2006年 10月 10日

船子和尚

投稿者 by vulcan at 12:25 / カテゴリ: 存在理由 / 2 コメント / 0 TrackBack

『つらつら日暮らし』の禅宗の戸塚ヨットスクール?に船子和尚の故事について触れていました。

これを読んで、自らを省みますと、いくつか思い当たることがあります。

以前管理していたHPのタイトルは『人生は暇つぶし』だったのですが、トップページには以下のように掲げていました。

人の一生は長いが、それぞれの年齢で出来ることは限られている。ある年齢の間しか出来ないことやチャンスは一生に一度だけしか訪れないことも往々にしてあることで、また、いつそのときが来るのか予想がつかないことも多い。その瞬間瞬間を悔いなく過ごすためにはそれなりの準備と努力が必要で、日々精進、研鑽を積むことが肝要である。我々には、休息は必要でも暇な時間など必要は無い。人生は暇つぶし。暇な時間を潰し続ける者こそ、最高の人生が約束される。

このころは、「『向上心』をもって自己を向上させることだけが人生だ」と考えていました。『人生は暇つぶし』というタイトルについて、当時気に入っていたのですが、やっぱり誤解の多い表現ですし、そうしたひねくれた思想の下ではひねくれた発想しか生まれないと考えて、訣別することにしました。

その後、当ブログにおいて長い迷走期間を経て、『存在理由』カテゴリを作りました。根底にあるのは、「何が正義か」を追求する気持ちです。しかし、善悪を追求しすぎる自分を戒めなければならないと感じてもいました。そんな漠然とした気持ちで読んだ船子和尚の故事ですが、「ああやっぱりな」という感想です。

船子和尚の故事については、雰囲気だけはつかめますが、難しすぎてまだ理解できません。だから、「やっぱりな」という曖昧な感想しか出せません。

私が、感銘を受けたのは以下の点です。
「大いにピッタリと合致した語を言ってはいても、お前は永遠に繋がれたロバのようであるな」
という点と
「糸を千尺の長さまで垂れ流すとき、心は深いところにある。その針から三寸ばかり離れたところを、お前はどうして言わないのか」
という点と
「語に、奥深い真理を帯びれば真理への路はなくなり、舌先で談じても談じていないことになります」
という点と
「お前は、別にあると、思い違いをしているぞ」
という点です。

どう感銘を受けたのかというのは、言葉では表現できません。深く反省したとしか言いようがありません。

また、tenjin95様の

だからこそ、真理を言い得てしまえば、そこには真理はなく、真理がない以上、真理を言い得た言葉は真理を言い得ていないわけです。

という解説にも、うならされました。真理にとらわれない心を持ちながら、真理を追究したいものだと思います。

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コメント

> 管理人様

TB&リンクをいただきありがとうございます。
我々は何かを学ぶというとき、どうしても何か「正しいことがある」ことを求めて、見解の根拠の強さを求めてしまいます。実際には、根拠を求めているのではなくて、その強さを求めているだけかもしれないのに、思い違いをしています。正しい言葉ばかり連ねようとするものは、この「正しさが欲しい症候群」に罹っていると言えましょう。

船子の言葉は、ご指摘のようにこのような正しさの根拠を無化し、それを求めようとする煩悩自体を破壊しようとします。そこで、破壊した結果、なにを言うことが出来るのか?夾山が到った境地とはそこでしょうし、或いは拙僧のような禅僧は、常にその境地に到ろうとしています。最も、到ろうとしては行くことが出来ず、放棄してこそ手に満つるものでありますね。

投稿者:  tenjin95   at 2006年10月10日 13:18

tenjin95様

ありがとうございます。

日々、素朴に生きることを心がけ、精進したいと思います。

投稿者:  Vulcan   at 2006年10月10日 15:23
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