2007年 2月 24日

『上杉謙信』咲村観(2)

投稿者 by vulcan at 23:09 / カテゴリ: / 6 コメント / 0 TrackBack

「もっともに存じます。しかし殿は、筋目を重んじ慎重にことを運ぶ性質ゆえ、信玄や足利殿のような運命はたどられぬと思われます」
「そうであろうか。ともあれ、人間にとり、我執ほど怖いものはない。
それがしが合議でことを決めるのは、自らの一存による判断が、どれほど誤った結果をもたらすかを、知っているからだ。
乱世を生き抜くことは難しい。
苦しいときに耐え、好機に飛躍する。この考えに徹すれば、万事にならぬことはない。我が軍が敗戦の憂き目を知らぬのは、機を見て兵を引く術を、皆の衆が心得ているからだ。
攻めるだけが合戦ではない。
敵を知り己を知って、守りを固めることも、兵法の要諦。また、意に沿わぬ敵方と和することも、ときに心がけなければならぬ。
徳川家康は、これらを巧みに使い分ける天賦の才を備えている。それゆえに信長に臣従しながら、東海一の武将にのしあがったのであろう」

ここの部分は文脈としてのつながりとしてはどうかなと思うところではありますが、処世観確立の上では非常にまとまっており、魅力的な箇所です。我執(自分中心の考えにとらわれて、それから離れられないこと。)がいかに怖いかということは、私も常々そう思いますし、また、自らを反省する点も我執に尽きます。
また、成長とは、会社であろうが人間であろうが、常に右肩上がりというのは本当の姿ではなく、我慢をし、準備をした分だけ飛躍するものです。そして、その飛躍ですが、飛躍すべきときにしか飛躍できません。好機を見極める目を養うとともに、不断の努力により好機に備える心構えを大切にしようと思います。

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「信玄も『大環円』の構想のなかで、同種の考え方をしていた。しかし、信玄は外交戦略にみられるとおり、即物的、戦力的にしか相手の武将を見なかった。
それはそれで結構だが、打算的な行き方は一たび破綻すれば、瓦解する恐れがある。
信玄はそれを叡智で補ってきたが、権謀への腐心と心労のために、不治の病を患った。
加えて、焦慮の気持ちが強かったがゆえに、無理を押して上洛の兵を進め、自ら墓穴を掘ってしまった。
信玄に打算を廃し、時節を待つ心があれば、あれほどの知恵者、必ず天下を取っていたであろう。
(後略)」

世の中のほとんどは打算の論理で回っており、それを無視して行動することは時には身を危険にします。正義だけでは人は相手にしないし、利が無ければ動かないことも確かです。したがって、理と利で合理的に物事を進めることが即物的な成功を収めやすいのですが、ここでも言っているように「一たび破綻すれば、瓦解する」わけです。
理と利といっても本質的には屁理屈です。やはり、先ずは正義が基礎であり、その方針に基づいて、行動を起こしたり、相手を説得するときに、理と利をもって説くのが王道だと思います。

義景は優柔不断な男であった。
一揆への対抗上景虎と結びながら、信玄の西上が開始されると、義昭の斡旋に応じて一揆と和睦し、しかもそれを貫くことができず、いままた信長の誘いに応じて、反一揆の立場をとろうとしているのである。
「信玄の死により、義景の心がゆらいでいるのはわかるが、こう豹変しては誰にも信用されまい。
武将たる者は、そのときどきの情勢に応じて、判断を誤らぬことが肝心。
義景の行き方には巧妙に立ち回っていると見えて、見方にも敵方にも信頼されない自己中心の考え方が看取される。
いかに乱世とはいえ、人が納得する生き方ができる人物でなければ、諸将も庶民も従わず、運勢も開けぬ。
信長や信玄、家康などにはそれがあるが、義景にはない。
越前という絶好の地位を占めながら、また浅井長政というよき協力者を得ながら、信長の前に手も足も出ぬのは、そのためだ。
武将は旗幟と去就を鮮明にし、義と筋目を重んずる姿勢がなければ、大成は期し難い。その意味では、義景は策におぼれて自滅する典型的な武将と言えよう」

情勢の変化に応じた判断が重要であり、一度決めた方針に固執することが良いとは必ずしも言えませんが、方針がふらふらしていると信頼を落とします。確固たる信念があり、それに基づいた判断であることさえ間違いなければ、情勢変化に応じた方針変更は周囲の納得を得ることができるでしょう。信念に基づく確信があるからです。しかし、同じように情勢変化に応じて方針を変えるのですが、信念が無い場合、周囲の納得は全く得られません。そして、その信念ですが、正義の信念が最強だと思っています。

「信長とそれがしとは、考えに似通ったところがありながら、根本は違うのであろう」
返書を読み終えた景虎は、そうつぶやいた。
「天下取りを狙う武将は、皆強い個性を持っております。
それゆえにこそ、今日みられるような乱立状態が、生れたのでこざいましょう。
寄らば大樹の陰と申しますが、わたくしも殿の栄達に掛けて幸せだったと、今になって考えております」
実仍が言葉を返してくる。
「ばかなことを申すではない。それがしは、信長や信玄のように天下を取れる器ではない」
「殿がそのように弱気では、我々家臣の夢が、果ててしまいます。
武士は主君に自らの生涯を託しております。このことだけはお忘れなきよう」
「わかった。せいぜい精進仕ろう」
景虎は答えて笑った。

謙信が天下取りを狙っていたのか狙っていなかったのか、歴史家の意見の分かれるところのようですが、謙信が躁鬱であったとすれば、狙ったり狙わなかったりというのが実際かと思います。それはそれとして、主君の栄達を通じて、自らの夢を実現させるのが武士であというのは、精神的にも即物的にも言えることだと思います。主君と一心同体であれば主君の栄達は自らの栄達であり、主君の栄達により現実的には知行が増えるわけです。

労咳は死に至る病。いかな信玄とて、それから逃れることはできない。
予想以上に西上が早まったこと、三河侵攻以来の合戦に、執念にも似たすさまじさが感じられることなど、不可思議に思っていた謎のすべてが、これで解けたように思われた。
「信玄は信長の上洛に焦慮するあまり、わが身を傷つけたのであろう。
やはり人間焦ってはならぬ。一途にことを急いでも、地の利、時の運が伴わなければなるものではない。
信玄はこのことわりを知りながら、敢えて上洛の兵を進めたのかも知れぬ。
高齢と病ゆえに、死に花を咲かせる気持に、或いはなったのであろうか」

焦りは禁物とはよく言ったものです。頭では簡単なことなのですが、実際には難しいことであり、肝に銘ずべきです。

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2007年 2月 21日

就職が決まりました

投稿者 by vulcan at 19:49 / カテゴリ: 存在理由 / 4 コメント / 0 TrackBack

ようやくのことで、就職が決まりました。19日には口頭で内定を言われておりましたが、21日の本日、書面での内定をいただきましたので、ようやくひとごごちついた気分です。まずはご一報しておきます。

今回の転職に際し、いろいろな方にお世話になり、ご縁というもののありがたさを身に沁みて理解できました。

そんな中でもとりわけ感謝しなければならないのは、やはり祖母です。

祖母は、私が転職を決意したのを知ってから、毎日、須磨寺に願を掛けに行ってくれました。そして、護摩札に、私の転職の成功を祈念してしたためてくれたことで、それが須磨寺管長の小池猊下の目にも止まり、小池猊下までが、陰ながら私の転職を案じてくださっていたというのです!!!

猊下に面会の時間を頂いたことも、今思えば何と大胆不敵なのだろうと恐縮至極ですが、それが縁で、猊下にまで私の転職の成功を祈念して頂けたとは、何と私は果報者だろうと思わずにはおれません。

神仏のご加護と、祖母の愛情にひれ伏すばかりです。

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ところで、今度の就職先から口頭でオファーを頂き、こちらから入社の意思を申し出てから、口頭での内定を頂くまでの10時間ほどですが、非常に緊張が続きました。

入社の意思をお伝えする2時間ほど前から、順次、選考が進んでいる先に対して辞退の申し出を送り、また、お付き合いいただいていたエージェントの方々にも、就職活動が終了したことを告げました。

「大どんでん返しがあったらどうしよう」と思いながらの10時間でしたので、まさに神仏にすがる思いでした。

それから本日までは、その10時間ほどではないにせよ、実際に書面で内定を確認していなかったので、多少なりとも緊張がありました。

18日の日曜日、自分の意思が固まったことから、祖母に連絡しました。祖母は祝福してくれましたが、「21日まで願を掛けるつもりだったから、もう少し掛けておく」と言ってくれました。まさに、その21日の本日、内定書が届いたわけで、祖母の直感に驚いております。

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2007年 2月 21日

『上杉謙信』咲村観(1)

投稿者 by vulcan at 18:08 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

本書は、経営における心構えに通ずるものがちりばめられており、歴史小説というよりビジネス書ではないかと私は思います。そうした思いを持って読み進めましたが、以下の著者後書きを読んで納得しました。二度繰り返し読みましたが、非常に含蓄があり、「なるほど、歴史小説とは歴史を紹介するのが目的ではなく、歴史を材料に著者の思想を訴えることが目的であるのか」と今更ながら気がつきました。

ともあれ、史実をひもどいてわたくしが感じたことは、戦国時代も現代も、人間の意識構造はかわらぬということである。
善人もおれば、悪人もいる。
虚々実々の駆引きがまかりとおり、利害を軸にして離合常なく、そのなかで弱者や無能力者が亡ぼされてゆく。
現代のサラリーマン社会に似たものをみたように、わたくしは思った。
同時に不透明時代を生き抜く術は、生き方はと執筆中考えさせられた。
それを謙信の言葉としてあらわしたのが、この小説でもある。
信玄の生き方がよいのか、謙信のそれが正しいのかは、判断の分かれるところであるが、この物語のなかから、現代社会に通じるものを読者が汲み取られ、処世観確立の一助にしていただけるならば、幸いだと思う次第である。

なお、本書の執筆にあたっては、元金沢大学教授、井上鋭夫氏著、「謙信と信玄」(日本歴史新書、至文堂発行)の記述から、多大の知識を得たことを、特に付記しておく。

昭和五十八年二月

咲村 観

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本書は、『天の巻』『地の巻』『人の巻』の三巻構成であり、『天の巻』から紹介したいところですが、手元には後書きのある『人の巻』しかないので、趣向を変えて後から順に紹介することにします。私が感銘を受けたのはいずれも処世術に係る部分なので、後から順でもあまり支障はないと判断したのもその理由の一つです。

国主の地位に就いて以来、執念のように狙い続けた天下平定の夢は、これであえなく果てたのである。
”信玄の陣没といい、出陣を前にしてのそれがしの病といい、織田信長という武将は、幸運な男だ。
それがしは神仏の眼からみれば、信玄同様、歴史の一コマを彩る道化役者の武将に過ぎなかったのかも知れぬ”
諦めの気持ちとともに、思いがよぎってゆく。

いきなり死ぬ直前の場面ですが(笑)、信玄にしても、謙信にしても、信長にしても、秀吉にしても、歴史の一コマを彩る道化役者に過ぎないという見方をすると、感慨深いですし、気も楽になります。

「それがしも来年は四十九歳、いよいよ老境に入った。
合戦に明け暮れる生涯であったゆえ、普通人より或いは短命かも知れぬ。
しかし、それでよいのじゃ。越中、能登、加賀ほかの領国を得られただけでも、幸せだと思わなければならぬ。
天下取りの行方がどうなるかは、神仏のみぞ知ること、それがしが関知するところではあるまい。
ただ、やらなければならぬことは、生涯かけても果たすのが、人の道。
いまは率直に言って、そんな心境だ。」

『やらなければならぬことは、生涯かけても果たすのが、人の道』という一節に非常に惹かれました。信念の強さというものが、物事を、他人を、そして自分自身を動かす鍵だと思っています。

景虎の考えには、脱漏がない。
これまで指揮をとった合戦で、一度も敗れたことがないことが、それをあらわしている。
知恵の周りの早さと、勇気と果断さが、その原因であったが、”神は非礼を受けず”との人生観が精神的支柱となり、義のための戦いに徹する信念が、仏道への帰依とともに、その行動を規制する重要な要因をなしていたのである。

この点が、私が謙信を崇拝する所以であり、恐らく、私の弟も同様だと思っています。

「なるほど。殿の寛容さが、このような時期にわれわれの幸運となって帰ってこようとは・・・ともあれ、人間情けは施しておくものですな。
殿の生き方を手ぬるいと感じたときもございましたが、今にして思えば、それが正しかったと近頃になり、わかるようになりました」
「いかなる事態に見舞われようと、武将たる者、人の道をはずさぬことが肝要だ。
これは古今東西を問わぬ、理法でもある」

『正しさとは何か』ということを哲学した時期がありましたが、信念さえぶれなければ、どんな判断であろうと、いつかはそれが正しさとなるように今は思います。正しさなど無いのが本当であり、全ての判断は正しいというのも間違っていないと思います。しかし、信念がぶれているようですと、何をやっても、あらゆる判断が正しくないとなりえます。これが私の到達した結論です。

「やはり人間、そのときどきに、打つべき手は打っておくものだ。二十四歳のとき本願寺に礼を尽くしたことが、現在の困難な状況のなかで、これほどの成果をもたらそうとは、思いもおよばぬこと。
これで、信長の天下を覆し得る素地は整った。
あとは能登を制し、後顧の憂いなき状態に国内を固めて、上洛の兵を進めるだけだ」

22年前に打った手が今頃効果を示すというのは、人知の及ぶ範囲ではありませんが、何事もやるべきことをやるという心構えが、このような解釈を生み出すのだと思います。
何事も解釈である、というのがもう一つの私の結論です。事実は曲げられませんが、解釈はいかようにもなります。ポジティブに解釈することが肝要ですが、単なる能天気というのは反省すべきで、日々精進する心構えが伴わなければ真にポジティブにはなれません。精進していなければ、ポジティブに捉えてばかりいる自分が、実態と遊離してしまい、自分自身を信じられなくなるでしょう。
かく言う私も、時々自分自身を信じられなくなる、つまり、自信を無くすのですが。

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2007年 2月 07日

直観力

投稿者 by vulcan at 21:13 / カテゴリ: 存在理由 / 0 コメント / 0 TrackBack

現在、転職活動中なのですが、この際、直観力が非常に重要であることに気がつきました。

以前、『感性を研ぎ澄ます』の投稿で元上司の話を述べました。以前の会社の社名も先日の投稿にて明かしましたので、改めてご紹介したいと思います。

私が東洋信託銀行に入行後、最初に配属となったのは名古屋支店であり、その支店長がM氏でした。M氏は非常に人格的に優れた方で、それは、実家が刀田山鶴林寺(天台宗)であり、兄君がその住職を継いでおられ、仏心が高いがためであると思います。

人格的に優れているだけでなく、人生に対して非常に厳しい方でもあり、M氏に大喝されると私なぞは震え上がってしまいます。当時、融資稟議の説明を支店長に求められたときなど、蛇に睨まれた蛙よろしく、立ちすくんでいました。

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そのようなわけで、私は非常に尊敬しており、東洋信託銀行を去るときも、またその後も時々近況を報告しておりました。その後、私が海浜幕張に居を構えるようになり、M氏は一駅隣の新習志野に居を構えていらっしゃいましたので、子供が一人、また一人と増えるたびに祝福していただいておりました。

そんな間柄でしたので、人生の岐路が近づきつつあると感じた昨年7月、M氏と酒を交えて、二人っきりで話す機会をいただきました。その際に、M氏が仰ったのが以下の文句です。

「人生は短く、やらなければならないことは山ほどある。無限の時間を使って、思う存分一つ一つに時間をかけたいものであるが、悲しいかな、ゼネラリストはそれが許されない。したがって、限られた時間で多くのことを理解するために疑似体験力が必要となる。人(スペシャリスト)が二年かけて身に付けた実体験を、疑似体験力をもって15分で全て理解せよ。まるでその場に自分がいるかのように、手に取るように分かるようになるものだ。それがゼネラリストという名のスペシャリストが果たす役目だ。」

このときは、(そのようなものか)という思い、(果たして自分に身に付くだろうか)という不安がありましたが、このたびの転職活動において、30分程度で20~30社の候補先の中から紹介をお願いしたい1、2社を選び取るという修行を何度も何度も繰り返していくうちに、(なるほど直観力とはこのようなものかもしれない)と思うようになりました。

つまり、限られた情報を前に感性を研ぎ澄ませて対峙し、自分がその会社に入ったときの情景を思い浮かべ、どのように展開していくかをイメージしていくわけですが、何通りかの展開を想像する中で、現状に無理がある展開がなんとなく分かるような気がするのです。

非常にばら色の展開を予想するには、現状に矛盾点があるように思うと、おそらくそうした展開にはならないのだろうというような感じで消去されていく場合もあり、自分の描いた展開、つまり仮説に対して、現状がぴったりフィットする場合には、そのような展開が最もありそうな気になったりするわけです。

とはいえ、直観力が確実に備わったとは思っておりません。しかし、転職活動は、短時間で自分を売り込むための修行になるばかりでなく、直観力を養う修行にもなるとは思いもよらず、また、様々な方との縁も深まり、非常に自分のためになっていると実感します。

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