2006年 10月 04日

臨済宗妙心寺派

投稿者 by vulcan at 18:15 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 1 TrackBack

恥ずかしい話ですが、この歳になるまで自分の家の宗旨宗派を私はほとんど記憶しておらず、かすかに、弟が以前、「吉村家は臨済宗だ」と言っていたような気がする、という程度の記憶があるだけで、宗派が何なのか、墓のある寺の名前、そもそも臨済宗とは何かということまで、全くの無知でした。

そこで、一度しっかりと記憶しようと一念発起し、父に問い合わせたところ、宗旨宗派は『臨済宗妙心寺派』であり、墓があるのは『全性寺(ぜんしょうじ)』であると、携帯メールの返事が来ました。このとき、多少、臨済宗について調べ、禅宗、つまり武士の宗旨宗派であることを無意識に喜んだものですが、他宗派に対する偏見であったと、今思えば恥ずかしく思いますし、浄土宗や浄土真宗についても、非常に真剣なものだということが理解できるようになりつつあります。

自分に禅宗の血が流れていることを知り、禅とは何かを理解しようと思い、図書館で目に止まった最初の本が『禅のヒント』(パトリス・ジュリアン)です。これは、フランス人のパトリス・ジュリアン氏が禅を学んで書いた入門書ですが、パトリス・ジュリアン氏については、NamePが料理方面の造詣の深さにおいて気に入っており、私も、たまたま購入した家具雑誌でパトリス・ジュリアン氏の家具に関するこだわりを美しいと感じていましたので、何と無しに縁を感じました。

但し、氏の『禅のヒント』については、曹洞宗の接心について書かれていたのですが、公案というものがいまいちピンとくるものがなく、なんとなしに胡散臭さというほどではないにせよ、違和感を感じ、「あまり良書ではないな」と思っていました。

そうこうしているうちに月日が経ち、再び宗旨宗派について感心が高まってきたので、「本で学ぶのも大切だが、ひとつインターネットで臨済宗の勘所を学べないものか」と思いながら巡っていましたところ、大本山妙心寺の関東圏での布教の拠点として平成17年に設立された東京禅センターというものの存在を知りました。

ここでは、禅に関する公開講座の講演録を閲覧することが可能で、まだまだ緒についたばかりですが、最初に読んだ『公案』に関する公演録は、『公案』に関する私の疑問に答えてくれ、「なるほど私の感じた違和感はこれか」と納得がいきました。そこで一部を紹介したいと思います。

白隠禅師の公案体系の場合は、言ってみれば唐の時代の禅というのが水滴のような自然の「まる」とすれば、宋の時代の公案禅、白隠慧鶴禅師の禅というのは限りなく自然な円に近いような人工の多角形だと考えていただいたらいいと思います。つまり、唐の時代の禅では悟りというのは自然の「まる」。その一方で宋の後の時代の禅僧たちの悟りというのは、やはり人工的なものですから、限りなく円に近い無限の多角形ということなのですね。ですから、この公案体系というものも本来はそうあってはいけないのですが、修行者の境地を少しずつ三角形から四角形に、四角形から五角形に、五角形から六角形、七角・・と無限にこの円に近づけていくような、そういう風な修行という側面があることは否定できないところなのですね。公案、禅の問題というものに関しますと、とても一時間や二時間では論じることができないのですけれども、例えばこの円というものが非常に公案の修行というものを象徴するのですね。「ウロボロス」というものがございますけれども、錬金術のシンボルで自分の尻尾を噛んでいる蛇の図があるのですね。あの「ウロボロス」と同じなのですね。禅の修行というのは、例えば公案の修行というものがここから始まってぐるりと回って、元に帰るという。そういった面があるわけなのですね。ですから決して梯子のように直線のものではないのです。円なのです。その様にお考えいただいたらと思うわけなのです。

つまり、『悟り』を得るというのは完全な円を描くことであり、それを到達しやすいカリキュラムとしたのが公案であるというわけですが、あくまでも人工的であるため、限りなく円に近づいても円ではないわけで、最後はどちらにせよ飛躍して円にならなければならないわけです。そして、人工的であるがゆえに、T神父の著書で紹介していた澤木老師が言うように、一歩間違えれば魔境に陥りやすい面もあるのでしょう。

そして、人間の'心'にその反復を学ばせるか、あるいは、人間の体にその反復を学ばせるかで、臨済禅と曹洞禅の違いがある訳なのです。つまり、臨済宗の場合には、人間の心の反復というものを一生懸命にさせる。心に重きを置くということですね。一方で、曹洞宗の場合には、'体'です。だから、永平寺さんとか、総持寺さんとかに行かれますと、実に修行僧の方の一挙手一投足が、美しいのです。どこで左足を出してどこで右手を下ろしてと言うのが、全部、決められているのです。よく言われますよね。お手洗いの作法まで決まっている。顔の洗い方も決まっている。これは、'型'ですね。体をその型にいれるのです。仏ならばこの型のように動くのだから、この型のように動きなさい。その生活を一生続けてれば、あなたも仏なのだという考え方なのですね。ですから曹洞宗の場合には体から入る。臨済宗の場合は心を重んじる。どちらも一緒なのですよ、禅なのだから。心身一如というでしょう。その方法論の違いが、臨済と曹洞の禅の違いを分ける一つの側面になっているわけなのですね。この'型'というのはですね、最近非常に見直されているわけなのです。

同じ禅宗なのに、なぜ臨済宗と曹洞宗があるのか、その区分が明確にできていませんでしたが、これも解決できた気がします。臨済宗は公案を際限なく続け、心の方面から『悟り』に近づけようとするのに対し、曹洞宗は一挙手一投足まで全てを『型』にはめ、それを習慣として体得させることから『悟り』に近づけようとしているのでしょう。曹洞宗の開祖である道元があれほどまでに『祗管打坐(しかんだざ;ひたすら坐禅)』を説いていたのかが分かってきた気がしました。但し、いずれも、どちらにより重きがあるかということでの違いであり、曹洞宗でも公案は活用され、臨済宗でも型は重視されているはずです。

ところで、私や、特に弟は、昔、食事のとき、「姿勢が悪い」と言って、厳しく父にしかられていました。背中を丸めてだらしなく食事をすることを怒られるわけで、背中に『ものさし』を入れられて、是が非でも背筋を正されていました。また、「くちゃくちゃ」と噛んでいる音を立てることも叱られました。

父は無意識に、姿勢、つまり、型の大切さを教えていたのだろうと思います。残念ながら、姿勢については、時折正す程度で、四六時中正しい姿勢を保つほどには至っておりませんが、型の重要性は理解し始めました。そこで、子供達にも姿勢の大切さは、時折伝えていかねばならないと感じています。但し、毎晩毎晩姿勢で怒って、食事の味もあったものではないという教育法は、ちょっと極端なので我が家の家風ではないと思っています。

その時に何を悟ったのかというと、その時に初めて自分が今まで二十年かけて修行してきた公案の意味が分かったと、つまり、そのときに倉内老師のお悟りは、人工的な多角形から完全な円になったわけです。分かります?ですから、禅のおもしろさというのはそういうところにあるのですね。一生懸命に二十年修行していても、限りなく円に近いかもしれないけれども、本当の円じゃないというところがある、その代わりに、たったそれだけのことで、自然の円のお悟りに至ることもあるということなのですね。そういう風なことを考えていきますと、私たちがかかわっております禅の世界というのは、実にさまざまなまさに多面体、プリズムのような局面を見せてくれると、そう思うわけなのです。

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題名 変成女子説 第二弾: 穢土真宗
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ウェブログ: コミカル・ミュージック
時刻: 2006年11月19日 09:19
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