2006年 11月 09日

千羽鶴と只管打坐

投稿者 by vulcan at 00:50 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

座禅をしたのも、まだ先月の1回だけで、それもわずか20分のことですから、只管打坐について語るには経験不足を否定できませんが、少し思うところができたので語ります。

私は過去に千羽鶴を折ったことが一度だけあり、それは祖父のためでした。

祖父の余命が幾許も無いことがはっきりし、見舞いではありましたが、いよいよ最後の別れを覚悟して神戸に行くことになりました。その数日前より、祖父に奇蹟が起きることを願って千羽鶴を折ることを決意したわけです。

当時は、1時間でどれぐらいの鶴が折れるものか、さっぱり見当も付かない状態でした。折り始めて、がんばっても1時間で20羽、コンスタントにできるのは大体15羽だということがわかり、千羽折ることの大変さを、遅まきながら知りました。

その後、妻の大いなる助けを受けながら700羽ほど折り、弟と妹が100羽ずつ折ってくれ、最後の100羽は神戸に行ってから、両親や祖母、伯母、従兄弟などと一緒に見舞いの前夜に折りました。指先が痛くて痛くてたまりませんでしたが、折りきったことのうれしさが全てを癒してくれました。更に、既に千羽を折ってはいましたが、折り紙も余りがあり、見舞いの病院の待合室での手持ち無沙汰を紛らわせるために、ひたすら鶴を折っていました。

当初の動機は奇蹟を起こすことでしたが、次第に奇蹟などどうでも良くなり、とにかく祖父を思いながらひたすら折ることで得られる、精神的な安定感が非常に心地よかったのを今でも覚えています。

時には無心に折り、時には祖父の思い出に耽りながら折り、時には祖父の今の気持ちを思索しながら折りました。

そうした行いが、只管打坐に通じるものがあるように思う次第です。

本稿は次稿の前振りという位置づけです。それゆえ、千羽鶴と只管打坐との比較について、もう少し考え付くことがありましたら、次稿にて述べてみたいと思います。

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