2006年 11月 02日

目的と目標に関する持論

投稿者 by vulcan at 00:15 / カテゴリ: 存在理由 / 2 コメント / 0 TrackBack

教育基本法案比較検討(1)にて目的と目標について以下のように簡単に触れましたが、これらに関する持論を整理してみようと思いました。

『目的』という字義は、『実現しようとしてめざす事柄。行動のねらい。めあて。』であり、一方、『目標』という字義は、『見てすぐわかるようにつけたしるし。』です。これに対して、前文で述べている『理念』という字義は、『ある物事についての、こうあるべきだという根本の考え。』です。なお、現行法で規定している『方針』という字義は、『めざす方向。物事や計画を実行する上の、およその方向。』です。

私が一番違和感を感じるのは、政府案が『目標』として挙げていることが、果たして『目標』たりうるかということです。目標とはマイルストーンであり、達成したのかどうかがすぐに分かる性質を備えていなければならず、そうしたものを欠いた場合、寝言に過ぎません。

目的とは、自分が到達したい在り様であり、到達したかどうかは、客観的に測定するのではなく自分の主観が決めることだと考えています。他方、目標とは、目的を達成するために、最適なマイルストーンであり、到達したかどうかを客観的に測定可能である点が特徴であると考えます。

例えば、「正義を全うする」とか、「大樹となる」とか、「仁義厚い人物の役に立つ」とか、あるいは、「幸せな家庭を築く」とか、「真の友情を育む」とか、「やりがいに満ちた職場を創出する」とか、「多くの人に喜んでもらう」といったものが、私が目的とみなすもので、これらのものはどれも客観的に測定することは(指標は得られるにしても)あまり意味がなく、自分自身が達成したと満足するかどうかが全てです。

目的とは、即ち動機であり、これが長く保たれることで、理念となり、あるいは信念に昇華すると考えます。そして、目的は、常に判断基準として機能します。

「正義に適っているかどうか」、「大樹となるのを阻む卑怯な行動ではないか」、「幸せな家庭を壊す要因になりはしないか」、そんな判断基準となるわけで、目的がなければ全てを損得で、あるいは気まぐれな好き嫌いで判断することになってしまうと思います。

それゆえに、目的は常に念頭におく必要があり、一時も忘れてはならないものだと考えます。一方、目標は、逆に常に執着するのは良くないと考えます。

目標とは、先にも述べたとおりマイルストーン、あるいはメルクマールです(ドイツ語に直しただけですが…)。なぜ目標を持つのかというと、目的達成に最適な道標だからです。目的は非常に曖昧というか、測定不能のものなので、近づいているのかどうかが分かりづらく、ややもすると日常の雑多な事柄に振り回されて目的を見失ったり、なかなか前進しなかったりします。

そこで、目的を見据えた上で、一定期間で測定可能な道標としての目標(マイルストーン)を設定することが、目的達成の近道となります。「資格試験に合格する」とか、「年収○万円を達成する」とか、「資産○万円蓄える」とか、「売上高○億円を達成する」とか、「子供は○人欲しい」とか、そういった類のものが目的に適っているのであれば、目標となりうるでしょう。

しかし、目標というのはそれを定めれば達成できるかというとそうではありません。そして、定めること自体は実はそれほど重要ではないと考えます。目標設定の最大の価値は、手段が明確になる点です。目標を設定することで、「今、何をすべきで、何をすべきでないか(我慢すべきか)」が明確になります。

良いか悪いかではなく(良いか悪いかは目的に照らして判断すれば足ります)、今すべきかどうかは設定した目標が導いてくれます。そして、何をすべきかという手段を明確にしたら、あとは、(次の設定時期まで)目標は忘れてしまったほうがいいと私は考えています。

私の経験則ですが、目標に固執しすぎると目標は遠ざかってしまうか、目標が大きく見えすぎて萎縮してしまいます。恋愛でも意中の人を求めすぎると成就しないように、すべきこと、すべきでないことに専念した方が結果につながりやすいと思います。

そうして、例えば1ヶ月とか、3ヶ月とか、別に1週間でもいいですが、一定期間経った段階で、目標を思い出し、目標が達成できているのか、近づいているのかを測定するとともに、再度今の目標が目的に最も適っているかどうかを検討し、違っていれば目標を修正し、新たな目標に向けて最適な手段が何かを検討する、というプロセスを踏んだ後には、再度目標を忘れてしまう(意識から外してしまう)わけです。

ところで、コミットメント(約束、誓約、公約)という言葉があります。目標をコミットすることが目標達成の強い動機となるということです。しかし、コミットメントには魔性が潜んでおり、毒にも薬にもなるということは留意しておく必要があると思います。

コミットメントは目標達成の強い原動力となり、何が何でも目標を達成しようとする力が働きます。そのため、あらゆる手段が駆使されることとなり、非常に厳しい目標でも達成しうる奇蹟が起こります。

しかしながら、コミットメントには二つの魔性が潜んでいると考えます。

一つは、コミットメントにより、目標が実体以上に大きく見えるという魔性であり、「ああ、とても自分には無理だ」と己に暗示をかけてしまうことがある点です。無謀な目標設定であればあるほどこの魔性の毒性は高まります。そして、日々は忘れるべき目標が常に頭から離れず、目標に執着しすぎて、返って目標を遠ざけてしまうものだと思います。

いま一つは、コミットメントにより、目的が見失われる魔性です。あらゆる手段を駆使するあまり、目標と目的が混同されてしまい、目標は達成できたとしても、目的からはずいぶんはなれたところに至ってしまう、それも取り返しの付かない場所に、ということが得てして起こり得るものです。

そんなわけで、コミットメントは、最善の手段と不屈の精神を提供するツールであることをわきまえ、魔性にとらわれないよう心がけることです。また、やたらに(場の雰囲気や成り行きで)コミットすべきではなく、コミットする価値を自分の中に見出した上で行なうべきだと思います。

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コメント

> 管理人様

目的と目標について、非常に興味深いご見解を拝見することが出来、勉強になりました。
よく、ウチの宗派では何の目的も目標もない坐禅に徹するべきだという教えがありまして、なにやらそれとの対比をしながら読みました。

達磨大師の言葉に「無功徳」というのがあります。これは、直訳すれば「功徳が無い」ということですが、翻ってみれば、特定の目標や目的に縛られて、自分自身を見失う事へのいましめであるともされています。或いは、我々の人生とは、社会的にはともかくその内面の本質は、外的な目標や目的とは異なった位相で存在しているということも意味していることになります。

幸せなどの感情的な問題は、ご指摘のように、量化することが出来ません。だからこそ、自分で形作るしか無いとも言えます。まぁ、世俗的には、それをなんとか「量化」したり、「外見的に分かる」ようにするために、様々な「幸せマニュアル」系の情報が売り買いされているんですけれども。。。

投稿者:  tenjin95   at 2006年11月06日 18:42

> tenjin95様

お読みいただけまして、また、コメントまでお寄せいただけまして誠にありがとうございました。

「目的」と「目標」について、偉そうに申し上げましたが、私自身の迷いに対する戒めとして、または、自らを鼓舞する意味で書き記したというのが正直なところです。

日々、「目標」に対して迷いを抱き、また、「目標」を見失います。「目的」にさえ疑問を感じることもままあります。

人の気持ちは揺れ動き、何かを思いついたり、行動を起こすと、その瞬間から矛盾だらけになってしまう気がします。そうして、結局は、あるがままを受け入れることに行き着きます。

そうなりますと、「目的」とは人(自分)が勝手に意味を見出したものに過ぎず、実体というか、意義などそもそも無かった、あるいは、あまりに過大視していた、という境地となり、ましてや「目標」などにとらわれていた自分が馬鹿に見えてきます。

さはさりながら、何のための人生か、という気持ちもあるため、再度、いろんなことに意味付け、意義付けをしていこうとし、同じ「目的」を掲げなおすことになります。そしてまた「目標」を検討する、という繰り返しです。

投稿者:  Vulcan   at 2006年11月07日 11:05
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