ようやくのことで『豊饒の海』全4巻を読み終えました。
唯識の知識も乏しく、全編を通して触れられている阿頼耶識も全く歯が立たず、うわさどおりの非常に美しい文章に酔いしれたばかりでした。
なぜ今この時期に三島由紀夫の『豊饒の海』を読んだのだろうかと、その意味ばかりを考えておりましたが、おそらく自分に、「身を滅ぼすほどの自尊心を持ち続けよ」と鼓舞する一方、「過ぎた自意識によって身を滅ぼすな」と警告するために読んだのだろうと思います。
なお『豊饒の海』の感想をもう少し書こうと思いましたが、龍尾さんの感想を読み、恥ずかしくなりましたのでそちらを若干引用するに止めたいと思います。
「豊饒の海」は主題が一貫しておらず、物語りとして破綻している。 しかし、それぞれの巻での主題のブレっぷりが三島由紀夫の内的な世界を表しており、 結果として俺は、その破綻っぷりに人間としての三島の誠実や限界が見える気がして、故に「豊饒の海」全巻を愛している。
なお、三島由紀夫が自決したのと私の生れた年とが同じ昭和45年であり、私が生まれた方が先であるというのは、本書的に言うと私が三島の転生ではないことを示し、安永透少年にかぶって考えてしまいます。
【2007/1/17追記】
そういえば、透少年は『悪霊』(ドストエフスキー)に出てくるスタヴローキンに似ていると思います。スタヴローキンにはなりきれませんでしたが、そのスタヴローキンも何か、彼の目指す姿にはついになりきれなかった(それが何だったのかが分からなくなった)と思います。
三島由紀夫は「近代能楽集」が面白かったです。
投稿者: たんたん at 2007年01月17日 21:44『豊饒の海』は、未読なのでなんとも述べられませんが、私は『仮面の告白』が好きでした。
ただ『英霊の聲』のような心情を読まされると、三島自身の二ヒリスティックなヒロイズムを感じてしまいます。およそ本気では何も信じきれなかったのではないでしょうか。それが三島の韜晦な構えとなって、常に自分を演出し続けずにはいられなかったのではないかと思えます。
たんたんさん、ハンスさん、コメントをありがとうございます。
『豊饒の海』以外はまだ読んでおりませんが、ご紹介いただいたものも
読んでみたいと思います。
人生に妥協を許さないと決めたとき、精神が遊離するかしないかが、
三島になるかならないかの境目だと思います。自己を外からしか
見えなければ、演じていると意識してしまいますし、中からしか見えなければ、
三島にはなれません(なる必要はないのですが)。
そもそも妥協を許すのであれば、語る資格すらないわけです。
そんな風に思いながら、立ち位置を模索している次第です。
投稿者: Vulcan at 2007年01月18日 12:19