2006年 11月 19日

『正法眼蔵』勉強会参加報告(2)

投稿者 by vulcan at 08:24 / カテゴリ: 存在理由 / 3 コメント / 0 TrackBack

金曜日に再び勉強会に参加しました。質疑応答に多くの時間が割かれ、その中で、「自己から学ぶのではなく、自己を学ぶ」ことが学びの在り様だと聞きました。自己自身を学ぶということは「非常に個人的な問題」であり、「(知的なやり取りの)勝ち負けではない」とも仰っていました。

学びとは非常に個人的な問題であり、意見を戦わせてどちらが優れた教えかを競っても意味がなく、釈迦も「あなたはこうした方がいい」というように、個別のアドバイスを中心に据えていたそうです。

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よく私は、人はどう生きるべきかとか、日本はどうあるべきかとか、そんな感じで普遍的な真理(在り様)を追究しようとしていますが、同時に、そうした普遍化とか抽象化とかをしていると、矛盾を感じたり、矛盾を無視すれば偽善となるように思って悩んでいました。

そのような普遍化、抽象化も大切なテーマかもしれませんが、もっとその前に個人的なことに目を向け、人それぞれの異なる事情に立脚し、それぞれのステージにふさわしい解決法を探るべきなのかなと思いました。

勉強会に参加してきたばかりの今はまだ、結論を出すには早計であり、これからよく考えてみたいと思います。但し、なんとなく気が楽になったことだけは確かです。

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2006年 11月 18日

千羽鶴と只管打坐(2)

投稿者 by vulcan at 00:07 / カテゴリ: / 7 コメント / 0 TrackBack

先々週から、ある方のために千羽鶴を折っています。ようやく666羽(111枚入り6袋)折りました。会社の同僚が45羽手伝ってくれ、娘も20羽ほど折ってくれていましたので、自分で折ったのは600羽ほどかと思います。

なぜ千羽鶴と只管打坐を同時に論じようと思うのかというと、ひたすら座禅することとひたすら折ることに何か通じるものがあるように思うからです。

600羽も折っていますと、何も考えないでも折れます。折り方も、見本に記載された折り方は初心者向きに迷わせないことを第一の目的に記載しているようであり、結構無駄な手順があります。美しく折ろうと思うと、手順の流れの美しさにも目が行くわけで、無駄を無くし、効率的な折り方に行き着きます。但し、私の場合は折り方も2段階、ないしは3段階ありました。

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当初、といっても3年前に祖父のために折っていたころですが、効率化に目覚め、手順を変えてみました。そのときの基本的なコンセプトは流れ作業です。作業を分断し、同じ行程をひたすら繰り返す。そして、100羽程度、同じ行程が終わると、後半の行程に100羽全てに取り掛かる、というものでした。これは、折り方を完璧に体が覚えきっていない場合に有効な気がしますが、一方で、前半は鶴を折っている気がしないというデメリットが大きいようにも思います。

ところが、鶴も随分折れるようになってくると、手が無駄に動くことのロスの方が、同じ行程ばかり行なうことで得られる効率化よりも大きくなっています。試しに、行程を分けずにやってみると、手があっちに行ったりこっちに行ったりしない分、非常に滑らかに折れることが分かりました。

しかし、前半の行程の一部は2枚まとめて折るということをした方が、折る回数が少なくなるので効率が良いと感じていました。しかし、最後は、やはり手の滑らかな動きこそが一番美しく、かつ一番早いということに行き着き、一枚ずつ折ることとなりました。この境地に至って初めて只管打坐との比較論ができるように思います。また、祖父のときは手が痛くて痛くて仕方がありませんでしたが、無駄に力まなくなったのか、今回は全然痛くなく、呼吸するほどに折るとまでは行かないにせよ、かなり自然な感じです。

そんなわけで、今回の千羽鶴はできた鶴もかなり美しいと思いますが、折る行程自体も非常に美しいと思っています。また、折ること自体、全く苦痛ではなく、どちらかというと楽しいですし、もっと言えば、折っていないと落ち着かないぐらいです。千羽鶴依存症というわけではないと思いますが、お菓子を食べ続けないではいられないとか、タバコをすい続けないではいられないとかに似た境地でなくもないかなと思ったりします。

鶴を折っているときはひたすら鶴を折っているのかというと、そういう時もありますが、平日は仕事がありますので、そうも言っていられません。そこで「ながら折り」になっているわけで、そこは只管打坐とは大きく異なる点ではあります。仕事と言っても、私の場合、メールの返事や報告書、議事録など、文章を書くのに結構な時間が費やされます。また、プログラムを書いたりデータベースを構築するというのも、考えている時間の方が長いものです。鶴を折っていると、次の一文が思い浮かばないとか、思うようにシステムが組めないといった理由でイライラするということも減り、いい感じです。

一方、業務時間外に鶴を折るときは、ほとんどの時間、ひたすら折っています。このときは只管打坐といっていいのではないかと思います。無心かどうかというと、折る相手との思い出に耽ったり、病気に向かい始めてから今に至るまでの彼の気持ちを慮ったり、今後の自分の生き方を考えながら折っていますので無心なときはあまりないのですが、それが悪いとは思っていません。但し、彼の病気が回復することを祈りながら折ることはしません。それは打算の心だと思うからです。

只管打坐も無心がベストかもしれませんが、無理に無心になろうと意識しているとすれば、その方が害が大きいと思います。そして、病気の回復を祈って鶴を折るのと同様に、悟りを得ることを願って座るのは邪道でしょう。

P.S.
打算、あるいは煩悩的にさえならなければ、考えながら折るのはありだとすると、業務時間内でも、推敲しながら、あるいは検討しながら折るのは只管打坐だと言ってもいいかなと思えてきました。つまり、座禅→文章→座禅→文章というサイクルであったり、座禅→プログラミング→座禅→プログラミングというサイクルであったりしているわけで、座禅の間はひたすら座禅(千羽鶴)だと言えなくもないかな、と。

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2006年 11月 15日

久留恵さんの遺書を読んで

投稿者 by vulcan at 20:43 / カテゴリ: / 10 コメント / 0 TrackBack

きっこの日記で久留恵さんの遺書を読みました。

パワハラによって、恵さんが自殺を決意するまでに追い詰められたことは想像に難くありません。彼女の立場を思うと非常に憐れに思います。しかしながら、彼女の遺書からは、恐怖と違和感ばかりが際立っており、何とも言いようのない気持ちになりました。

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遺書が全体を通じて発している感情は、憎しみです。ここに名を連ねた3名を祟り殺すまでは成仏しないという強い意思により、「葬式はしないでください」と言っているのではないかと深読みしたくなります。そうした印象に、強い恐怖を覚えました。

違和感の方は、上の二人を祟り殺したくなるほど憎むのは理解できなくもないのですが、3人目の曽於市現教育長が挙げられていることの違和感です。確かに教育長に訴えたのに、校長の不正を正してくれなかったり、公正な裁定を受けられなかったとすれば怨む気持ちも分からないでもないですが、センターに行って1ヶ月で自殺したという点から、恵さんが遺書で非難するほどの確執が教育長との間に生じたとはなかなか想像できません。単に作り笑顔が非情に癇に障ったということではないかと思ってしまいます。

教育長は上の二人と違い名指しされていないため、そこは怨みの気持ちが少なかった表れなのかもしれません。しかし、名前も知らないほど、つまり一度対面しただけであったとすれば、ぞっとします。

教育長は真心のない作り笑顔をしたのかもしれません。しかし、家族でさえ事情に精通するというのは困難であり、それほど人の心というのは分からないものであるのに、神でもない教育長が会ったばかりの時に全ての事情を理解するなどということは不可能であり、作り笑顔で適当にお茶を濁したくなるのも人情です。つまり、教育長に執拗にいじめられたというのなら教育長を怨むのも道理ですが、初対面の人に対して、気持ちを理解してくれなかったという理由で怨んでいるとすると、あまりにも常軌を逸してしまっていると言わざるを得ません。

人生をポジティブに生きる世の中をつくるということは、何と遠い道のりなのでしょう。どうか力をお貸しください。

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2006年 11月 12日

『中世騎士物語』ブルフィンチ

投稿者 by vulcan at 04:18 / カテゴリ: / 5 コメント / 0 TrackBack

フレパ仲間のたんたん氏から、私がVulcanと名乗っていることをきっかけに、ブルフィンチの『ギリシア・ローマ神話』の話題が出て、同じブルフィンチの『中世騎士物語』を薦めていただきました。

『ギリシア・ローマ神話』の方は、神話の辞典みたいで、いろいろ幅広く取り扱っているのですが、引き寄せられるような筋立てとは言いがたく、先に読んだ『あなたが知らなかったギリシャ神話』の方がお勧めです。『ギリシア・ローマ神話』の方は、幅広く神話を紹介することと、神話をなるべく貶めないことが思想としてあったと思われ、それが脈絡のなさ、よそよそしさを感じさせるのではないかと思います。

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ところが、同じブルフィンチの『中世騎士物語』の方は、非常に楽しく読みました。私は図書館で借りて読みましたが、本書を愛蔵しているたんたん氏がうらやましいぐらいです。

主題はアーサー王に関するものですが、アーサー王そのものを描くというよりは、アーサーを含めた円卓の騎士たちの武勇伝というものです。マーリン(騎士ではないですが)、アーサー、ランスロット、トリストラムなどが、ページ数も裂かれていることもあり、やはり印象的です。

この本を読み終わってから、映画「キング・アーサー」を観ました。実は過去にも一度観ていたのですが、記憶がほとんどなく、観始めて「ああ、一度借りて観たな」と思ったぐらいでした。しかし、前回はまったく監督のメッセージが理解できませんでしたが、『中世騎士物語』を読んだあとでは、理解も早く、何が伝えたかったのかが、自分なりに考えることができ、今回借りたのは非常に意義が大きかったと思いました。

『中世騎士物語』において、アーサーが王になった由来は書かれてはいますが、必然性はあまり感じられません。運が良かっただけという印象です。王となった以後は善政を執ったのでしょうが、有能な騎士を統率するほどの人徳があったというのが腑に落ちないほど、今ひとつ印象が低いというのが正直なところでした。

そうした、私のような者の疑問に答えるために作られた物語が『キング・アーサー』であったのではないかと思います。アーサーの、卓抜した正義感、孤独、友情、勇気が円卓の騎士の結束を導いたのだということが、よく分かる映像でした。

最初、アーサーがローマ人であるとの設定に、違和感を覚え、マーリンが敵であることにも疑問を感じました。また、円卓の騎士といっても、ローマに雇われた軍人であり、言ってみればサラリーマン、悪く言えば服役囚なわけで、私の持っていたアーサーと円卓の騎士像はもろくも崩れ去りました。おそらく、こうした印象が、前回観たときに、拒絶反応だけが残り、メッセージを受け取る余裕ができなかったのだと思います。

ところが、今回改めて観てみると、こうした、私の固定観念をぶっ壊す設定が、返ってエンディングを意義深いものにしたことが理解できました。最後に偏見を捨て、過去のしがらみを捨て、ブリトンの王となり、いよいよこれからアーサー王として、円卓の騎士とともに輝かしい時代の幕開けとなるところで映画は終わります。後は皆さんおなじみのアーサー王ということで、今更語っても仕方がないということでしょう。

ところで、『中世騎士物語』ですが、いくつか記憶に止めたい箇所がありました。その中で二箇所を引用したいと思います。

西暦五世紀頃、ローマ帝国が滅亡すると、北部ヨーロッパ諸国には国家的な政府はほとんどなくなったような状態になった。多少とも勢力のある領主たちが、それぞれの領地内で権力を振って地方の政治を執り、たまに共通の目的のため団結することはあっても、ふだんは大方反目しあっているのが常であった。かかる状態のもとでは、平民の権利というものは蹂躙されるままであったから、もし領主たちの勝手な権力を抑圧するなんらかの力がなかったら、おそらく社会は野蛮時代へ逆行してしまったであろう。

幸いそれを食い止める力は、先ず領主たち自身がお互いに対抗し合っているという点に見出された。相互の嫉妬心が彼らをけん制する結果になったからである。次には動機は何であれ、とにかく弱いものを護ることを天職としている教会の影響があった。最後にはいかに情欲や我意にくらまされていても、人間の心の中には生れながら宿っている正義感と寛大の中に、その抑制力は見出されたのであった。

この最後の原因から騎士道は起こったので、無敵の力量、勇気、正義、謙遜、長上に対する忠誠、同輩への礼節、弱者への憐憫、教会への献身等の諸徳を具備する英雄的性格の理想を造り上げた。それはよしんば現実生活においては到達されないとしても、なおもって学ぶべき最高の典型としてみな人に承認されていた理想であった。

教会にも動機が様々あるということをやや皮肉って表現しているところも痛快ですが、ここで述べた理想の騎士像はあくまでも理想に過ぎない可能性を示唆しているのは現実的な発言です。そして、『キング・アーサー』において、アーサーが信じている神は幻想でしかないと言われるシーンを思い出させます。それほど、理想の人物や思想というのは稀有な存在であり、現実的ではないとみなされるのでしょう。

誰の目にも明白なことは、こういう手段で行なわれる社会正義が、いかに乱脈なものであったかということである。本来の目的は悪を矯めるはずの力が、とかくに濫用されてかえって悪を与えることもあった。

従って筋は架空的であるにしろ、当時の世情を正確に写している多くの騎士物語から、私たちはある騎士の城が周りの土地にとっては恐怖の的であった事実を知ることができる。

(中略)

騎士道に関するこの種の理想と実際との矛盾が、騎士道に対して人々の抱いている全く反対な印象の説明となるであろう。一方において騎士道はもっとも熱心な賞賛の主題とされてきたとともに、他方では同じ熱烈さで非難されてきたのである。冷静に批判すれば、騎士道は近代に至って法律の支配に打ち負け、文官が(見た目は騎士ほどに絵画的ではないけれども)鎧を着た闘士に取って代わったということを、私たちは慶賀しないではいられない。

慶賀の字義は『喜び祝うこと。祝賀。』です。一見似つかわしくない表現に思いましたが、確かに冷静に騎士道を批判すれば慶賀という表現も肯かざるを得ない点もあるように思います。しかし、ブルフィンチが『中世騎士物語』を書いた1858年ならいざ知らず、文官の腐敗した現代においても、果たして慶賀という言葉が似つかわしいかと言えば、ちょっとまったと言わざるを得ません。

武官にせよ文官にせよ、理想は稀有であり、徳は容易にゆがめられるということを肝に銘じなければならないと思いました。

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2006年 11月 09日

千羽鶴と只管打坐

投稿者 by vulcan at 00:50 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

座禅をしたのも、まだ先月の1回だけで、それもわずか20分のことですから、只管打坐について語るには経験不足を否定できませんが、少し思うところができたので語ります。

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私は過去に千羽鶴を折ったことが一度だけあり、それは祖父のためでした。

祖父の余命が幾許も無いことがはっきりし、見舞いではありましたが、いよいよ最後の別れを覚悟して神戸に行くことになりました。その数日前より、祖父に奇蹟が起きることを願って千羽鶴を折ることを決意したわけです。

当時は、1時間でどれぐらいの鶴が折れるものか、さっぱり見当も付かない状態でした。折り始めて、がんばっても1時間で20羽、コンスタントにできるのは大体15羽だということがわかり、千羽折ることの大変さを、遅まきながら知りました。

その後、妻の大いなる助けを受けながら700羽ほど折り、弟と妹が100羽ずつ折ってくれ、最後の100羽は神戸に行ってから、両親や祖母、伯母、従兄弟などと一緒に見舞いの前夜に折りました。指先が痛くて痛くてたまりませんでしたが、折りきったことのうれしさが全てを癒してくれました。更に、既に千羽を折ってはいましたが、折り紙も余りがあり、見舞いの病院の待合室での手持ち無沙汰を紛らわせるために、ひたすら鶴を折っていました。

当初の動機は奇蹟を起こすことでしたが、次第に奇蹟などどうでも良くなり、とにかく祖父を思いながらひたすら折ることで得られる、精神的な安定感が非常に心地よかったのを今でも覚えています。

時には無心に折り、時には祖父の思い出に耽りながら折り、時には祖父の今の気持ちを思索しながら折りました。

そうした行いが、只管打坐に通じるものがあるように思う次第です。

本稿は次稿の前振りという位置づけです。それゆえ、千羽鶴と只管打坐との比較について、もう少し考え付くことがありましたら、次稿にて述べてみたいと思います。

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2006年 11月 08日

小泉前首相の使い捨て発言

投稿者 by vulcan at 13:16 / カテゴリ: 雑感 / 0 コメント / 1 TrackBack

小泉前首相が「日本夢づくり道場」の「道場開き」で使い捨て発言をしたことで動揺が走っているようです。

小泉前首相「政治家は使い捨て」…タイゾー議員「ショック」

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 新人議員の育成を目的にした自民党の「日本夢づくり道場」の「道場開き」が7日、東京・永田町の党本部で行われ、小泉純一郎前首相(64)が「政治家は使い捨ての覚悟を持つべき」と発言。郵政造反組の復党問題で揺れる「小泉チルドレン」に“親離れ”を説いた。

 約50人の議員の前で、この日、道場最高顧問に就任した小泉氏は「政治家は使い捨てにされることを嫌がってはいけない。首相も使い捨て。甘えちゃいけない」と断言。復党問題を意識してか「邪魔する人がたくさんいる。敵はあまただが、志を持って頑張ってほしい」と続けた。

 昨年の衆院選で郵政民営化反対の「造反組」を落選に追い込むため、小泉氏自らが送り込んだ「刺客」たちにゲキを飛ばした形。しかし、現在、党内で「造反組」の復党容認論が高まりつつある微妙な時期だけに、チルドレンも“生みの親”の「使い捨て」発言にドッキリだ。

 佐藤ゆかり議員は「含蓄のあるお言葉でした」と大人の受け答えだったが、杉村太蔵議員は「ショック? そりゃそうですよ。使い捨てされないように頑張るだけ」と苦笑い。井脇ノブ子議員は「仕方ないのは分かるけど、やっぱり、小泉さんの言葉は冷たいな~と感じた」と肩を落としていた。

一方、これに対して民主党の菅直人代表代行は批判しているようです。

「自民は使い捨て政党」 菅氏が復党の動き批判

民主党の菅直人代表代行は26日の記者会見で、郵政法案反対議員の自民党への復党をめぐる動きについて「自民党が使い捨ての政党だということを示している。例えば野田聖子さんが戻ってきたら、野田さんの所に刺客で行って比例で当選したりした人は次の選挙で対抗できるはずがない。小泉さんが小泉チルドレンを使い捨てにする政党だ」と批判した。

政治家に優しい政党など糞食らえであり、菅直人代表代行が本心からこのような発言をしているとしたら、完全に民主党は政党として失格だと思います。杉村議員や井脇議員も失格です。

小泉前首相の政策自体には、今のところあまり感心しておりませんが、政治家の本質については、よく心得ていると感じました。

P.S.

今回の発言は小泉チルドレンで使い物にならない議員の切捨てを予告したものであるとの憶測があるようです。その通りかもしれません。しかし、その通りであっても、議員はサラリーマンではなく、雇用契約に守られる存在ではありませんので、心情的な混同があってはなりません。議員は公僕中の公僕であることを常に念頭に置く必要があります。

2006年 11月 08日

空気清浄機のお出迎え

投稿者 by vulcan at 00:16 / カテゴリ: 駄文 / 1 コメント / 0 TrackBack

会社から帰宅する時間が、9時より前の場合、Hikaruが出迎えてくれます。Hikaruは、仮にもう少しで眠りに付く矢先であっても、私の帰宅を察知すると走って玄関まで来てくれるので、親冥利に尽きるとはこのことだとありがたく思っています。

最近は、帰宅時間が9時を回ることがしばしばあり、その場合は、妻も寝付いたばかりで、一眠りさせてあげようと思って、なるべく音を立てないように着替え、お風呂に入り、お風呂の掃除をしてから、妻を起こして食事の準備をお願いするようにしています。

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さて、本日も、帰宅が9時を大幅に回っていましたので、いつものように音を殺しながら着替え、寝室にある整理ダンスにネクタイピンとカフスボタン、ネクタイをしまおうとしていました。

ところが、その際、猛烈におならがしたくなりました(笑)

「ブー」とやって妻を起こしてしまっては、あまりに目覚めの良くない出来事となってしまいますので、何とか持ちこたえて、寝室を抜け出してからと思っていたのですが、タイピンをしまい終えて少しだけ気が緩んだのか、「プッ」とやってしまいました。

(しまった)と思いましたが、妻の起きる気配もなく一安心。と思いきや、それまで、超静音で回っていた空気清浄機が、かすかなにおいの変化を察知して、「ブィーン」と大きくうなりだしました。これには慌てましたが、幸い妻は気がつきませんでした。空気清浄機の敏感さには閉口させられます(笑)

2006年 11月 07日

Hikaruの言語能力の発達

投稿者 by vulcan at 18:12 / カテゴリ: 育児 / 0 コメント / 0 TrackBack

Bianも言葉は早かったですが、姉に影響を受け、また、NamePの子供の接し方が対等な語り口調で、決して幼児語を使わないことから、Hikaruも2歳にしてかなり言語がたくみになって来たようです。

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先週末、思いつきでクリスマスツリーを買いました。それに合わせて、飾りつけも買い求め、家族がなんとなく、金に糸目をつけずに欲しいものを買うという雰囲気になっていました。気に入ったものをボンボンとカートに投げ入れる我々の様子を見て、Hikaruは「今は何でも買いたいものを買っていいんだ」と判断したらしく、玉が10個ほど入った飾りつけセットを持ってきて、「これもいっとく?」とタメ口言ってました。

爆笑させられた我々は、あまり必要そうにも見えなかったその飾り付けで、幾らするのか確認もしませんでしたが、セリフの面白さを買って「いっとこか」と返事をしました。

その後、早速自宅に帰ってクリスマスツリーの飾り付けをしました。飾りつけはBianが張り切り、Hikaruは自分の出る幕はなさそうだと判断したのか、さっさと飾り付けから遠ざかってしまいました。Bianが、綺麗に飾り付けができて、自画自賛気味に「ステキなクリスマスツリーになったね」と感激して言っていたところ、Hikaruはツリーを見ながら「いよいよクリスマスの季節になったねえ」としみじみ申しており、我々は「老人か!」と突っ込んでおりました。飾り付けに参加させてもらえなかった不満を根に持たず、ナイスなセリフで雰囲気を和ませてくれるHikaruに脱帽です。

そんなHikaruなので、友達づきあいにも傾向が見られるようになってきたそうです。話が分かる友達、というか道理が通じる友達が好きなようで、自分よりも年上の子供といるのが楽しいようです。同年代や年下は、おとなしい子は苦手ではないようですが、「それはオレの大切なものだから貸したくない」とか、「交代で遊ぼう」とか、「痛いから嫌だ、止めてよ」とか言っても通じない2歳児は大の苦手なようです。

そして、記憶力、特に人名に関する記憶力はNameP譲りのようで、NamePが「今日は○○ちゃんが遊びに来るよ」と言うと、「え、○○ちゃん?オレ、○○ちゃんの妹の××ちゃんが苦手なんだよね」とか、「○○ちゃんの弟の××ちゃんはオレの大切なものに落書きしたから嫌だ」とか、一度会ったらその兄弟関係や彼らの性格、過去のやりとりしたいきさつまで記憶してしまうようです。

Bianは、名前を覚えるのが苦手な私の記憶力を受け継いでしまったらしく、1年近くたっても、友達の名前を間違えたり忘れたりを平気でします。二人の違いがあまりに顕著で、持って生まれた能力というものを考えさせられます。

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2006年 11月 06日

危険な話の終焉を祈って(5)

投稿者 by vulcan at 13:37 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

プルサーマル・佐賀県民投票実現の請求運動(中間報告)

署名収集活動から4週間が経過し、県議会への請求が効力を有するために必要な署名数(有権者の50分の1の署名;約14,000名)が達成された模様です。しかし、県議会が「県民投票の必要なし」として請求を退ける可能性も十分考えられ、引き続き署名集めに力が注がれています。

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 この署名収集には法律上のたくさんの制約があります。


  • 登録した署名収集人しか署名を集めることができない
  • 自分が住んでいる市町村の有権者の署名しか集めることができない
  • 学校の先生は署名収集人になれない
  • 回覧して署名を集めては行けない
  • 自筆の署名捺印が必要である

などです。

 こうした制約を乗り越えて10月31日現在、集った署名数は14000名を越えました。私たちの呼びかけに応えてご協力いただいた1911人の署名収集人の方々を初め、ご支援いただいています県内外のたくさんの方々に感謝申し上げます。
この県への請求は2ヶ月の間に佐賀県に住む有権者の50分の1の署名を集めれば成立します。佐賀県の有権者は約70万人ですから請求が成立するのは確実です。

そもそも、この署名運動がどのような手続きになっているのかというと

  1. 県知事へ住民投票条例制定を請求する。
      (請求が成立するための要件)
    1. 有権者の50分の1以上の署名
    2. 署名を集める期間は2ヶ月
  2. 県知事は条例制定について意見書を添えて議会に付議する。
  3. 議会で審議の上、可決もしくは修正可決されれば条例が公布される。
  4. 住民投票の実施

という流れです。

登録した署名人は10月31日現在1911人とのことですが、12月3日までの署名期間中も増やすことができるようです。また、住民投票条例をまずは制定する必要があり、裏を返せば今まで住民投票が行なわれたことが無かったということです。それゆれ、「佐賀県で史上初めて県民投票」とのキャッチフレーズが使われているわけです。

これまでのところ、 1996年に新潟県巻町での住民投票を皮切りに、30以上の自治体で条例による住民投票が実施されています。

Wikipediaによると主な住民投票の事例は以下の通りです。

  • 新潟県巻町(1996年8月)

    巻原子力発電所建設の是非を問う。条例制定による日本初の住民投票。反対が約60%を占める。

  • 沖縄県(1996年9月)

    日米地位協定の見直し及び米軍基地の整理縮小に対する賛否を問う。賛成が約89%を占める。

  • 岐阜県御嵩町(1997年6月)

    産業廃棄物最終処分場の建設の是非を問う。反対が約80%を占める。

  • 沖縄県名護市(1997年12月)

    在日米軍普天間基地返還に伴う代替海上ヘリポート建設の是非を問う。「賛成」「条件付き賛成」「条件付き反対」「反対」の4つから選ぶ形式で、初めて3つ以上の選択肢から選択する形式の住民投票となった。結果「反対」が過半数を占めたが、市長はヘリポート建設受け入れを決め、初めて住民投票の結果が反映されない事態となった。

  • 徳島県徳島市(2000年1月)

    吉野川可動堰の建設の是非を問う。投票率が50%に満たない場合は開票そのものを行なわない、とする規定が定められた。反対が約90%を占める。

  • 新潟県刈羽村(2001年5月)

    原子力発電所のプルサーマル計画導入の是非を問う。反対が約53%を占める。

  • 埼玉県上尾市(2001年7月)

    さいたま市との合併の是非を問う。市町村合併に関する初めての住民投票。反対が過半数を占めた。

  • 山口県岩国市(2006年3月)

    在日米軍再編に伴う厚木基地からの空母艦載機移転受け入れの是非を問う。反対が約90%(有資格者の過半数)を占める。ただし、直後の周辺市町村との合併に伴い、条例そのものが失効。

2006年 11月 02日

目的と目標に関する持論

投稿者 by vulcan at 00:15 / カテゴリ: 存在理由 / 2 コメント / 0 TrackBack

教育基本法案比較検討(1)にて目的と目標について以下のように簡単に触れましたが、これらに関する持論を整理してみようと思いました。

『目的』という字義は、『実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。』であり、一方、『目標』という字義は、『見てすぐわかるようにつけたしるし。』です。これに対して、前文で述べている『理念』という字義は、『ある物事についての、こうあるべきだという根本の考え。』です。なお、現行法で規定している『方針』という字義は、『めざす方向。物事や計画を実行する上の、およその方向。』です。

私が一番違和感を感じるのは、政府案が『目標』として挙げていることが、果たして『目標』たりうるかということです。目標とはマイルストーンであり、達成したのかどうかがすぐに分かる性質を備えていなければならず、そうしたものを欠いた場合、寝言に過ぎません。

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目的とは、自分が到達したい在り様であり、到達したかどうかは、客観的に測定するのではなく自分の主観が決めることだと考えています。他方、目標とは、目的を達成するために、最適なマイルストーンであり、到達したかどうかを客観的に測定可能である点が特徴であると考えます。

例えば、「正義を全うする」とか、「大樹となる」とか、「仁義厚い人物の役に立つ」とか、あるいは、「幸せな家庭を築く」とか、「真の友情を育む」とか、「やりがいに満ちた職場を創出する」とか、「多くの人に喜んでもらう」といったものが、私が目的とみなすもので、これらのものはどれも客観的に測定することは(指標は得られるにしても)あまり意味がなく、自分自身が達成したと満足するかどうかが全てです。

目的とは、即ち動機であり、これが長く保たれることで、理念となり、あるいは信念に昇華すると考えます。そして、目的は、常に判断基準として機能します。

「正義に適っているかどうか」、「大樹となるのを阻む卑怯な行動ではないか」、「幸せな家庭を壊す要因になりはしないか」、そんな判断基準となるわけで、目的がなければ全てを損得で、あるいは気まぐれな好き嫌いで判断することになってしまうと思います。

それゆえに、目的は常に念頭におく必要があり、一時も忘れてはならないものだと考えます。一方、目標は、逆に常に執着するのは良くないと考えます。

目標とは、先にも述べたとおりマイルストーン、あるいはメルクマールです(ドイツ語に直しただけですが…)。なぜ目標を持つのかというと、目的達成に最適な道標だからです。目的は非常に曖昧というか、測定不能のものなので、近づいているのかどうかが分かりづらく、ややもすると日常の雑多な事柄に振り回されて目的を見失ったり、なかなか前進しなかったりします。

そこで、目的を見据えた上で、一定期間で測定可能な道標としての目標(マイルストーン)を設定することが、目的達成の近道となります。「資格試験に合格する」とか、「年収○万円を達成する」とか、「資産○万円蓄える」とか、「売上高○億円を達成する」とか、「子供は○人欲しい」とか、そういった類のものが目的に適っているのであれば、目標となりうるでしょう。

しかし、目標というのはそれを定めれば達成できるかというとそうではありません。そして、定めること自体は実はそれほど重要ではないと考えます。目標設定の最大の価値は、手段が明確になる点です。目標を設定することで、「今、何をすべきで、何をすべきでないか(我慢すべきか)」が明確になります。

良いか悪いかではなく(良いか悪いかは目的に照らして判断すれば足ります)、今すべきかどうかは設定した目標が導いてくれます。そして、何をすべきかという手段を明確にしたら、あとは、(次の設定時期まで)目標は忘れてしまったほうがいいと私は考えています。

私の経験則ですが、目標に固執しすぎると目標は遠ざかってしまうか、目標が大きく見えすぎて萎縮してしまいます。恋愛でも意中の人を求めすぎると成就しないように、すべきこと、すべきでないことに専念した方が結果につながりやすいと思います。

そうして、例えば1ヶ月とか、3ヶ月とか、別に1週間でもいいですが、一定期間経った段階で、目標を思い出し、目標が達成できているのか、近づいているのかを測定するとともに、再度今の目標が目的に最も適っているかどうかを検討し、違っていれば目標を修正し、新たな目標に向けて最適な手段が何かを検討する、というプロセスを踏んだ後には、再度目標を忘れてしまう(意識から外してしまう)わけです。

ところで、コミットメント(約束、誓約、公約)という言葉があります。目標をコミットすることが目標達成の強い動機となるということです。しかし、コミットメントには魔性が潜んでおり、毒にも薬にもなるということは留意しておく必要があると思います。

コミットメントは目標達成の強い原動力となり、何が何でも目標を達成しようとする力が働きます。そのため、あらゆる手段が駆使されることとなり、非常に厳しい目標でも達成しうる奇蹟が起こります。

しかしながら、コミットメントには二つの魔性が潜んでいると考えます。

一つは、コミットメントにより、目標が実体以上に大きく見えるという魔性であり、「ああ、とても自分には無理だ」と己に暗示をかけてしまうことがある点です。無謀な目標設定であればあるほどこの魔性の毒性は高まります。そして、日々は忘れるべき目標が常に頭から離れず、目標に執着しすぎて、返って目標を遠ざけてしまうものだと思います。

いま一つは、コミットメントにより、目的が見失われる魔性です。あらゆる手段を駆使するあまり、目標と目的が混同されてしまい、目標は達成できたとしても、目的からはずいぶんはなれたところに至ってしまう、それも取り返しの付かない場所に、ということが得てして起こり得るものです。

そんなわけで、コミットメントは、最善の手段と不屈の精神を提供するツールであることをわきまえ、魔性にとらわれないよう心がけることです。また、やたらに(場の雰囲気や成り行きで)コミットすべきではなく、コミットする価値を自分の中に見出した上で行なうべきだと思います。