『危険な話の終焉を祈って』から引用します。

think-Pu.net-考えよう、プルサーマル・プルトニウム

危険な話の終焉を祈って(1)

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「危険な話」は原発問題を考える契機となり、幾冊かの本も読んだ。その一人である高木仁三郎氏は原子力の研究者を経て、原発反対の市民運動家となった。その活動は内外から賞を受けるほど評価が高く、1998年、市民の立場で科学を読み解く「高木学校」というNPOを設立した。2000年の秋、63歳で亡くなるまでの2年間はガンと戦いながらの活動であった。「原発事故はなぜくりかえすのか」という本が死後、岩波新書から出版された。本では「友へ」という著者からのメッセージで締めくくられている。

   後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう
   活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その
   賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで
   必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。

これほどまでに真摯な情熱を抱き、そして悲愴に満ちた学者に比べ、原発関係者や行政はあざ笑うかのようにはぐらかし隠蔽しときには改竄し、小さな町村の首長や政治家と結託し、あからさまな茶番を演じる。

   このとき私が痛感したのは、この役人たちと我々との間には公益性という
   ことについての認識に大きなギャップがあるということです。役人たちは
   公益性を定義するのは国家の側であり、国家の役人がやっていることが
   公益に則することであって、民間の人間がこれに異を唱えるのは公益に
   反するということを、ほとんど無前提に言うのです。40代の課長クラスか
   ら始まって20代の係官まで、ほとんど全員が平気で言うのには驚いてし
   まいました。
   1997年といえば、動燃はいわば全社総ざんげのような形で、今までの
   事故を隠してきたり、正確に報告してこなかったり、あるいは情報を
   十分に公開してこなかったことについて、自己点検を行い徹底的に内部
   の体質改善に心がける、ということが大きく宣伝されていた時期にあた
   ります。実はその真っ最中に、昔と何も変っていない虚偽報告が行わ
   れていたことが明らかになったので、私は大変に驚いたのです。

虚偽報告や改竄をしなければ生き延びられないのが原発の運命ともいえる。そして、計画の途上で発覚した虚偽や改竄又は事故の発生により、幾度か計画は頓挫した。このような神風がここ佐賀にも吹かんことを祈る。原発はただ核物質を燃やすだけではなく、その再処理や廃棄物の扱いに莫大な費用と技術的困難さと命がけの危険を伴う。このため、プルトニウムの再処理はアメリカ、ドイツが撤退し、増殖炉についてもアメリカ、イギリス、フランス、ドイツという並居る先進国が失敗して開発を断念した。日本では1995年の「もんじゅ」の事故により、電力業界でも死語になっていたが、「プルーサーマル計画」と装いを替えて息を吹き返した。それがいま何故、選りによってここ佐賀なのか。

公益性というのは極めて不明確な言葉です。誰にとっても益することなどないわけで、力のある者、声の大きい者に益することが得てしてまかり通っていると思います。また、閥や機関の存続が何よりも優先され、公益性という便利な言葉ではぐらかされるということも多いのではないでしょうか。

公益性を口にする者は、もっと志が高くあるべきです。新渡戸稲造の「武士道」には以下の言葉があります。

義理という文字は「正義の道理」の意味であるが、時をふるに従い、世論が履行を期待する漠然たる義務の感を意味するようになったのである。その本来の純粋なる意味においては、義理は単純明瞭なる義務を意味した。したがって我々は両親、目上の者、目下の者、一般社会、等々に負う義理ということを言うのである。これらの場合において義理は義務である。何となれば義務とは「正義の道理」が我々になすことを要求し、かつ命令するところ以外の何ものでもないではないか。「正義の道理」は我々の絶対命令(カテゴリカル・インペラティヴ)であるべきではないか。

公益性を口にする者は、「正義の道理」に基づいた『絶対命令』に従うべきであり、それさえ貫いているのであれば、後世になって、失政であったと評価されたとしても、何ら恥じることはないと思います。

続けます。

プルトニウムは耳掻き一杯で数万人を殺戮できる毒性をもち、核暴走が起こりやすく、そのうえ放射能の半減期に24000年を要する。

増殖炉の開発段階において、フランスではたびたび核暴走がおこり、その時間も5/100秒という短いものだった。わずかな瞬間の危機を誰が制御しうるというのだ。「運転を止めればよい」という当局の説明が空しい。アメリカでは2度の炉心溶融事故をおこしている。またドイツでは原子炉の熱を水に伝えるナトリウムが、その水と反応したことで火災事故が頻発した。高温の水蒸気は圧力も上昇し過酷な条件のため配管などが劣化を起こしやすい。

机上で繰り広げる空論が現実に完璧に遂行されてこそ可能な夢物語なのだ。どこかにわずかのミスや故障が起こる、突如地震や災害に襲われる、それだけで制御不能になる恐れがあるのだ。日本では地震のため、83年、87年に福島原発で核暴走寸前で原子炉停止が起こっている。さらに93年には女川原発でも起こった。大事に至らなかったのは「神の庇護」と感謝すべきかも知れない。

リスクは何事にもつきものではあるが、原発についてはリスクゼロでなければならない。いままでに、プルトニウム燃料の開発を含めこの計画に投じられた税金は1兆5959億円になり、これによって得た収入はわずか6億円に過ぎない。引き続き推進するならば巨額なコストになり、バックエンド(原発終了時の後始末)事業費として19兆円が試算されている。ところで半減期で24000年という廃棄物を誰がどのように受け継いでいくのだ。

記録に残る人類の歴史でさえまだ5000年である。「地下300mの安全な地層に処分する」という安全キャンペーンそのものが懸念材料となる。100あったものは24000年後に50になり、さらに24000年を経て25になる。これがゼロになる日まで人類が存続できるだろうか。ほぼ安全といわれるまでには10万年の保障が必要といわれる。

このようなプルトニウムをウランと混合し(MOX燃料)従来の軽水炉で燃やすというのがプルサーマル計画である。先に述べた増殖炉での失敗の数々が暗い影を落とす。全世界がプルサーマルからの撤退を決断しているため、小実験以外の本格的な運転データは全くない。プルーサーマル計画が現実のものとなれば、佐賀は世界で初の壮大で危険な実験場となり、いままでの例から、おそらく高確率での失敗は免れないだろうといわれている。先進各国が断念し、国内各地の首長が断念した重みを轍とし、ここでも断念するべきなのだ。その知恵や費用を新たなエネルギーの発掘や開発に向けることは、原発より困難な夢物語とは思えない。

僅か数十年の電力供給のために、24000年もの間、後世に重荷を背負わせなければならないとは、どう解釈すれば道理に適うと言うのでしょうか。

危険な話の終焉を祈って(3)

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2006年 10月 13日

自己否定と心の支え

投稿者 by vulcan at 02:24 / カテゴリ: / 19 コメント / 0 TrackBack

自己否定のない成長は自己満足の域を出ない。つまり、壁を越えたければ自己を否定するしかない。

自己満足の世界に浸るだけでは終わらせたくないので、そうなると壁を越えることが求めれら、必然的に自己を繰り返し否定しなければなりません。

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とはいえ、これまでたいした否定をしてきたわけではありません。私がしたと言っている自己否定などたかがしれていますが、それでも苦しいことは苦しいです。

例えば仕事上では、丹念に練り上げて作ったシステムを否定しなければならないときがあります。思い入れのあるシステムであればあるほど、それを否定しなければならないときは断腸の思いです。しかし、自己満足のためだけに仕事をしていいわけはなく、会社にとって今必要なシステムなのかどうかが重要となります。

プライベートでは、『子宝ドットコム』に移行する際、過去の日記の3分の2が駄文であると判断し、ばっさり捨てました。残した3分の1もこの度全て駄文と判断しました。『子宝ドットコム』になってから書いた記事も、やはり3分の2は駄文でした。そして、今残している3分の1もいずれ駄文と判断するときが来るのでしょう。

あるいは、5月から2ヶ月かけて書いた150枚ほどの『随筆』も、結局全部否定する羽目になりました。といいながら、時々引用しているということは、未練が残っている現われかもしれません(笑)

「一体自分は文章を書く意味があるのか。」「お前がやっていることは何の価値もない。無意味だ。」「お前は生きている意味すらあるのか疑わしい。」そんな感じで自分を追い込み、その上でもう一度自分を奮い立たせて、再出発します。そんな繰り返しです。といって、その程度のことしかやっておらず、この程度にしか成長していないので偉そうなことは言えませんが。

そんな私にとって、心の支えの言葉があります。この言葉があれば、今後、いかなる苦難を味わい、どのような壁にぶつかり、とてつもない自己否定を自らに迫ったとしても、きっと乗り越えられると思っています。

吉村さんは石橋をたたいて壊してまた作るぐらいの
慎重さとパワーを持っていそうなので
(あくまで私のイメージです。)
成し遂げられると思います。

何度も何度も石橋を作っては壊し、作っては壊しを繰り返し、きっと納得のいく石橋を創り上げたいと思います。

【追記】

うーん。駄文だなぁ。

霊能者のひとりごとにおいて、人生観に絡めた自己否定について述べておられますので、一部を抜粋させていただきます。

 これはある意味矛盾しているとも言えます。善悪を超えた境地や自分や他人の区別を超えた境地と説明することはできてもその境地は言葉では説明できないと言えば矛盾ではありますが、これが実感なのです。

 ではどうして目指すべき境地として言葉で説明することができ、そこに到る修行論も残されているのに、その境地に到達することが限りなく難しいのかを書くならば、それは追体験でしか知りえぬ境地であるだけでなく、その過程が際限のない自己否定の連続であることもあります。

 宗教は際限のない自己否定の連続であるとは説かれていますが、どうもこの言葉は誤解が多いような気がしています。新興宗教の多くで説かれている自己否定とは、それまでの自分の考え方を否定してその教団の教えを受け入れることでしかなく、これではただの盲信でしかありません。

 この問題は掘り下げるならば、非常に大きな問題であり、簡単に説明することなどできないことですが、新興宗教の自己否定とは自分以外の場所に自分の理想を求めているのではないかと思えます。つまり現実の自分の姿を否定して教祖の説く教えと同化している自分を理想としているだけにすぎないと思われます。

 これに対して本来の意味での自己否定とは、自分以外の場所に自分の理想を求めているのではなく、自分の中に自分の理想を追い求める行為であると考えます。これは他力門の教えでも例外ではありません。阿弥陀如来の慈悲にすがることができない自分の否定であると考えるべきでなく、阿弥陀如来にすがりきることができない自分を知ることが重要ではないかと思います。

 現実の自分以外に理想化された自分がいるわけでないのに理想化された自分を追い求めたとしても理想の自分にめぐり合えることはありません。弱い自分がいるのであるならばその自分の弱さと向き合う以外に道はないのです。

(後略)

2006年 10月 12日

正しさなどどこにもない。あるのは信念の強弱ばかり。

投稿者 by vulcan at 12:03 / カテゴリ: / 10 コメント / 0 TrackBack

世界情勢及び国内情勢は時々刻々と進展しており、誰かの思惑とか、我々の思惑とか、そういった次元で捉えるには無理がありすぎる世の中ですが、これも太古からの習わしでしょう。

勝谷誠彦の××な日々。』を読むにつけ、『きっこの日記』を詠むにつけ、『5号館のつぶやき』を読むにつけ、『つらつら日暮らし』を読むにつけ、『ヒロさん日記』を読むにつけ、『霊界通信・脱新宗教』を読むにつけ、『野良里蔵狸 -norakura-』を読むにつけ、「何が正しいのか」などと考えていると何も分からなくなってしまいます。

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日本は憲法9条改正を行なって軍事国家であることを認め、北朝鮮は消滅し、中国が朝鮮半島の北半分を自国領とし、その中国も政権が消滅し、思惑通りのアメリカは911テロが自作自演か否かで内紛が起き、そうこうしているうちに地震と原発事故で日本が人の住める国ではなくなる、そんな未来が「ばかばかしい妄想」と笑っていられなくなってきているというのに、自分も皆もあまりにも無力で、摂理というものの厳しさを改めて感じずにはいられません。

なるようになる。なるようにしかならない。
天命を受け入れ、人事を尽くす。
未来に思いを馳せたいのは山々だが、未来に思いを馳せた途端に偽善となる。
過去を受け入れ、未来を任せ、今を生きる。
他を受け入れ、自分を捨て、最後の一歩までただ歩き続ける。
マンモンの神と歩み寄る道はないのか。


【追記】

時々無性に自分が一体何を目指しているのかが分からなくなります。目指しているものなど幻想であり、そんなものは何も無く、無いことを認めたくないだけかなと思います。

そんな状態で、駄文を日々量産していること、ご訪問いただいた皆様には誠に申し訳ないです。しかし、書くのを止め、自分の世界だけに閉じこもることは簡単ですし、いつでもできます。駄文を晒し続けていくことも修行の一つと思って、続けます。

2006年 10月 12日

きっこの日記の読書感想

投稿者 by vulcan at 09:37 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

書籍版『きっこの日記』を読み終わりました。なかなか感想が書きにくいのですがトライしてみます。

私が『きっこの日記』を知ったのは耐震偽装問題で世の中が騒がれていた時期だったので2005年秋だったと思います。それ以前のログも多少読んではいましたが、過去ログを読むことに楽をさせない『きっこの日記』なのでそんなには読んでいませんでした。したがって、書籍版『きっこの日記』は、読んでいなかったログが多く取り上げられており、そういう意味では新鮮でした。

ところが、2005年秋以降の日記についても、新鮮さがありました。というのは、多くは斜め読みしていたか、読まなかったログだったからです。『きっこの日記』を日々読んでいると思っていましたが、実は選り好みをしていて、あまり関心のないテーマについては読んでなかったわけです。

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次の特徴は、脈絡の起伏があまり感じられないというものです。これは、サンプラザ中野が言っているように「きっこはロックだ!」と普段から思っている我々にとって、かなり意外感があります。ハードパンチャーだと勝手に決め付けていたため、書籍版にもそうした傾向を求めていたのではないかと思います。

同様の趣旨で、メッセージ性があまり感じられないというのもあります。

いずれも書籍版『きっこの日記』をけなしているような感想ですが、そういう意図ではありません。ここでも、我々はあまりにもキッコ像を作り上げすぎているという反省があります。きっこはそうした期待を裏切ることが、我々のためだと思ったのでしょう。「自分は普通の人間だ」と言っているのではなく、祭り上げることの好きな日本人に対するメッセージかと思います。

いずれにせよ、起伏が少ないだけで脈絡はあり、メッセージが強くないだけでメッセージはあると考えます。

メッセージに関しては、やっぱり、きっこが普段から口をすっぱくして言っているように、「自分の頭でよく考えてほしい」というメッセージです。また、「一面だけ見ずに視野を広げてほしい」というメッセージも含まれていると思います。俳句のログを多く取り上げたのも、視野を広げてほしいと思うからであり、また、物事をいろんな角度で捉え、よくよく自分の頭で考えてほしいという思いがあったからではないでしょうか。

メッセージ、つまりテーマがそういうテーマであれば、起伏が小さいのもうなずけます。「北朝鮮はけしからん」とか、「コイズミは売国奴だ」とか、「いつまでも守銭奴どものいいようにはさせない」とか、そういった普段の『きっこの日記』に我々が読み取っていたテーマを訴えようと思えば、きっこほどの実力者なら、我々の感情をたぎらせるような脈絡をつけるのも造作もないことでしょう。

しかし、きっこは扇動者ではないわけです。我々がきっこに頼りすぎる嫌いが強いため、今ここでロック調を強めることはあまり良いことではありません。我々が自立し、自分で考えることができるようになったときには、きっときっこはもっと強いメッセージを訴えるかもしれません。

これが私の読書感想です。普段『きっこの日記』を読んでいない方が書籍だけを読むと、意図が通らないのではないかと余計な心配をしてしまいます。

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2006年 10月 11日

危険な話の終焉を祈って(1)

投稿者 by vulcan at 20:20 / カテゴリ: / 3 コメント / 0 TrackBack

温心堂主人による『危険な話の終焉を祈って』を、連載で取り上げたいと思います。

プルサーマルの是非について、今こそ真剣に考えるギリギリの時であり、佐賀県の方は是非県民投票を実現してください。

think-Pu.net-考えよう、プルサーマル・プルトニウム

ニュース記事
玄海原発プルサーマル計画:署名活動開始 計画に「待った」なるか /佐賀
プルサーマル計画/県民投票へ署名開始
プルサーマル是非「住民投票を」 玄海原発3号機 市民団体が署名活動
玄海プルサーマル、佐賀県知事が同意

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市民運動は冷ややかに眺め、政治や行政には諦観を以って対し、党派や集団を窮屈に感じ過ごしてきた。わが身に降りかかる最後の覚悟は出来ても、子供や、未来の人々の最後を想像するといたたまれない。

4月には佐賀(唐津)の隣り、福岡(前原)で原発の勉強会が開かれたという。同じく長崎では、共産党長崎県委員会の人々が長崎県知事に対し、被曝県として、佐賀県がすすめようとしているプルサーマル原発に反対するよう申し入れた。すでに事前同意の後になるが、遅すぎるのではない。同意の方が早すぎたのだ。

危機感が蔓延し反対運動が活発化しないうちに形だけの討論会を開き、全ての反対や慎重意見をシャット・アウトする。早々に、着々と話を進め、機先を制すれば、人々もそのうち忘れるだろう。これが政治家や行政の手法の一つでもある。確かに万人の意見に耳を傾けていては一歩も進まない。政治や行政を司る人々に理念があるならば、それは時として民意によって否定されるかも知れない。しかし、民意はただ一人の政治家や役人によって蹂躙される。

前文を引用しました。市民運動に参加しない信条の温心堂主人が、隠居に近いような山里暮らしから立ち上がられました。政治に対して不信をもって接するだけではどうにもならない、ギリギリの選択が佐賀県民に迫られていると思います。そして、佐賀県での帰結が、我が国の将来を左右すると考えます。

危険な話 広瀬隆  ー 2006.3月のコラムより ー

1978年のアメリカ映画「チャイナシンドローム」をご存知だろうか。核の暴走による超高熱が原子炉を溶かし去り、地球をつらぬき裏側の中国へ到達するという暗喩がタイトルになっている。この翌年の3月、予言したかのようにスリーマイル島で原発の事故が起こった。

いままで比較的新しい本についてコラムを書いてきた。この本は19年前の1987年出版のものだ。じつは私の住む佐賀で深刻な事態が進行しているのだ。ことは佐賀県だけの狭猥なものではなく地球に住むすべての人や生き物の存亡に関わるのだ。ここで細かく説明する力もないし、あまりにも膨大な内容をどう伝えてよいのか迷っている。大袈裟かどうか末尾に紹介する本を参考にして頂きたい。

原発の議論は環境やエネルギー政策、代替資源などの問題も絡み、危険性のみで論じられないと言う知識人も居るが、それこそが、論点を逸らしたり隘路へ迷い込ませる元になっている。思慮余って明確な旗色を示せない知識人の宿命や弱さを感じる。いつまでも延々と出口なき議論を続けることが彼らの仕事であり喜びなのだろう。

国や電力会社が温暖化防止やエネルギー問題を論点とするのは戦術でもある。一方で、繰り返し安全や事故防止を強調するのは、危険性の認識が十分にあるからだ。危険な話は忌避されるので、情報といえるレベルのものは公表せず「安全、安全、、」と念仏宣伝だけを唱える。それゆえ反原発の学者や市民団体からの情報は貴重なよりどころとなる。

「危険な話」の著者・広瀬隆は家系図や人脈から原子力の陰謀を説く異色の作家であり、氏が与えたインパクトはあまりにも大きく「広瀬は...」と、個人攻撃まで為されるほどであった。原発をやりたい人々のみに降りかかる危険なら何も言うことはない。ここでは、国や電力会社が語らない「危険な話」に絞って書いている。エネルギー問題より先に、これがいま、一番感心を寄せていることだ。

まるで詩のような美しい文章だと感じるのは私だけでしょうか。出口なき議論を続ける時間はもうあまりなさそうです。

さて、佐賀の2月定例県議会で知事は、九州電力玄海原子力発電所3号機でのプルサーマル計画について事前了解を表明した。夕方のテレビを見ると、やや甲高く早口でまくし立てる知事の声に悪寒が走る。まるでイベントでも開催するかのような性急な決定に県民の間から驚きと戸惑いの声が出始めた。地方新聞の意見や読者欄には、未来の子供たちに禍根を残さないようにと慎重を求める声や反対の意見が寄せられる。

佐賀では1975年に玄海原発1号機の運転が開始された。それから30年の月日が流れ、この間いくつかの事故が発生している。原発の耐用年数は30~40年といわれ、いまや老朽化し廃炉を検討する段階に入ったというのに、更に30年間運転を延長する計画が実行されている。原発の危険性は言うまでもないが、耐用年数を超えて原子炉を使い続けることは、更に危険性を引き寄せることになる。

昨年、地震空白地帯といわれてきた北部九州に大きな地震が起こった。このような災害に耐えられる状態なのか不安は膨らむばかりだ。老朽化した1号機で事故が発生した場合、(風速7mの風を想定し...)約1時間で佐賀は死の灰に覆い尽くされる。1時間でどこまで逃げおおせるだろうか?今までの事例からすると発表そのものが数時間遅れるのは間違いない。数時間後には九州一円まで拡散し、3日もすれば日本全土に及ぶ。

このことはチェルノブイリの事故【注】が如実に物語っている。事故の規模が大きくなれば地球の人口の半分が壊滅するほど巨大なものになり、その被害は放射能が消滅するまでおおよそ100年に渡って続くことになる。地球には国境も県境もなく、ひとり佐賀県だけの問題でないことは明らかである。しかし、ここまでは従来の原発の話である。これから佐賀で行われようとする...

プルサーマル計画についての、前振りがここまでです。つまり、上記の問題はプルサーマル計画以前の問題です。プルサーマル計画以後の問題とは一体どのようなものなのでしょうか。

プルサーマル計画は深刻さのレベルが格段に高まる。むしろ異質とでも言うべく困難で危険なものだ。ウラン燃料で稼動している原子炉で、核分裂しやすく反応が加速しやすいプルトニウムを燃やそうというのだ。

これは、灯油ストーブでガソリンを焚くようなもので、いったいどうなるかは、火を見る前に明らかだ。技術の未確立、人為ミス、機器の劣化や損傷、地震による事故など、多くの問題を指摘されても、オウム返しに「国が安全性を確認している」と言うばかりで、そのことが不安を増幅させる。事故により爆発的な反応が起こると1000℃、2000℃の高温を容易に超え3000~4000℃に達し、5000℃になることもあるという。これに持ちこたえる物質がどこにあるのだろうか。大地を突き破り地球の裏側まで溶かしつくす、チャイナシンドロームが現実のものとなるのだ。

電力会社や県は「いまもプルトニウムは燃えています」と多額の費用を使って広告を出すが、必然的に発生するものと、それを集めて燃やすのとでは事の重大性が異なるのだ。文言は明確に記憶していないが「あなたはゴミを棄てますか?プルトニウムの再利用..」という広告をバスにまで貼り付け走らせている。所在地さえ曖昧にしか知られていない片田舎・佐賀での出来事だが、地球の危機へと一歩踏み出してしまったのではないか。

危機感を抱いた市民運動家が全国から集まり県庁を囲んで抗議行動を起こし始めた。抗議文を手渡そうとしても知事は応対せず、環境部門の担当者が伝えておくと返事をするばかり。議会では、質問する反対派議員をして「知事は聞く耳を持たない」と嘆かせるほど無力感がみなぎる。

知事にここまでの力を与えたのは誰なのだ。私はもともと政治には疎く、まして市民運動の類に参加することはなかった。それどころか左翼の一部の人々に対して、行政や社会生活を混乱させる趣味的活動ではないかと揶揄したことさえあった。しかし、こと「プルサーマル計画の反対」については全面的に支持し、出来ることがあればデモにも署名にも必要があれば資金カンパにも協力したい。

新聞で読んだ意見では、県主催の説明会には電力会社の関係者が動員され、説明にも納得がいかず反対の声が多かったという。にも関わらずアンケートでは、逆に関係者の思惑が反映する結果となっている。3回の説明会で集った人は、のべ2000人くらいで、県民の1%にも満たない。一般に向けた電力会社側の説明は新聞などによる頼りない安全宣伝ばかりだ。

多分、知事も関係者も真の危険は熟知しているに違いない。「国策だから...」という知事の言葉には政治家用語でいわく「断腸の思いでの決断」が読み取れなくもない。あるいは、邪推になるが知事候補に上がった時点で、落下傘部隊として国から使命を負わされたのかも知れない。

危険な話の終焉を祈って(2)

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2006年 10月 10日

船子和尚

投稿者 by vulcan at 12:25 / カテゴリ: 存在理由 / 2 コメント / 0 TrackBack

『つらつら日暮らし』の禅宗の戸塚ヨットスクール?に船子和尚の故事について触れていました。

これを読んで、自らを省みますと、いくつか思い当たることがあります。

以前管理していたHPのタイトルは『人生は暇つぶし』だったのですが、トップページには以下のように掲げていました。

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人の一生は長いが、それぞれの年齢で出来ることは限られている。ある年齢の間しか出来ないことやチャンスは一生に一度だけしか訪れないことも往々にしてあることで、また、いつそのときが来るのか予想がつかないことも多い。その瞬間瞬間を悔いなく過ごすためにはそれなりの準備と努力が必要で、日々精進、研鑽を積むことが肝要である。我々には、休息は必要でも暇な時間など必要は無い。人生は暇つぶし。暇な時間を潰し続ける者こそ、最高の人生が約束される。

このころは、「『向上心』をもって自己を向上させることだけが人生だ」と考えていました。『人生は暇つぶし』というタイトルについて、当時気に入っていたのですが、やっぱり誤解の多い表現ですし、そうしたひねくれた思想の下ではひねくれた発想しか生まれないと考えて、訣別することにしました。

その後、当ブログにおいて長い迷走期間を経て、『存在理由』カテゴリを作りました。根底にあるのは、「何が正義か」を追求する気持ちです。しかし、善悪を追求しすぎる自分を戒めなければならないと感じてもいました。そんな漠然とした気持ちで読んだ船子和尚の故事ですが、「ああやっぱりな」という感想です。

船子和尚の故事については、雰囲気だけはつかめますが、難しすぎてまだ理解できません。だから、「やっぱりな」という曖昧な感想しか出せません。

私が、感銘を受けたのは以下の点です。
「大いにピッタリと合致した語を言ってはいても、お前は永遠に繋がれたロバのようであるな」
という点と
「糸を千尺の長さまで垂れ流すとき、心は深いところにある。その針から三寸ばかり離れたところを、お前はどうして言わないのか」
という点と
「語に、奥深い真理を帯びれば真理への路はなくなり、舌先で談じても談じていないことになります」
という点と
「お前は、別にあると、思い違いをしているぞ」
という点です。

どう感銘を受けたのかというのは、言葉では表現できません。深く反省したとしか言いようがありません。

また、tenjin95様の

だからこそ、真理を言い得てしまえば、そこには真理はなく、真理がない以上、真理を言い得た言葉は真理を言い得ていないわけです。

という解説にも、うならされました。真理にとらわれない心を持ちながら、真理を追究したいものだと思います。

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2006年 10月 09日

心構え

投稿者 by vulcan at 02:40 / カテゴリ: 存在理由 / 2 コメント / 1 TrackBack

以前、銀行時代の元支店長に「心構えができれば7割なったも同然」と教えられました。

そのときは、経営に関する心構えを説いていたので、今思えば漠然と受け入れていたところがありました。

ところで、『つらつら日暮らし』という曹洞宗の僧侶のブログで、アーミッシュ学校銃撃事件について知りました。

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事件の概要は、「銃を持って小学校に侵入した男(32)が、児童26人と教師らを人質にとった後、教師と男子生徒を解放し、女子生徒を黒板に並ばせて射殺し、5人が死亡、3人が重態、数人が負傷、その後現場で男も自殺した」、というものです。

このとき、13歳のマリアン・フィッシャーさんが年下の仲間を救おうと「私を最初に撃って、ほかの子たちは解放して」と訴えていたことが、負傷した妹の証言によって分かっているようです。

一方、男は、生徒からの質問に対して、「神様に怒りを感じているから」と答え、教室から妻に携帯で電話して、20年前の12、3歳のころ、親戚の幼女2人に性的いたずらをしたことの復讐だと発言したらしく、同様の趣旨の遺書も発見されており、自らの行動を阻止できなかった神に対する復讐という考えなのかと思われます。

この事件のニュース性は、マリアン・フィッシャーさんの自己犠牲的発言と、その後のアーミッシュの特殊性に起因した対応にあり、住民らはロバーツ容疑者の遺族にも弔意を示し、遺族に「この地にとどまってほしい」と話しているそうです。

なお、犯人は、9年前に死亡した娘の墓のそばに埋葬されましたが、娘の死にもとらわれていたと報告されています。

アーミッシュWikipedia
年下かばい「私を撃って!」…アーミッシュ校射殺事件
「アーミッシュ」の学校で3人射殺、米ペンシルベニア州
男が小学校に乱入、女子3人射殺=7人負傷-米ペンシルベニア州
米小学校発砲 児童ら4人死亡、7人重体 男は自殺
<米小学校発砲>容疑者、「過去に性的いたずら」と妻に電話
<米学校乱入射殺>死亡の少女「私を撃って」と哀願

ここで、翻って掲題の件です。心構えというものは様々な出来事に対する心構えがあり、最も大きな問題は死に対する心構えです。老いを自覚し死が迫ってきたと思い至ったときの心構え、不治の病を宣告されたときの心構え、余命を宣告されたときの心構え、突然の事件や事故に巻き込まれたときの心構えなど、普段から心構えをしっかり持っていなければ瞬時に運命を受け入れることができません。

死に限らず、結婚の心構え、受胎の心構えといったものや、成功に対する心構え、失敗に対する心構えなどもあるでしょう。何事が起きようとも、動じない心構えがあれば、ベストの選択ができ、結果を受け入れられるのだろうと思いました。

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2006年 10月 08日

日本グランプリ

投稿者 by vulcan at 09:43 / カテゴリ: / 13 コメント / 0 TrackBack

今日がF1の日本グランプリであることを、昨日NamePに教えられて以来、無性に見たくなりました。NamePは『皇帝シューミの引退に思う』を読んで、私がそんなにF1に熱かったのかと初めて知ったようで、気に掛けていてくれたみたいです。

ところが、本日は、子供たちとアンデルセン公園に行く約束をしており、F1はというと昼の1時40分スタート。F1を見るために子供たちとの約束をキャンセルするか、F1をビデオで録画するかという選択となりましたが、朝起きてみると天気が非常に良く、こんな天気で子供たちを家から連れ出さないのは許されることではないなと思い、生で見るのは諦めました。

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そこで、ビデオの録画予約をしようと考えたのですが、普段、テレビもビデオもコンセントを抜いているので、まずは時計あわせからしなければなりません。長いこと時計あわせなどしたことがないので、マニュアルを引っ張り出し、時計の設定方法を調べながら、マニュアルにしたがって操作をするのですが、設定はリモコン操作しかできず、信号の発信・受信が壊れているのか、できません。

電池を換えてみても、電源のOn・Offだけはできるのですが、その他のキー操作は一切受け付けず、発信装置か受信装置の故障が考えられます。

ここで、とりうる選択肢は、6時間ぐらい前から録画を開始するということで、終了が3時45分なので、今から撮りっぱなしにしておけばF1を丸々カバーできるはずです。ところが、空いているビデオテープはなく、買いに行かなければなりません。

今回F1を録画して、以後、また録画したい番組が出てくるのは何年か先かも知れず、そのころには、流石に我が家もDVDかハードディスクに録画できる装置を購入しているかもしれません。

そもそも、シューマッハの最後の日本グランプリを見たいと思った理由は、見納めておきたいということと、乗り物好きのHikaruが喜ぶだろうという理由であり、であれば、生で見る必要もなく、また、録画を今晩見る必要も無く、結果が分かってから、見れるときに見ればいいと思い始めました。

そんなわけで、シューマッハの最後の日本グランプリは見たいと思いますが、誰か知り合いが録画したビデオかDVDを貸してくれる人が出てくるのを気長に待つことにします。どなたか、録画したという方がいらっしゃったら、お声を掛けて下さるとありがたく存じます。

2006年 10月 08日

自転車新調

投稿者 by vulcan at 03:16 / カテゴリ: 雑感 / 0 コメント / 0 TrackBack

三連休の初日は、特にこれという予定も無く、まったりすごしました。朝起きると、風はまだ強く、雲も出ていましたが、空気が非常に澄んでいて、久しぶりに富士山を拝めていい一日の始まりを感じました。

第一土曜日ということで、ベイタウンニュースの配布の会に参加し、ついでに図書館によって2週間前に借りた本を返却し、新たに子供用に5冊と自分用に1冊借り、新渡戸稲造の『武士道』を予約しました。

家に帰り、子供たちに、借りてきた5冊の本を読み聞かせたのですが、どれもヒットしたようで、子供達はとても喜んでくれました。借りた5冊とは『ももたろう』『いっすんぼうし』『のりもの(五味太郎)』『ちいさなちいさな駅長さんの話』『そうべいごくらくへいく』です。

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普段は子供が自分で選ぶのですが、「親が選ぶときぐらいは古典の名作もいいだろう」と思い、『ももたろう』と『いっすんぼうし』を選んだのところ、私自身も、「作者の意図は別にもあるのではないか」と考えさせられ、非常に奥行きの深い名作であると改めて感心しました。子供たちも、展開のテンポのよさ(分かりやすさ)を気に入ったようです。

『そうべいごくらくへいく』は『じごくのそうべい』の続き物というわけではなさそうで、別バージョンという感じでした。先日、妹が「子供のころ読んだ『じごくのそうべい』を読み聞かせたら子供たちに受けた」とメールで知らせてくれたので、早速図書館で『じごくのそうべい』を借りて読み聞かせたところ、Bianはとても気に入り、何度も「とうちゃん、借りてくれてありがとう」と連発していました。そんなわけで、「また、喜んでくれるだろう」とは思っていたのですが、予想通りで、また、今回は更にはちゃめちゃな展開に、私もすっかり気に入りました。何度も読み聞かせているうちに、多少は関西弁も板についてきたのではないかと密かに期待しております。

『のりもの(五味太郎)』は非常に幼児向きなちょっとした本ですが、のりもの好きなHikaru用で、2分ぐらいで自分でも読める本をと思って借りました。五味太郎氏の作品はどれも我が家は好きなので、迷わず借りてみましたが、予想通りHikaruはとても気に入ってくれました。

『ちいさなちいさな駅長さんの話』は、全ての名詞に『ちいさなちいさな』というフレーズが付き、「どういう理屈なんだろう」と未だに合点がいかず、禅問答のような不思議さがあるのですが、汽車が各ページに描かれているためHikaruは気に入り、『ちいさなちいさな』というフレーズの可愛らしさがBianを魅了し、また、絶妙な余韻の作り方(つまり何かを考えさせられる構成)に私も気に入り、予定外にヒットした逸品でした。当初は汽車の本なのでHikaru用にと思い、多少はストーリー性がありそうなのでBianにもつまらなくはないかなと思って借りたのですが、とても素晴らしい作品です。

その後、Bian用にベイタウン祭りの時にただでもらってきたリサイクル自転車に補助輪を付けてあげ、子供二人が自転車で、私がTamaを乗せたバギーを押して、検見川浜のマクドナルドに行きました。私はHikaruが自転車を乗るのを見るのは初めてだったのですが、とても上手に乗りこなしているのにびっくりしました。普段、毎日、家の中で、バイクを乗り回しているので、車体感覚が抜群で、左右のバランス感覚も優れていますし、障害物との距離も体で測れるようです。

この、祖母に買ってもらったバイクというのは、ボーネルンドの赤・青・黄色の入ったしゃれたバイクで、お客さんはほぼ必ず感心します(Hikaruがずっと乗り回しているからでもあるのでしょうが)。そのたびにHikaruは「ひーばーばに買ってもらったんだ」と嬉しそうに答え、「わざわざおばあちゃんにねだって買ってもらってよかったなぁ」と思います。祖母がこの前のGWに千葉に来てくれた際、子供の記憶に残るようなプレゼントを是非とも買ってもらいたいと思い、BianとHikaruの嗜好を研究し尽くした結果、Hikaruにはバイクで、BianにはMadMagというマグネットのおもちゃにしたのでした。

というわけで、子供二人がさっさと進んでいくのですが、信号があろうがなかろうが、交差点では必ず止まって親の到着を待ってくれ、姉のBianも精神的に成長して、Hikaruが抜かしても怒らず、Hikaruも、私が後ろから「前を見ろ」と指示するときちんと前方を注意し、適切に対応するので、感心しました(つまり気が散りやすいのが玉に傷なのですが、子供なのである程度仕方がないでしょう)。

マクドナルドに到着し、注文をしていたらNamePがようやく追いつき、休憩がてら遅めの昼食をとり、その後更にイオンまで向かいました。先週イオンにあるGeoでビデオを借りたのでそれを返すのが目的です。イオンまでも子供たちの乗りっぷりは非常に危なげがなく、二人で感心していました。

とうとうイオンまで到着し、最初に自転車ショップに行きました。というのはBianの自転車に鍵がないので、何かキャラクター物の鍵を買おうかと言っていたためです。すると、NamePが「そろそろ自転車を買い換えたい」と言ったので、「じゃ、買って帰ろうか」と返事しました。

というのも、7年前に買った自転車はライトが点灯しなくなって私も常々不満を持っていましたし、最近はとうとうギアの変速もできなくなり、車体は錆が進行しすぎて錆取りクリームで磨いても綺麗にならなくなっていたからです。

一度おもちゃ売り場で子供たちを遊ばせ、その間に私はビデオを返却しに行き、その後自転車ショップで再度物色しました。そうしたところ、赤のしゃれた自転車に惹かれるものを感じ、NamePも同様だったので、それを買い求めました。

自転車本体に、荷台、幼児乗せ椅子を付け、サイドスタンドを直立スタンドに交換し、防犯登録をしてもらって、25,000円でおつりが来ました。

3段変速なのですが、ギアは後輪内部に埋め込まれており、チェーンの位置を左右にずらして変速するタイプとは異なって、チェーンはあくまでも移動しません。後輪ブレーキも車輪内部に組み込まれています。また、ライトの発電動力も前輪内部に組み込まれており、暗くなってくると自動的にセンサーがキャッチして点灯しだすため、無灯火のまま走ることがなく、また、点灯時に重くならない画期的な仕組みでした。

ということで、色も鮮やかな赤で目立ちますし、ハイテク技術が取り入れられており、車体も軽く、これで25,000円しないというのはとても安い買い物だったと喜んでいます。

帰りは、私が新調した自転車に乗り、BianとHikaruが自転車で続き、NamePがバギーを押すという編隊を組んだのですが、2歳にして9キロの行程をあっさり踏破するHikaruには感心します。

2006年 10月 05日

自分を刷り込むことについて

投稿者 by vulcan at 16:21 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

多くの人は自分で自分を刷り込むものだと思います。それは、弱さに立脚した刷り込みであったり、申し訳なさに立脚した刷り込みであったり、自己を抑制するための刷り込みであったりと様々な要因があります。達観した方であれば、自分を刷り込むことなど忘れてしまうものでしょうが、そのような人は非常に限られた存在でしょう。

また、多くの人は、無意識に他人を刷り込もうとするものだと思います。やはり理由は千差万別ですが、自分にとってこの人にはこうあってほしいという思いから、刷り込むというのが本質だと思います。

例を挙げるとすれば、女性が、一般に30歳を過ぎたり、あるいは最近では20歳を過ぎたりすると、自分のことを「おばちゃん」と揶揄する場合がありますが、これが刷り込みになっていると思うのです。

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生まれて初めて自分のことを「おばちゃん」と揶揄したころは、きっと自分は『おばちゃん』ではないと思いながら、ジョークのつもりで言っているのだと思います。ところが、何度も何度も繰り返しているうちに、周りの人はその人のことを、「自分で何度も言っているぐらいなのだから『おばちゃん』なのだろう」と思うようになるのと同時に、本人も、「周りが自分のことを『おばちゃん』と思っているようだから、自分はやはり『おばちゃん』なのだろう」と思うにいたるわけです。

「自分が『おばちゃん』であるかそうでないかはさしたることではない」と強い心を持っているのであれば、まだいいと思います。繰り返しているうちに他人が『おばちゃん』と言うようになっても動じないからです。

ところが、老いに対する恐怖を持っていたり、若者に対する妬みを感じているとしたら、自分のことを『おばちゃん』と揶揄する気持ちで名乗るのは、それが軽い気持ちであったとしても、厳に慎まなければならないと考えます。

なぜなら、自他共に『おばちゃん』であることを認めたときには、恐怖と妬みが意識を離れて表に出てくるからです。

同様に、自分のことを『おっちゃん』というのも、達観しているので無い限りあまり使わない方がいいでしょう。あるいは「自分は頭が悪いから…」とか、何かと無意味に「すみません」ばかり発言するのも、よくない習慣であり、自分を刷り込むことになると思います。

一方、「ポジティブな刷り込みはいいのか」というと、まだましだと思いますし、何らかの刷り込みをしないと生きていけない場合が多いのでやむを得ません。しかし、それで終わっているとしたら、まだまだだと言うことではないでしょうか。

2006年 10月 05日

Yahoo!Japanに登録を依頼しました

投稿者 by vulcan at 12:12 / カテゴリ: / 6 コメント / 0 TrackBack

『MovableTypeを活用して脱初心者!』というサイトは、2006年6月6日に投稿を開始し、11日後の6月17日までに32本の投稿を行なった時点でYahoo!Japanに登録を依頼しましたところ、その3日後の6月20日に、つまり投稿開始後2週間で登録通知が到着しました。

あの当時は、ほとんど神がかった状態で、一番多い日は一日10本も投稿しました。『MovableTypeを活用して脱初心者!』については、ある程度テーマがはっきりしていたし、己の能力の限界も見極め可能な分野でありましたので、32本投稿した時点で、ほぼ書きたいことは書き終わったと感じることができました。実際、それ以後の投稿数は、1年3ヶ月の間に、厳選リンクも含めて23本しかなく、8ヶ月も投稿できない期間さえありました。

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Yahoo!Japanは、『MovableTypeを活用して脱初心者!』が登録された3ヶ月後に、表示方式が登録サイトを表示し、ロボット検索結果は付け足しで表示する方式から、ロボット検索結果を先に表示し、登録サイトはひと手間踏まないと表示されない仕組みとなりました。

その結果、『MovableTypeを活用して脱初心者!』の訪問者数の推移を見て分かるように、登録後の3ヶ月でピークを打ち、以後、4分の1程度で推移しています。しかし、ほとんど更新していないにもかかわらず、一日平均30人以上訪問してくれているのは、Yahoo!Japanに登録されているお陰でしょう。

対して、『Vulcanの日記』というサイトは、日記なだけに、種々雑多なことを書くわけで、テーマを絞りづらく、したがって、カテゴリー登録を行なうにはかなり困難な分野だと思っています。また、日記である以上基本的に生きている限り完成することはなく、いつ登録を申請するかを見極めるのも難しいと感じます。

そんなわけで、『Vulcanの日記』に関しては、Yahoo!Japanに登録することを意識していなかったのですが、訪問者数の推移を見ると、8月以降日々更新しているだけに、『MovableTypeを活用して脱初心者!』よりも訪問者数が多くなってきました。この傾向が続くのか、見放されるのか、指数関数的に伸びるのかは神のみぞ知るですが、運命をただ待つだけというのは怠慢ですし、訪問者数を伸ばすことは、いくつかの目的を達成させる上で、良いことの方が多いと考えておりますので、人事を尽くすことにしました。

ということで、本日、Yahoo!Japanに宛てて、以下の登録申込をしました。

カテゴリ:
芸術と人文/人文/文学/エッセイ/日記

コメント:
育児を契機に人生観の大転換を感ずる。人生如何に生くべきかを知るために我が存在理由を正す。

付記:
三十数年間の半生において、私の信念を表せば、向上心、効率主義、合理主義、個人主義、利己主義だったと思います。
子供を持ち、彼らから、日々笑いと生きがいをもらっていくうちに、私が執着してきた事がそれほどには重要なことでもなさそうだということを理解し、また、己の存在の小ささを実感しました。
そうこうしているうちに、人生如何に生くべきかを考えるようになり、現在、我が存在理由を正している最中です。
是非多くの方にご訪問頂き、『存在理由』カテゴリをご覧頂いて、聡明な方にはサジェストしていただくとともに、私とともに人生を学ぼうと志してくださる方をも得たいと思います。
また、『育児』カテゴリをご覧頂き、笑っていただければ望外の喜びであります。

ということで、人事を尽くすと言っても今のところYahoo!Japanに登録を依頼しただけですが、自分なりに機が熟したと判断したことを申し上げたかった次第です。

2006年 10月 04日

固定観念を捨てる

投稿者 by vulcan at 23:48 / カテゴリ: 存在理由 / 1 コメント / 0 TrackBack

人間というものは、固定観念というものにとらわれ、なかなかそれを捨てることが難しいものですが、捨ててみると新たな境地に到達するものだと思います。

偉そうにに言えるほどのことではありませんが、私の場合、固定観念を捨てる実験として眼鏡をかけるのを止めてみました(新聞を取らないというのも実験といえば実験かもしれませんが)。

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私の視力は、両目で0.7ほどであり、ちょっと見にくいが日常生活が困難なほどではない状態で、30歳まではほとんど眼鏡をしていませんでした。眼鏡は、映画を見るときに限られていたのですが、徐々に視力に自信がなくなり、免許センターで裸眼での視力テストを放棄し、バイクに乗るときやレンタカーを運転するときは掛けるようになっていました。

2001年の正月、パリで年越しをしたときに、眼鏡を新調しました。

新しい眼鏡になり、気に入って、それ以来、普段から眼鏡をかける生活となりました。そのころは、視界が広がったような気になり、非常に新鮮だったと記憶しています。

その後、気に入っていたその眼鏡も寿命を迎えたのか、ちょくちょくねじが外れて、そのたびにドライバーで直していたのですが、とうとうねじ穴が馬鹿になり、仕方がないのでセロテープで補修するという無様な格好となってしまいました。

そんなわけで、意を決して、眼鏡を新調したのが2004年5月です。

新しい眼鏡を手に入れ、シャープなビジネスマンを気取っていたのもつかの間、2005年1月に、普段の運動不足を顧みず、子供たちとかけっこをして、両足大腿部肉離れの惨事を起こし、転倒時に眼鏡も微妙に曲がってしまいました。

ただでさえ微妙にゆがんだ顔が、更にゆがんで見え、非常にこっけいな上に、眼鏡の掛け具合もあまりよろしくなく、あまり気持ちの良い状態ではありませんでした。とはいえ、1年も経たずに買い直すのも癪に障るし、かといって修理してもらうのも面倒くさく、そのままにしていたのですが、あるとき、眼鏡を掛けずに家を出て、一瞬取りに帰ろうかと思ったのですが、「まあ、一つ固定観念を捨てる意味で眼鏡を掛けない生活に戻すか」と、5年半ぶりに眼鏡なしの生活に切り替えました。

それ以来、眼鏡なしの生活も随分なれ、普段の生活においてはなんら支障がないことが分かりました。眼鏡をかけていた際に微妙に感じていたむずかゆさもなくなり、逆に眼鏡を付けていたときの方が、目の疲れを感じていたようにさえ思います。

ということで提案ですが、いきなり「車を所有していないと生活できない」という固定観念を捨ててみるのは難しいかもしれませんが、些細なことでいいので何か固定観念を捨ててみるというのはいかがでしょうか。

2006年 10月 04日

臨済宗妙心寺派

投稿者 by vulcan at 18:15 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 1 TrackBack

恥ずかしい話ですが、この歳になるまで自分の家の宗旨宗派を私はほとんど記憶しておらず、かすかに、弟が以前、「吉村家は臨済宗だ」と言っていたような気がする、という程度の記憶があるだけで、宗派が何なのか、墓のある寺の名前、そもそも臨済宗とは何かということまで、全くの無知でした。

そこで、一度しっかりと記憶しようと一念発起し、父に問い合わせたところ、宗旨宗派は『臨済宗妙心寺派』であり、墓があるのは『全性寺(ぜんしょうじ)』であると、携帯メールの返事が来ました。このとき、多少、臨済宗について調べ、禅宗、つまり武士の宗旨宗派であることを無意識に喜んだものですが、他宗派に対する偏見であったと、今思えば恥ずかしく思いますし、浄土宗や浄土真宗についても、非常に真剣なものだということが理解できるようになりつつあります。

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自分に禅宗の血が流れていることを知り、禅とは何かを理解しようと思い、図書館で目に止まった最初の本が『禅のヒント』(パトリス・ジュリアン)です。これは、フランス人のパトリス・ジュリアン氏が禅を学んで書いた入門書ですが、パトリス・ジュリアン氏については、NamePが料理方面の造詣の深さにおいて気に入っており、私も、たまたま購入した家具雑誌でパトリス・ジュリアン氏の家具に関するこだわりを美しいと感じていましたので、何と無しに縁を感じました。

但し、氏の『禅のヒント』については、曹洞宗の接心について書かれていたのですが、公案というものがいまいちピンとくるものがなく、なんとなしに胡散臭さというほどではないにせよ、違和感を感じ、「あまり良書ではないな」と思っていました。

そうこうしているうちに月日が経ち、再び宗旨宗派について感心が高まってきたので、「本で学ぶのも大切だが、ひとつインターネットで臨済宗の勘所を学べないものか」と思いながら巡っていましたところ、大本山妙心寺の関東圏での布教の拠点として平成17年に設立された東京禅センターというものの存在を知りました。

ここでは、禅に関する公開講座の講演録を閲覧することが可能で、まだまだ緒についたばかりですが、最初に読んだ『公案』に関する公演録は、『公案』に関する私の疑問に答えてくれ、「なるほど私の感じた違和感はこれか」と納得がいきました。そこで一部を紹介したいと思います。

白隠禅師の公案体系の場合は、言ってみれば唐の時代の禅というのが水滴のような自然の「まる」とすれば、宋の時代の公案禅、白隠慧鶴禅師の禅というのは限りなく自然な円に近いような人工の多角形だと考えていただいたらいいと思います。つまり、唐の時代の禅では悟りというのは自然の「まる」。その一方で宋の後の時代の禅僧たちの悟りというのは、やはり人工的なものですから、限りなく円に近い無限の多角形ということなのですね。ですから、この公案体系というものも本来はそうあってはいけないのですが、修行者の境地を少しずつ三角形から四角形に、四角形から五角形に、五角形から六角形、七角・・と無限にこの円に近づけていくような、そういう風な修行という側面があることは否定できないところなのですね。公案、禅の問題というものに関しますと、とても一時間や二時間では論じることができないのですけれども、例えばこの円というものが非常に公案の修行というものを象徴するのですね。「ウロボロス」というものがございますけれども、錬金術のシンボルで自分の尻尾を噛んでいる蛇の図があるのですね。あの「ウロボロス」と同じなのですね。禅の修行というのは、例えば公案の修行というものがここから始まってぐるりと回って、元に帰るという。そういった面があるわけなのですね。ですから決して梯子のように直線のものではないのです。円なのです。その様にお考えいただいたらと思うわけなのです。

つまり、『悟り』を得るというのは完全な円を描くことであり、それを到達しやすいカリキュラムとしたのが公案であるというわけですが、あくまでも人工的であるため、限りなく円に近づいても円ではないわけで、最後はどちらにせよ飛躍して円にならなければならないわけです。そして、人工的であるがゆえに、T神父の著書で紹介していた澤木老師が言うように、一歩間違えれば魔境に陥りやすい面もあるのでしょう。

そして、人間の'心'にその反復を学ばせるか、あるいは、人間の体にその反復を学ばせるかで、臨済禅と曹洞禅の違いがある訳なのです。つまり、臨済宗の場合には、人間の心の反復というものを一生懸命にさせる。心に重きを置くということですね。一方で、曹洞宗の場合には、'体'です。だから、永平寺さんとか、総持寺さんとかに行かれますと、実に修行僧の方の一挙手一投足が、美しいのです。どこで左足を出してどこで右手を下ろしてと言うのが、全部、決められているのです。よく言われますよね。お手洗いの作法まで決まっている。顔の洗い方も決まっている。これは、'型'ですね。体をその型にいれるのです。仏ならばこの型のように動くのだから、この型のように動きなさい。その生活を一生続けてれば、あなたも仏なのだという考え方なのですね。ですから曹洞宗の場合には体から入る。臨済宗の場合は心を重んじる。どちらも一緒なのですよ、禅なのだから。心身一如というでしょう。その方法論の違いが、臨済と曹洞の禅の違いを分ける一つの側面になっているわけなのですね。この'型'というのはですね、最近非常に見直されているわけなのです。

同じ禅宗なのに、なぜ臨済宗と曹洞宗があるのか、その区分が明確にできていませんでしたが、これも解決できた気がします。臨済宗は公案を際限なく続け、心の方面から『悟り』に近づけようとするのに対し、曹洞宗は一挙手一投足まで全てを『型』にはめ、それを習慣として体得させることから『悟り』に近づけようとしているのでしょう。曹洞宗の開祖である道元があれほどまでに『祗管打坐(しかんだざ;ひたすら坐禅)』を説いていたのかが分かってきた気がしました。但し、いずれも、どちらにより重きがあるかということでの違いであり、曹洞宗でも公案は活用され、臨済宗でも型は重視されているはずです。

ところで、私や、特に弟は、昔、食事のとき、「姿勢が悪い」と言って、厳しく父にしかられていました。背中を丸めてだらしなく食事をすることを怒られるわけで、背中に『ものさし』を入れられて、是が非でも背筋を正されていました。また、「くちゃくちゃ」と噛んでいる音を立てることも叱られました。

父は無意識に、姿勢、つまり、型の大切さを教えていたのだろうと思います。残念ながら、姿勢については、時折正す程度で、四六時中正しい姿勢を保つほどには至っておりませんが、型の重要性は理解し始めました。そこで、子供達にも姿勢の大切さは、時折伝えていかねばならないと感じています。但し、毎晩毎晩姿勢で怒って、食事の味もあったものではないという教育法は、ちょっと極端なので我が家の家風ではないと思っています。

その時に何を悟ったのかというと、その時に初めて自分が今まで二十年かけて修行してきた公案の意味が分かったと、つまり、そのときに倉内老師のお悟りは、人工的な多角形から完全な円になったわけです。分かります?ですから、禅のおもしろさというのはそういうところにあるのですね。一生懸命に二十年修行していても、限りなく円に近いかもしれないけれども、本当の円じゃないというところがある、その代わりに、たったそれだけのことで、自然の円のお悟りに至ることもあるということなのですね。そういう風なことを考えていきますと、私たちがかかわっております禅の世界というのは、実にさまざまなまさに多面体、プリズムのような局面を見せてくれると、そう思うわけなのです。

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2006年 10月 04日

『中国古典からもらった不思議な力』北尾吉孝

投稿者 by vulcan at 00:04 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 1 TrackBack

本書の目的は、『はじめに』に書かれた以下の文章から読み取れます。

本書は、中国古典にいままで接したことがないという人たちに、是非一度は読んでもらいたいという私の強い思いから、若い人たちにも、できる限り関心が持てるような構成にした。
すなわち、
「どうしたら、世俗的な意味での成功を手にすることができるか」
「どうしたら、人生を楽しく充実させることができるか」
といった問題に対する処方箋を、私が中国古典より選んだ聖賢の名言を引用しつつ、私自身の体験を交えて平易に解説するという形にした。
このようなやり方は、中国古典を読むということでは邪道かもしれないが、あえて本書が契機となり、これまで古典とは縁がなかった人たちが中国古典に関心を持ち、次は『論語』へと進んでくれれば、本書の一つの目的は果たせたと言えよう。

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北尾氏本人が言っているように、本書のやり方は邪道でしょう。しかし、北尾氏という非常に個性が強く、且つ実績のある人物がこうしたやり方を採るというのは、意義は高いと思います。また、勇気のいることです。敢えて邪道を選んだ北尾氏に対して、『論語』に関心を寄せた私は賛辞を贈りたい思いです。

但し、中国古典をまともに時間をかけて学ぶということに関しては、人それぞれの選択であり、誰しもが中国古典に対する造詣を深めるのがいいとは思いません。中国古典の精神、つまり儒教の精神は持ち合わせるべきであると考えますが、それは感覚的に理解することも可能なわけであり、古典をそらんじるのは、それが得意であり、好きな人が行なえばよく、苦手であり、他に好きなことがある者は、造詣の深い知人を大切にすれば足りると考えます。

そういうわけで、本書で引用された中国古典の名言は、いずれも一家言あるものばかりですが、私が気に入り、以後大切に記憶に止めたいと思ったのは次の一つのみでした(実は、もう一つあるのですが、そちらは『人物をつくる』でも出てきた名言であり、先に紹介した『積善の家に余慶あり』です)。

「一利を興すは一害を除くに若かず、一事を生ずるは一事を減ずるに若かず」

モンゴル帝国のチンギスハンに一目ぼれされた男、耶律楚材のいい言葉です。『十八史略』に出てきます。
当時五十歳を超えていたチンギスハンが、弱冠二十数歳、この「金」の国の王族の血を引く耶律楚材に一目惚れし、宰相として迎えた。そして、それが大宰相になった。
その人が、人間は増やすことばかり考えがちだが、減らすということは大事なことだというのです。
この「進むだけでなく、退くことも考える」というバランス感覚も、仕事を成功させていく上で絶対に必要な知恵として、あげておかなければなりません。

一害を除く方が大事だとも、一事を減ずる方が大事だとも言っていません。あくまでも、一利を興すのも重要だが一害を除くのも重要である、一事を生ずるのも重要だが一事を減ずるのも重要だと言っているわけです。

拡大基調の時というのは、基本的に誰がやってもそれなりに結果は出るものです。もちろん、優れた指導者であれば、好機を無駄にせず、効率よく、飛躍的に拡大させるでしょうから、違いは大きく出ますが。一方、縮小基調というのは、指導者の優劣がはっきり出ると思います。決断を遅らせれば遅らせるほど事態は悪化しますし、過去の成功に引きずられ、あるいは現実を直視できず、結果として決断が鈍りがちです。

えてして絶頂期というのは衰退の始まりですが、絶頂であるがゆえに衰退の兆しが見えなくなります。理屈はなんとでもこねられるものですから、衰退の兆しに対して誤った解釈を行なったり、あるいは、自滅に導くような愚策を、美しい理屈で覆って正当化してしまうことが往々にしてあるものです。

そうしたとき、上記の格言を常に念頭においていれば、目的を見失ったり、自分の器を見誤ったりしないだろうと思いますし、被害を最小限に食い止める決断を即座に下すことができるのだろうと思います。

ところで、本書の中で中野孝次氏について、以下のコメントがありました。

中野孝次さんの本などを読むと、ある程度年をとったら、全ての社交を断ち、静かな人生を送りなさいというようなことが書かれています。
私は必ずしも中野さんの考えに賛同しているわけではなく、年をとったら、年をとった者同士の世界の中で、一つの生き方を見出せばいいと思っています。

これを読み、「おそらく北尾氏も中野孝次氏の『道元断章-『正法眼蔵』と現代』を読まれたのだな」と思い、私が選んだ正法眼蔵の解説書が悪くない選択だったようで、うれしく思いました。

確かに、中野孝次氏の『道元断章-『正法眼蔵』と現代』を読んでいると、中野氏のピュアな心は理解できるものの、少し首を傾げざるを得ないところもままあります。ピュアな心の叫びであり、尊重はするものの、「それほど世の中捨てたものではないのではないか?」と考えてしまうわけです。

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2006年 10月 03日

広島ドッグパーク崩壊に思う

投稿者 by vulcan at 13:13 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 2 TrackBack

あんなこと、こんなこと。どんなこと?』に、広島ドッグパークの惨状について報告されていました。

広島ドッグパークの惨状

我が家は犬や猫を飼いません。犬も猫も責任をもって飼うことが難しいと考えるからです。犬、猫は言うに及ばず、小鳥も亀もウサギもハムスターも、子供が幾ら欲しがっても、「責任を持って飼える」という確信を持つに至るまでは慎重にならざるを得ません。

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我が家で飼っているのは、海水魚と金魚、及びいくつかの植物です。これらだけでも、世話をするというのはとても大変なことです。

海水魚の場合、旅行で1週間ほど家を空けても、飢え死にすることはなく、金魚などは、全く餌を与えなくともプランクトンや藻を食べて生きるものですが、それでも、水がよどまないように、非常に気を使っています。

水がよどんだとしても、すぐに死ぬわけではなく、徐々によどんでいくのであれば、全く命に別状が無いとさえ言えますが、しかし、耐性が低下しているのは確実と思われ、僅かの環境変化で死んでしまうと考えています。したがって、水が清浄な状態をできるだけ保てるように、いろいろ工夫を凝らし、なるべく気持ちの良い水流を作ることと、適度に掃除することに苦心しています。

海水魚の場合、ミネラルを水中から摂取しますので、ミネラルが無くなった海水をそのままにしておくのは魚にとって良いことではなく、海水の交換は2週間に1度の割合です。バクテリアが極端に減らないように、且つ、排泄物を適度に除去するため、砂利をかき混ぜ、下層の水を3分の1ほど取り出し、新鮮な海水を補います。

日照も、イソギンチャクは言うに及ばず、魚もストレスを溜めさせないために重要なファクターであり、人の都合で日照時間が異ならないよう、タイマーで午前中4時間、昼に一度休憩させて、夕方に4時間照射するようにしています。

魚の数も重要です。そもそも、60cm水槽の容量で自然な数というのは1匹でしょう。それを人間のエゴで数匹群生させるわけですから、限度は4、5匹、それ以上は無理です。なるべく、ストレスが生じないように、隠れる場所をいくつか提供し、カクレクマノミのためにイソギンチャクを入れています。

海水魚の世話をすることは、私にとってライフワークの一つであるため、何ら苦になりません。しかし、それなりの時間が掛かるのも事実です。

海水魚の世話だけしていればいいわけではなく、子供が金魚すくいで取ってきた金魚のために、できる限りのことをしています。つまり、単なる金魚鉢に清流を作る工夫です。見た目にはあまり美しくないかもしれませんが、魚にとってはいい感じだろうと悦に入っています。

植物はもっと大変です。種によって、水の与え方、日照の加減などの適正が異なるため、正しい知識の習得と試行錯誤が欠かせません。やはり、毎日目を向けるのが大切だと思います。毎日目を向けていれば、試行錯誤の末、いい状態を作ってあげることができるでしょう。「時々、葉っぱを愛情を込めて拭いてあげて欲しい」との、前の持ち主からの伝言に従い、時々葉っぱを拭いてあげると、不思議なことに、程なく生き生きしてきます。

いくつかの植物を同様に愛情をこめて育てるというのは、やはり好きだからできることですが、それでも相当な時間が必要です。

それだけでなく、家の掃除もとても大切です。我が家でも、夜中、おもちゃがそこらに転がっている状態が往々にしてあります。おもちゃの気持ちを考えると、申し訳なく思います。おもちゃに限らず、浴槽の排水溝の気持ち、浴槽の床や壁の気持ち、便器の気持ち、空気口のフィルターの気持ち、布団の気持ち、マグカップの気持ち、麦茶ポットの気持ちなどを考えて、平日帰宅後も、30分は何らかの掃除に時間を充てるようにしています。それでも、なかなか完璧な状態には遠く及びません。

そんな状況なので、犬や猫を飼うなどまだまだです。全てが満足のいく状態に保て、それでも余裕があれば飼うのもいいでしょう。そうでなければ責任を全うすることなどできるものではないと考えます。

そもそも、所有するということは、それらを適切に保つ責任が生じることだと思います。物欲に駆られて、何でも欲しがるというのは、人間の業でしょうが、管理しきれるかどうか、良く考える必要があると思います。

翻りまして、広島ドッグパークです。詳しい経緯は分かりませんが、まず間違いないのは、動機があまりにも不純だったことであり、己の器を知らなさ過ぎたと思います。結果が自分ひとりに及ぶのであれば自業自得ですが、いくつもの命に悪影響を与えるというのは、頭で理解し、実践できない場合は、厳しく罰する必要があるでしょう。

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2006年 10月 03日

傲慢、謙虚、卑屈

投稿者 by vulcan at 11:58 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

謙虚という言葉の定義はなかなか難しく、「一歩前に出れば傲慢となり、一歩退けば卑屈となる」というようなイメージがあり、「果たして謙虚というのは日本人の美徳なのだろうか」と疑問を思うことも往々にしてあるものです。

何ゆえ、人は傲慢になり、また、卑屈になるのかということを考えると、私が申し上げるまでもなく、自意識が過剰なる所以です。自意識が過剰ゆえ、自信が過ぎる者は傲慢となり、自信が無い者は卑屈となるわけです。

つまり、謙虚というものは、自意識を捨てる、言い換えれば、自分を捨てるところに生まれるのだと思います。一方、謙虚というものは、身に付けるものではなく身に付くものだとも思います。そのためには、自分というものをしっかり持つことが肝要です。

「自分を捨て、且つ自分をしっかり持つ」という、一見すると二律背反の状態に到達して、真の謙虚さが身に付くのではないでしょうか。

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偉そうに申し上げる私ですが、そもそも、『存在理由』のカテゴリーの主たるテーマが「自意識過剰な私のルーツ探し」であり、以下に示す『随筆』での文脈からも、まだまだ真の謙虚さが身に付いた状態では無いことが分かります。

謙虚さに悩む

昔から、ことある毎にというとオーバーだが、頻繁に自分の謙虚さの不足について、母親なり、弟なりが指摘してきた。

子供のころから心にも無いのに謙(へりくだ)ったり、へつらったり、謙遜したりするのは、自分にうそをつくことになるので嫌だった。大抵のことは誰だってやればできるわけで、やると決めて、努力すればできるのが当たり前で、それをしないのは怠慢か、できないという思い込みが激しいかのどちらかだ。やるべきことをやらず、お上手を言ったり、妬むことに終始している者を見ると、怠慢を指摘するか、思い込みを取り払うかしてあげたくなるが、そうなるとますます尊大に振舞っているように見えてしまうので、できていない人間と接するのが苦手で、その結果、我が道を行くという性格を強めたように思う。

また、母親にとっては、子供はいつまでも子供のようで、何かと私の言動に心配を覚えるようだ。愛情に感謝しつつも、多少の反発心から、「俺は天才だから」「俺にできないことはない」と言って心配が無用であることを伝えるのだが、当然、火に油を注ぐようなものだ。最近は、とりあえず感謝の意を示すことを心掛けてはいるが、本質的には「心配には及ばない」ということを伝えるわけで、謙虚さが足らないという印象には変わらないだろう。

謙虚さとは何か、自分はそれをどう身に付けるべきかということに長年悩んだ。しかし、あるときそれも吹っ切れた感がある。それまでは、実力を磨き、他人に実力を認めさせることに執着していたが、自分に実力があり、周りもそれを認めていることを理解したころから、虚勢を張る必要が無くなった。そうすると、尊大に振舞うことも無くなり、そう見えないかという心配も無くなった。

謙虚さとは今もって難しい概念だが、地位に溺れて思い上がることさえ気をつけていれば、自然と身につくまで待っていた方が良いように思う。無理に身に付けようとすれば自分の器を小さくすることにもつながりかねない。

『随筆』を書いてから2ヶ月が経過し、謙虚については、とりあえずの結論に達しました。

繰り返しになりますが、まずは、自分というものをしっかり持つことが大事です。自分というセルフイメージをしっかり持ち、それをぶれないようにすることがまず何より必要です。そうであれば、まだまだセルフイメージに到達していない間は、他人に『傲慢』と思われても、セルフイメージに到達した折には徐々に『傲慢』さが抜け、セルフイメージを超える成功を収めだしても、自分というものがしっかりしているので、以後は『謙虚』という境地に到達するでしょう。まさに、『実るほど 頭を垂れる 稲穂かな』というわけです。

そして、「自分というものをしっかり持つ」ことの裏に、「自分を捨てる」ということが重要です。両者は表裏一体だと思います。あるいは、「自分というものをしっかり持つ」ことを超越したところに「自分を捨てる」境地があるのかもしれません。つまり、セルフイメージに到達するまでは、「自分というものをしっかり持つ」であり、セルフイメージに到達した以後は「自分を捨てる」ということです。

なかなか奥の深い『謙虚』ですが、どうにかここまで到達したのも、M.T.氏の教えに従い、毎日何回も「無上甚深微妙法 百千萬劫難遭遇 我今見聞得受持 願解如来眞実義」を唱えてきたおかげだと思っています。

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2006年 10月 03日

『人物をつくる』北尾吉孝

投稿者 by vulcan at 00:21 / カテゴリ: / 7 コメント / 0 TrackBack

先日、会社の書庫を整理していましたところ、北尾吉孝氏の『人物をつくる』が出てきました。4年ほど前、氏の出版を記念して贈呈されたもので、氏のサインがありました。

北尾氏には、6年前、今の会社の最初の仕事の関係で、30分ほどお目にかかる機会がありました。あのときは、私はといえば『蛇に睨まれたかえる』という状況で、とても北尾氏の記憶に残るような才覚は持ち合わせておらず、せっかくの機会を楽しむ余裕も無く、一刻も早く面談が終わることを願っていたように思います。

そんなわけで、北尾氏に対しての印象としては、『怖い』というのがまずあり、更に、ソフトバンクグループに対する勝手な思い込みも重なって、『傲慢』、『成り上がり』、『運が良かっただけ』というような、相当な偏見を抱いておりました。

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したがって、4年前に本書を贈呈されたときには、まるで読む気が起きず、書庫に追いやっていたわけですが、先日目にしたときは、北尾氏の人間学がいかなるものかを知りたいと思い、読んでみることにしました。

タイトルの『人物をつくる』という語感から、「思い上がっているのではないだろうか?」と少し思いましたが、中身を読んでみると、そんなことは全くの思い過ごしで、北尾氏が非常に謙虚な方であり(但し、私の定義する謙虚という意味で非常に謙虚だということであり、世間一般に言われている(謙虚と卑屈との区分が曖昧な)謙虚という意味では多少は謙虚だという程度かもしれません)、また、あれだけの実績を残してきているだけに非常に聡明な方であることがうかがい知れました。特に、北尾氏が、「神道」「仏教」「儒学」を大切にしている点が理解でき、「日本の将来は捨てたものではない」と思いました。

本書は、北尾吉孝氏の人となりを理解する上で非常に価値が高いと思いますが、座右の書とすべきかどうかというと、サインが無ければそれほどでもないと思うかもしれません。つまり、北尾吉孝という世俗的な成功者が記した書であることが、価値の根源なのだと思います。

とはいえ、私にとっては、二つの点で非常に役に立ちました。一つは、本書を契機に道元の『正法眼蔵』に興味を持ったという点であり、もう一つは、やはり本書を契機に松下幸之助の『指導者の条件』に興味を持った点です。

もしかすると、北尾氏以上に人間学について優れた見識で記した書物を読み、そこに道元の『正法眼蔵』と松下幸之助の『指導者の条件』が紹介されていたとしても、二つの書籍に興味を抱かなかったかもしれません。北尾氏ほどの人物が絶賛する『正法眼蔵』と『指導者の条件』とはどのようなものか、というのが大きいのだと思います。

本書を読んで心に残ったのは、運命について述べた次の一節です。他にも何度か読めば更にいくつか出てくるかもしれませんが。

例えば、芥川龍之介さんは、『侏儒の言葉』のなかで、こう言っておられます。

「運命は偶然よりも必然である。
運命は性格のなかにあるという言葉は、決して等閑に生まれた言葉ではない。」

「等閑に生まれた言葉ではない」とは、いい加減に生れたものではないということです。これを読んだときに、「それはそうだ。なるほど」と思いました。

運命とはいい加減に生れたものではないという点以外に、「それはそうだ。なるほど」としか解説していないわけですが、それだけに、立ち止まって何度か読み返しました。

運命が性格の中にあるというのは、「なるほど言いえて妙だ」と思いました。これは、すぐその後で挙げた『易経』の「積善の家に余慶あり。積不善の家に余殃あり(善行を施す家には余分の恵みが来る。不善を施す家には余分の禍が来る)」とセットで理解すべきと思いました。

つまり、性格というのは、持って生れた部分、つまり遺伝的な部分と、家庭環境に大きく左右されると思いますが、そうした性格が運不運を決めるということだと思います。素直な心、分かち合いの精神を育む家庭・家系は、その子孫が、運を引き寄せる素直な心を自然に受け継ぐため、運が良いということになるのだと思います。

運というものは、一つは解釈であり、一つは常日頃から運を見逃さない心構えであると思います。素直な心で解釈できるかどうか(ひねくれた解釈をしないかどうか)、好機をものにできる心構えができているかどうか(ぼけっと運が通り過ぎるのに気がつかずにおくかどうか)が重要なわけです。

そうして考えると、「運命は性格のなかにあるという言葉は、決して等閑に生まれた言葉ではない。」ということが、すっと入ってくるわけです。であれば、「運命は偶然よりも必然である。」というのも、まさに真理だということが分かるはずです。

【2006/10/4追記】

そういえば、北尾氏は本書の中で、ご自身が相当な勧善懲悪論者であることを述べており、「世の中は善悪で区分することはほとんどできない」と普段から思っている私などは、かなり違和感を抱いたのですが、北尾氏の人となりや業績を理解するに連れて、時には勧善懲悪が最善である場合もあろうと思うようになりました。

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