2006年 10月 13日

危険な話の終焉を祈って(2)

投稿者 by vulcan at 16:23 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

再び、温心堂主人による『危険な話の終焉を祈って』から引用します。

think-Pu.net-考えよう、プルサーマル・プルトニウム

危険な話の終焉を祈って(1)

「危険な話」は原発問題を考える契機となり、幾冊かの本も読んだ。その一人である高木仁三郎氏は原子力の研究者を経て、原発反対の市民運動家となった。その活動は内外から賞を受けるほど評価が高く、1998年、市民の立場で科学を読み解く「高木学校」というNPOを設立した。2000年の秋、63歳で亡くなるまでの2年間はガンと戦いながらの活動であった。「原発事故はなぜくりかえすのか」という本が死後、岩波新書から出版された。本では「友へ」という著者からのメッセージで締めくくられている。

   後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう
   活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その
   賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで
   必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。

これほどまでに真摯な情熱を抱き、そして悲愴に満ちた学者に比べ、原発関係者や行政はあざ笑うかのようにはぐらかし隠蔽しときには改竄し、小さな町村の首長や政治家と結託し、あからさまな茶番を演じる。

   このとき私が痛感したのは、この役人たちと我々との間には公益性という
   ことについての認識に大きなギャップがあるということです。役人たちは
   公益性を定義するのは国家の側であり、国家の役人がやっていることが
   公益に則することであって、民間の人間がこれに異を唱えるのは公益に
   反するということを、ほとんど無前提に言うのです。40代の課長クラスか
   ら始まって20代の係官まで、ほとんど全員が平気で言うのには驚いてし
   まいました。
   1997年といえば、動燃はいわば全社総ざんげのような形で、今までの
   事故を隠してきたり、正確に報告してこなかったり、あるいは情報を
   十分に公開してこなかったことについて、自己点検を行い徹底的に内部
   の体質改善に心がける、ということが大きく宣伝されていた時期にあた
   ります。実はその真っ最中に、昔と何も変っていない虚偽報告が行わ
   れていたことが明らかになったので、私は大変に驚いたのです。

虚偽報告や改竄をしなければ生き延びられないのが原発の運命ともいえる。そして、計画の途上で発覚した虚偽や改竄又は事故の発生により、幾度か計画は頓挫した。このような神風がここ佐賀にも吹かんことを祈る。原発はただ核物質を燃やすだけではなく、その再処理や廃棄物の扱いに莫大な費用と技術的困難さと命がけの危険を伴う。このため、プルトニウムの再処理はアメリカ、ドイツが撤退し、増殖炉についてもアメリカ、イギリス、フランス、ドイツという並居る先進国が失敗して開発を断念した。日本では1995年の「もんじゅ」の事故により、電力業界でも死語になっていたが、「プルーサーマル計画」と装いを替えて息を吹き返した。それがいま何故、選りによってここ佐賀なのか。

公益性というのは極めて不明確な言葉です。誰にとっても益することなどないわけで、力のある者、声の大きい者に益することが得てしてまかり通っていると思います。また、閥や機関の存続が何よりも優先され、公益性という便利な言葉ではぐらかされるということも多いのではないでしょうか。

公益性を口にする者は、もっと志が高くあるべきです。新渡戸稲造の「武士道」には以下の言葉があります。

義理という文字は「正義の道理」の意味であるが、時をふるに従い、世論が履行を期待する漠然たる義務の感を意味するようになったのである。その本来の純粋なる意味においては、義理は単純明瞭なる義務を意味した。したがって我々は両親、目上の者、目下の者、一般社会、等々に負う義理ということを言うのである。これらの場合において義理は義務である。何となれば義務とは「正義の道理」が我々になすことを要求し、かつ命令するところ以外の何ものでもないではないか。「正義の道理」は我々の絶対命令(カテゴリカル・インペラティヴ)であるべきではないか。

公益性を口にする者は、「正義の道理」に基づいた『絶対命令』に従うべきであり、それさえ貫いているのであれば、後世になって、失政であったと評価されたとしても、何ら恥じることはないと思います。

続けます。

プルトニウムは耳掻き一杯で数万人を殺戮できる毒性をもち、核暴走が起こりやすく、そのうえ放射能の半減期に24000年を要する。

増殖炉の開発段階において、フランスではたびたび核暴走がおこり、その時間も5/100秒という短いものだった。わずかな瞬間の危機を誰が制御しうるというのだ。「運転を止めればよい」という当局の説明が空しい。アメリカでは2度の炉心溶融事故をおこしている。またドイツでは原子炉の熱を水に伝えるナトリウムが、その水と反応したことで火災事故が頻発した。高温の水蒸気は圧力も上昇し過酷な条件のため配管などが劣化を起こしやすい。

机上で繰り広げる空論が現実に完璧に遂行されてこそ可能な夢物語なのだ。どこかにわずかのミスや故障が起こる、突如地震や災害に襲われる、それだけで制御不能になる恐れがあるのだ。日本では地震のため、83年、87年に福島原発で核暴走寸前で原子炉停止が起こっている。さらに93年には女川原発でも起こった。大事に至らなかったのは「神の庇護」と感謝すべきかも知れない。

リスクは何事にもつきものではあるが、原発についてはリスクゼロでなければならない。いままでに、プルトニウム燃料の開発を含めこの計画に投じられた税金は1兆5959億円になり、これによって得た収入はわずか6億円に過ぎない。引き続き推進するならば巨額なコストになり、バックエンド(原発終了時の後始末)事業費として19兆円が試算されている。ところで半減期で24000年という廃棄物を誰がどのように受け継いでいくのだ。

記録に残る人類の歴史でさえまだ5000年である。「地下300mの安全な地層に処分する」という安全キャンペーンそのものが懸念材料となる。100あったものは24000年後に50になり、さらに24000年を経て25になる。これがゼロになる日まで人類が存続できるだろうか。ほぼ安全といわれるまでには10万年の保障が必要といわれる。

このようなプルトニウムをウランと混合し(MOX燃料)従来の軽水炉で燃やすというのがプルサーマル計画である。先に述べた増殖炉での失敗の数々が暗い影を落とす。全世界がプルサーマルからの撤退を決断しているため、小実験以外の本格的な運転データは全くない。プルーサーマル計画が現実のものとなれば、佐賀は世界で初の壮大で危険な実験場となり、いままでの例から、おそらく高確率での失敗は免れないだろうといわれている。先進各国が断念し、国内各地の首長が断念した重みを轍とし、ここでも断念するべきなのだ。その知恵や費用を新たなエネルギーの発掘や開発に向けることは、原発より困難な夢物語とは思えない。

僅か数十年の電力供給のために、24000年もの間、後世に重荷を背負わせなければならないとは、どう解釈すれば道理に適うと言うのでしょうか。

危険な話の終焉を祈って(3)

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